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 昨日の夕暮れのざわつきが、まだ胸の奥でうねっていた。


 陽菜と最高の歌を作る――その決意を抱きながら、俺はギターを握って河川敷を歩いていたはずなのに、記憶が不自然なほど鮮明に脳裏をよぎる。以前の俺と今の俺は違うはずだ。少し、強くなった気がしていた。


 ……だが、それは自分を欺くための薄っぺらな武装に過ぎないことを、俺はどこかで気づいていた。




 昼下がりの河川敷は、暴力的なまでの緑と水面を跳ねる太陽の光に満ちていた。湿った土の匂いが喉の奥までねばりつき、淀んだ川の臭いが肺をじわりと浸す。俺はベンチの端に腰を下ろし、膝の上で古びたギターの冷たい弦に指を置いた。木の温もりすら、今の俺には疎ましかった。


「……よし、書くか」


 絞り出した呟きは、乾いた風にあっけなく掻き消される。


 陽菜の病気。弱さ。死の予感。それらすべてを美しく包装したような歌を作ろうとしている自分に、胃の底がむかむかした。俺が作ろうとしているのは「最高の歌」なのか、それとも自分を慰めるための「鎮魂歌」なのか。


 指先に力を込め、最初の和音を奏でようとした、その時だった。


 ――パチン。


 高く、鋭い拒絶の音。弦が一本跳ね、指先に電気が走るような痛みが走る。切れた弦の残骸が、まるで陽菜の細い命の糸が尽きた瞬間のように視界の端で揺れ、父の笑顔やバラバラになったギターの記憶が泥のように溢れ出す。完璧を目指した瞬間、世界はいつも音を立てて壊れる。


 不意に、不協和音が混じった。


 柔らかい、だが土足で踏み込んでくるような足音が聞こえた。振り返ると、長い髪を風に遊ばせた少女が立っていた。人工的な甘ったるいシャンプーの香りが、清々しい昼の空気を塗りつぶしていく。俺は反射的に、傷ついたギターを隠すように抱え込んだ。


「幹也くんだよね?」


 射抜くような瞳。その奥に、俺と同じ「執着」の色を見た。


「……ああ。そうだけど。あんた、誰だよ」


「私は真奈。陽菜の親友。ねえ、今、君が作ってる曲、聴かせてよ」


 あまりに唐突な要求に思考が止まる。拒絶しようとしたが、彼女の視線は俺の指先――切れた弦の残骸に固定されていた。


 俺は半ば投げやりな気持ちで、五本の弦を爪弾いた。まだメロディの断片でしかない、静かで、非現実的に綺麗な旋律。


 弾き終えても、真奈はすぐには何も言わなかった。ただ、眉の端がピクリと動き、冷めた紅茶を眺めるような目で俺を見ていた。


「真奈さん?」


「独りよがり、じゃない?」


「……は?」


 頭に血が昇った。喉の奥が熱くなり、息が詰まる。反論の言葉が出てこない。


 その一言が、俺が最も恐れていた核心を正確に射抜いていたからだ。


 真奈は俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、遠慮なく隣に腰を下ろした。


「真奈って呼んで。後輩なんだし。……ほら、貸して。その足りない音、私が埋めてあげるから」


 彼女が差し出したのは、びっしりと言葉が書き込まれた一冊のノートだった。そこには、俺の知らない「生身の陽菜」がいた。


 彼女はノートを指先で軽く弾いた。


「ここ、陽菜ちゃんなら『綺麗』なんて言葉、絶対使わない。夜、ベッドの中でどんな顔して泣いてるか……あんたは知らないでしょ? 私だって、全部知ってるわけじゃないけどさ」


 彼女の言葉には容赦のない棘があった。でも、その声の端がわずかに震えていた。完璧な親友ではなく、同じように苦しんでいる人間の声だった。


 俺は何も言い返せず、ただ五本の弦を無造作にかき鳴らした。


 ジャリ、と歪んだ音が空気に混ざる。不完全で、耳障りな響き。


 その瞬間、真奈の瞳がわずかに細められた。


「……今の音、いいじゃん。陽菜ちゃんが求めてるのは、そういう『汚い音』だと思うよ」


「こうか?」


 俺は彼女のリズムに合わせてコードを変えた。俺の頭の中には存在しなかった、歪な響き。だが、鳴らした瞬間、ギターが体の中で喜んでいるように震えた。


「あんた……」


 センスがいいなんて言葉は喉の奥で飲み込んだ。ただ、俺の中にあった「正しさ」という名の檻が、彼女という不協和音によって壊されていくのを感じていた。


「ふふ、やっとマシな音になった。……ねえ、一緒に作ろう。陽菜ちゃんを、最後の輝きの歌を」


 昼風が草を揺らし、川面の光が網膜を焼く。


 完璧な調和なんていらない。この歪な、壊れかけの、不協和音こそが、今の俺たちには必要だった。


「……続き、やるぞ。あんたのその、ムカつく歌詞に合わせてやる」


 真奈は一瞬だけ目を丸くして、それから少し照れたように笑った。


「上等。最高の『不協和音』にしてあげようじゃない」


 ギターの弦は一本足りないまま。


 けれど、その欠落からしか生まれないメロディが、確かにこの河川敷から、陽菜のところへと流れ始めていた。


 ――陽菜が居なくなった後も、この河川敷で俺と真奈は、きっとまた弦を切らしながら、何度も何度も弾き続けるんだろうな。


 それは間違いなく、陽菜へ届くための「生きた鼓動」の始まりだった。

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