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 高校生で、生死についてここまで考えるとは思っていなかった。


 人はもっと大人になってから、死を考えるものだと思っていた。仕事に疲れたり、誰かを失ったり、人生が壊れたりしてから。


 少なくとも――

 放課後の教室で、当たり前みたいに始まるものじゃない。


 哲学者は言う。

 人間は、死を理解している唯一の生き物だと。


 でもそれは、少し違う。


 人は普段、死なんて理解していない。ただ「自分にはまだ関係ない」と思い込んで生きているだけだ。


 俺も、そうだった。


 今までは。


 世界は何も変わらなかった。

 空は青かったし、チャイムはいつも通り鳴っていた。


 それでも――

 確かに、何かが終わり始めていた。


 俺たちの時間が、

 静かに、確実に。




「何、ボケっとしてる?さっさと入るぞ」


 明が肩を叩いてくる。


 音楽室の扉を開けた瞬間、甘いチョコレートの香りがふわりと広がった。肺の奥まで染みて、部屋全体を柔らかく包む。机の上に並ぶ包み紙を剥かれたチョコの塊が、淡い光を反射している。


 まだ冬の冷たさが残る廊下とは違い、ここは少し息苦しいほどの甘さで満ちていた。


「陽菜、ちょっとじっとして。チョコ、口元についてる」


 真奈がハンカチを手に取り、陽菜の頬を拭った。指先がわずかに震えていて、チョコの欠片が落ちる音がやけに大きく聞こえた。陽菜は「もう、真奈ちゃんは心配性なんだから」と笑ったが、真奈は答えず、ただもう一度、ゆっくりと拭った。


「先輩、待ってました!」


 陽菜が顔を上げ、笑顔を向けてくる。昨日病院で見せた、あの凛とした目。胸が圧倒されて、俺は一瞬、足が止まった。


 明が肩を軽く突きながら、低い声で言った。

 

「……おい、足が止まってるぞ。陽菜の顔見て固まるなよ」


 この前、彼女の覚悟に応えると誓ったはずだ。ここで立ち止まって見惚れているだけじゃ、意味がない。


 彼女が命を懸けて進もうとしているなら、俺はそれ以上の熱量で、彼女の隣に並び立たなきゃいけないんだ。俺は深く息を吸い、迷いを振り切り、一歩踏み出して彼女の隣に腰を下ろした。





 歌詞作りは、陽菜の「生」という熱を、一つひとつ言葉へ翻訳していく作業だった。「燃え尽きる前に——」陽菜が真っ先に綴ったその言葉に、明がベースの重厚な弦を鳴らした。低い振動が床から足の裏を通り、胸の奥まで響き渡る。彼は音を止めて陽菜の目を見つめ、静かな声で言った。


「陽菜。……お前は、この歌を誰に届けたいんだ?」


「『燃え尽きる前』なんて、ありきたりな言葉でお前の人生を括るなよ。お前が夜中に痛みに耐えて、それでも必死に朝を待ってるその『足掻き』は、もっと泥臭くて、もっと強いはずだ。綺麗な言葉で飾るより、その不格好な熱をここに書け。不協和音があるからこそ、旋律は美しくなるんだ」


 陽菜は一瞬、目を見開いたが、すぐに力強くうなずく。


「……そうだよね。明会長、ありがとう。私、みんなに心配かけたくなくて、つい『綺麗な自分』を見せようとしてた。でも、この歌は私の全部じゃないと意味がないもんね」


 明が弦を鳴らした瞬間、昨日の夜、河川敷から吹く冷たい風を思い出した。あの時、俺は明を呼び出し、陽菜の病気をすべて伝えた。


 がんがすでに末期であること。医師から下された余命宣告。彼女が誰にも心配をかけまいと笑顔を貼り付け、夜中に一人で痛みに耐えている現実——言葉一つひとつが喉にからみつきながらも、俺は隠さずに話した。


 明は長い間、黙って聞いていた。前髪の下の瞳が、徐々に強い光を帯びていくのがわかった。


「明。本気で曲を作りたい。陽菜のために、彼女がまだこの世界にいるうちに、最高の歌を届けたい。お前がベースを弾いてくれ。本気で、一緒にやってくれないか。」


 やがて明はフェンスから体を離し、静かな、しかし揺るぎない声で言った。


「生徒会選挙の時、お前が俺を助けてくれた借りがある。友達としても、断る理由はない。」


 彼はまっすぐに俺を見て、はっきりと言い切った。


「ただ……やるからには妥協なんかしない。本気でやるぞ。綺麗にまとめるつもりはない。お前の熱と同じだけ、俺のベースで陽菜の影も痛みも全部抉り出す。不協和音も、泥臭さも、全部受け止めて音にする。それが俺のやり方だ。それでいいな?」


 その不器用で真っ直ぐな言葉に、俺の胸の奥が熱くなった。こうして明は、陽菜の命と向き合う覚悟を、静かに、しかし確かに俺と共有してくれたのだった。




「陽菜。大丈夫、あんたがどんな言葉を書いても、私が全部支えてあげるから」


 真奈が陽菜の背中に手を添えた。その温もりが、部屋の空気を少し柔らかくした。陽菜は「肺に詰まる灰さえも、光に変えてみせる」とノートを書き換え、彼女の筆致が部屋に熱気を広げた。


 俺たちのペンも、祈るような速度で走り始めた。俺も加わって何度も提案を重ねたが、結局まだ完成しない。やがて明がノートを閉じ、低い声で言った。


「今日はここまでだな……各自で持ち帰って、明日また考えよう」


「俺はまだ生徒会の仕事が残ってるから、ここに残るよ。明日またな」


 真奈が立ち上がり、陽菜の頭を軽く撫でた。そして彼女は俺の方を向き、柔らかな笑みを浮かべて言った。


「じゃあ幹也くん……陽菜のこと、ちゃんと家まで送ってね!」


 その言葉は冗談めかした軽やかさで響いたが、奥底に何か重いものが揺れている気がした。




 帰り道、夕陽が世界を黄金色に溶かし、河川敷の風が肌を優しく撫でていた。昨日真奈と語らったあの場所を、陽菜は軽やかな足取りで歩き、ウィッグの毛先が風に揺れる。


「先輩、私、今日で確信しました。明くんの言う通り、私の影も、痛みも、全部が“一等星”の一部なんです。だから、最高の歌になりますよ!」


 彼女が立ち止まり、俺を見上げる瞳は、どんな絶望も焼き尽くすほど清らかで凛としており、夕陽の光がその奥で静かに燃えていた。


 その美しさに、そして彼女が背負うものの重さに、心が激しく揺さぶられた。彼女の覚悟に応えたい。この瞬間を、一瞬たりとも逃したくないという想いが胸を締めつけ、気づけば俺の手は陽菜の手首を掴んでいた。


 細く華奢な骨の感触に、確かに熱い血が通う鼓動が伝わり、指先に残るチョコの甘い残り香が鼻を掠めた。陽菜に生きて欲しいという、胸を焦がすほどの想いが溢れ出した。


 指先が彼女の頬に触れた瞬間、温もりが電流のように走った。夕陽が彼女のウィッグの毛先を金色に染めていた。俺は唇を近づけながら、喉の奥で息を詰まらせた。


 唇が触れそうな距離で、俺は止まっていた。キスをしようとする衝動——それは、彼女の命をこの唇で確かめ、永遠に繋ぎ止めたいという、原始的で剥き出しの渇望だった。


「……っ、先輩?」


 陽菜の瞳が驚きに見開かれ、夕暮れの風が二人の間を吹き抜ける。唇が触れそうな距離で止まった俺の情けない顔を、彼女は逃げずに見つめ、ふっと包み込むような温かい微笑みを浮かべた。


「……先輩、そんなに私のこと、大事に思ってくれてるんですね。嬉しいです」


 陽菜が俺の手に自分の手を重ね、その温もりがすべてを優しく溶かした。


「でも、この続きは……最高のステージで、歌と一緒に届け合いましょう?」


 その優しくも強い言葉に、指から力が抜け、俺はまた救われた。いつだってそうだ。俺が彼女を支えているつもりで、本当は彼女の光に支えられている。……なんだこれ。


 そんなの、悔しいとか、嬉しいとか、うまく言葉にならなくて、ただ胸が苦しくて、足が勝手に彼女の背中を追いかけていた。


「……ごめん。俺、つい」


「いいんですよ。先輩のその熱さがあるから、私はどこまでも走れるんです」


 陽菜が屈託なさそうに笑い、風で乱れたウィッグの毛先を耳にかける。


「さあ、帰りましょう! 明日はもっとすごい言葉、見つけちゃいますよ!」


 河川敷を吹き抜ける風が、真奈の純粋な慈愛と明の誠実さと、そして俺たちの誓いを、未来へと優しく運んでいく。


 俺は前を向いて歩き出した彼女の背中を、今度は一人の対等なパートナーとして、迷いなく追いかけていった。


 光を掴むこの手は、もう二度と離さないと、魂に刻みながら。

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