十一
音は、残酷なほど嘘をつけない。
言葉ならいくらでも塗り潰せるのに。
喉元まで出かかった本心を飲み込んで、
正反対の愛想笑いを貼り付けることなんて、
器用な人間なら造作ない。
けれど、楽器は違う。
弦を弾いたその刹那、
スティックを振り下ろしたその一撃。
指が震える。
心が迷う。
隠しきれなかった卑怯な打算が、
全部が音の粒となって空気に晒される。
隠せない。
どうしようもなく。
俺の膝の上のギターが、重い。
手元にあるノートには、陽菜のために書き上げた歌詞が並んでいる。
けれど、一人でギターを鳴らすたび、
空虚な余白が俺を嘲笑うようだった。
足りない。
俺の旋律を地面に叩きつけ、命を吹き込む鼓動が。
あいつの音じゃなきゃ、この曲は完成しない。
分かっているのに、俺たちは取り返しのつかない壊れ方をしてしまった。
俺と純也の因縁は、中学時代という逃げ場のない季節に、深く、重く沈殿した。
今になって振り返れば、あいつは本当に太陽みたいな男だった。乱暴に笑い、規格外のエネルギーで周りを巻き込む。
俺はその光に当てられながら、心のどこかで「あいつは俺の旋律を飾るための、最高の打楽器」として飼い慣らしているつもりでいた。
中学生の俺は、たまたまギターが弾けるというだけで「俺は特別だ」とかいう謎のプライドを抱いて、周りが誰も弾けないのをいいことに青臭い優越感に浸っていた。
純也も俺も、ただ音楽が好きで、好きだからこそ一生懸命だった。それが、結局は自分のエゴが起こした喧嘩だった。
今振り返ると、とんでもない黒歴史だ。まだ中学生のくせに、よくもあんな恥ずかしいセリフ吐けたもんだ。今でも顔から火が出そうになる。
中学二年の夏。俺たちの世界は、部室の埃っぽい空気と、共有した一本のペットボトルの中にあった。
純也は体が大きく、いつも少し汗の匂いがした。あいつがドラムセットの前に座ると、それだけで部室の密度が上がる。
俺が書いた稚拙な曲に、あいつが野性味のあるビートを乗せる。その瞬間、停滞していた空気が一気に爆ぜる。その疾走感だけを信じていた。
「幹也、お前のメロディー、最高に跳ねさせてやるよ!」
あいつはそう言って、太陽みたいに屈託なく笑う。俺はその笑顔を眩しいと思いながらも、内心では「俺の音楽を増幅させるための優秀な装置」として純也を心のどこかで定義していた。
俺の繊細な世界を、あいつが力強く支える。結果的にはその歪な主従関係こそが、当時の俺にとっての友情だった。
俺は、片想いしていたクラスメイトに捧げるためのバラードを書き上げた。夜の海をなぞるような、静謐で、誰にも侵されたくない聖域のような旋律。
「合わせようぜ」
純也はいつものようにスティックを回し、嬉しそうに頷いた。
最初は、祈るようなブラシの音が俺のアルペジオを優しく支えていた。心地よい調和。だが、サビに入った瞬間、あいつの「熱」が溢れ出した。
ブラシがスティックに持ち替えられ、重厚なバスドラが床を震わせる。繊細だったはずの旋律が、純也の野生的で暴力的なまでのビートに塗り潰されていく。俺の歌声は、あいつの生み出す音の渦に飲み込まれ、形を失っていく。
「……やめろよ」
俺の指が弦を強く押さえ、不協和音が響いた。
純也が一瞬手を止めた。汗だくの顔で、目を丸くして俺を見る。
「え?どうした?今めっちゃいい感じじゃね? ラストの盛り上げ、もっとぶち上げられると思ってよ!」
「やめろって言ってんだろ……」
俺の声は震えていた。心のどこかでは、純也のドラムがめちゃくちゃカッコいいと認めていた。親友だって思っていた。でも、あのビートが俺のメロディーを完全に飲み込もうとしている瞬間、変なプライドが喉までせり上がってきた。
純也はスティックを握り直し、ちょっと困ったように笑った。
「だってよ、幹也。この曲、あの子に聴かせるんだろ? お前が本気で想ってるやつに、ただ綺麗なだけじゃ届かねえよ。俺のドラムで、もっと熱く、もっと遠くまで飛ばしてやりてえんだよ!親友の初めての告白、絶対成功させたいじゃねえか! ……俺も、お前のメロディーに乗っかって、いい感じにさ!」
その言葉が、俺の胸に突き刺さった。
純也は本気だった。ただ俺の曲を、俺の想いを、最高の形にしたかっただけなんだ。
なのに俺は――
「うるせえよ!お前のドラムなんか、ただの騒音だ!」
言葉が勝手に出た。本心じゃない。純也のドラムは最高だって、ずっと一緒にやってきて一番わかってるのに。
純也の笑顔が凍りつく。
「……は?」
「これは俺の曲だ。お前はただ、俺のメロディーに合わせて叩いてればいいんだよ!脇役のくせに、主役を喰おうとするなよ!」
純也の大きな体が、わずかに揺れた。
「脇役……?俺、そんなつもりじゃ……。お前と一緒にやってるからこそ、もっと良くしたくて……」
「頼んでねえよ!お前のビートが全部台無しにしてんだよ!あの子に聴かせるのに、そんなドカドカした音いらねえ!お前がいると俺の歌が死ぬんだよ!」
俺は自分でも止められなかった。
違う。違う。違う。
胸の奥で叫んでる声が、舌の上で溶けて消える。
でも口は止まらない。中学生の青臭いプライドと、純也の光に喰われそうになる恐怖が、全部ひっくり返して吐き出していた。
純也の目が、みるみる潤んだ。汗と一緒に、大きな涙が一粒、頬を伝った。
「……幹也。お前、本気でそう思ってんのか? 俺は、ただ……お前の曲を、最高にしたくて……」
「なにが最高だ! お前みたいなデカい音じゃ、俺の繊細な世界がぶっ壊れるだけだ!一人で勝手に叩いてろよ!」
最後の言葉を吐いた瞬間、純也の顔から血の気が完全に引いた。
純也の背中が部室のドアの向こうに消えた瞬間、俺は弦を握ったまま床にへたり込んだ。
埃っぽい空気に、ペットボトルの水滴が落ちる音だけが響いていた。
音は嘘をつかない。
言葉だけが、俺を殺した。
それが、部室での決定的な破局だった。
三日間、俺は純也の視線を避け続けた。
廊下ですれ違うたび、あいつは目を逸らし、俺はギターケースを胸に抱きしめた。
部室の鍵は、どちらも持たなかった。
ペットボトル一本分の友情が、埃の中に沈んだまま。
三日後の、三階渡り廊下。
夕陽が、凝固した血のような赤さで廊下を焼いていた。
頬を青黒く腫らした俺の前に、純也が立っていた。
「……どけよ」
俺は低い声で言った。純也は何も言わず、ただ俺を見つめていた。その目は、まだどこかで俺との修復を望んでいるような、捨てられた犬のような悲しみを湛えていた。だが純也の口から出た言葉は違った。
「あの子言ってたぜ。お前のギター、うるさくて迷惑だってよ。お前がいると、俺のドラムが台無しだってよ」
その一言は、俺の逆鱗に触れた。
「……そうかよ、なら、俺が言ったことも正解だな。俺とお前じゃなんにも出来ないってことだな」
声が震えていた。次の瞬間、あいつは俺の肩を強く突き飛ばした。ギターケースがコンクリートにぶつかり、ジャランと不協和音が鳴る。木が割れるような乾いた音が響いた。
俺はよろめきながらも、負けじと吐き捨てた。
「本当だよ。お前もドラムも!あんなにデカい音じゃ、誰も聴かねえよ!」
その言葉が、純也の最後のブレーキを外した。
「……幹也、お前……」
純也の目が、怒りに燃えながらも、どこか泣きそうに歪んだ。あいつは拳を握りしめ、ゆっくりと近づいてきた。
最初の一撃は、俺の頬に炸裂した。
重い。まるでハンマーだった。視界が白く飛び、俺は壁に背中を打ちつけた。
汗と鉄と埃が混じった匂いが鼻を突く。血の味が舌に広がる。
「痛っ……!」
反射的に俺も拳を振るった。でもあいつの大きな体にはかすりもしない。純也は俺の腕を片手で払いのけ、再び拳を振り下ろした。今度は腹に。息が詰まり、俺は膝をついた。
それでも純也は止まらなかった。
ドンッ。
「なんで……なんでそんなこと言うんだよ……!」
ガツンッ。
「俺、お前のこと……親友だって思ってたのに……!」
俺は床に転がりながら、必死に抵抗した。でも純也の力は圧倒的だった。殴るたびにあいつの大きな体が震え、汗と一緒に涙が混じっているのが見えた。
純也は俺の胸ぐらを掴み上げ、何度も壁に押しつけた。拳が俺の顔面に何発も飛んでくる。廊下に鈍い打撃音と、俺のうめき声だけが響いた。
殴り合いは、正確には「殴られる」一方だった。純也は本当は殴りたくないはずなのに、俺が吐いた言葉があいつをここまで追い詰めていた。
「もう……やめろ……」
俺の声が掠れた瞬間、遠くから先生の怒鳴り声が聞こえた。
「何やってるんだ!おい、止まれ!」
先生が駆けつけるまで、純也はあと三発ほど俺を殴り続けた。 最後の拳を振り下ろしたとき、あいつの目から大粒の涙がこぼれ落ちたのを、俺ははっきりと見た。眉の間が深く裂けるように歪み、唇が震え、目が俺以上に泣いている。
音も、拳も、涙も、全部が嘘をつかない。
先生に引き離された後も、純也は俺を睨みながらも、その瞳はただただ悲しみに満ちていた。
「……勝手にしろよ、幹也」
かすれた声でそう言って、あいつは先生に連れられながら廊下の奥へ消えていった。
その後のことは、ほとんど記憶にない。
親同士の話し合いなんて、俺は一言も覚えていない。互いの親が「警察沙汰にはしたくない」という思いで、形だけの謝罪を交わして終わらせただけだ。
「もうこういうことはしないように」みたいな、事務的な言葉が飛び交った気がする。でも本当の解決なんかじゃなかった。ただの謝罪だった。
それよりも、親友だった純也と、こうなってしまった事実で、俺の頭はそれだけでいっぱいだった。胸が締めつけられるような、後悔と虚しさだけが残った。
血の味と、埃の匂い。そして、あいつの奏でていた力強いビートの残響。
それが、俺の青春が永久に欠損した瞬間の、すべてだった。
あの後、あの子に「曲はどうした」と聞かれたとき、俺は「ギターをなくした」とだけ言って逃げた。
本番なんて最初からなかったのに、純也はそれを、俺がバンド仲間を本番前に俺のエゴで裏切ったと受け取ったに違いない。
俺はこの喧嘩の件を、ちゃんと謝らなくちゃいけない。仲違いしたまま、後悔だけを抱えて終わりたくない。文化祭のステージにあいつと立ちたい。
それは、陽菜に教えられたことだった。
だから、俺は純也と和解できるかどうかは分からない。それでも、ちゃんと話し合いをしたいと思う。




