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十二

 夜の河川敷には、湿った土と腐葉土の生臭さが滞留していた。


 かつて中学の校舎裏で純也と殴り合ったあの日、口の中を切った血の味が、今も舌の裏側にへばりついている。あの時流した血はもう乾いたはずなのに、俺たちの間にある「泥濘」だけは、何年経っても乾くことを知らない。


 冷たい夜風が指の間をすり抜け、膝の上のギターは壊れたように響かない。


「幹也」


 背後から届いた、地を這うような低い声。その響きだけで、心臓が肋骨を内側から叩く。振り返ると、そこにはかつての親友であり、今の俺にとっては最大の負い目の象徴である純也が立っていた。


 あいつは俺と目を合わせようとせず、少しだけ伸びた前髪の隙間から、足元の小石を無意味に蹴り飛ばしている。その姿は、あの頃と何も変わっていないようで、決定的に何かが損なわれていた。


「……こんな所に呼び出して、何の用だ。この前の仕返しでもするつもりか? お前が泣いて土下座でもするなら、考えてやらんこともないが」


 純也の声には、隠しきれない棘があった。けれど、その棘の奥に、かつての熱量はもうない。ただ冷え切った、乾いた拒絶だけがある。


「……いや。中学の頃のこと、謝りたくて」


 喉の奥が引き攣り、上擦った声で、ようやくそれだけを吐き出した。あまりにも遅すぎた言葉。数年の月日を経て、腐敗しかけた謝罪。


「今更かよ。お前、あの時、俺の音を『殺してる』って言ったんだぞ。俺のドラムは雑音だって、そう言い放ったのはお前だろ」


「分かってる。本気で叩いてたお前を、俺の言葉が殺したんだ。つまらないプライドで、お前の音楽を否定して、俺は自分の正しさを守りたかっただけなんだ。でも」


 俺はギターのネックを、折れんばかりに握りしめた。


「でも、お前のあの、心臓に直接響くような、無骨で身勝手なドラムがないと、この曲は死んだままなんだ。俺一人じゃ、どうしても完成させられないんだよ」


 言葉が砂みたいに喉に引っかかる。陽菜の名前をあえて伏せたまま、喉の奥でその存在をなぞった。彼女が俺たちに課した、あまりにも残酷で、けれど抗いがたい「呪い」のような願い。

 純也の足が、ぴたりと止まる。


「だから、これを」


 俺は震える手で、懐から用意していた譜面を取り出そうとした。けれど、指先が凍りついたように動かない。受け取ってもらえるはずがないという恐怖が、俺の動作を縛り付ける。


「もう、持ってる」


 意外な言葉に顔を上げると、純也はポケットから、くしゃくしゃになった紙の束を取り出した。俺が渡そうとしたものと同じ、何度も読み込まれ、指の跡がついた汚れた譜面。


「昨日の夜、赤松から電話が来た。お前が作った曲だって聞いて、今更何やってんだって笑ってやろうと思ったが。あいつ、電話越しの声に、これっぽちも冗談が混ざってなかった。『お願い、佐々木くん。死ぬ時に私を後悔させないで』なんて。あんな掠れた声で、脅迫みたいに言い切られちまったら」


 陽菜は、俺から過去の因縁を聞いた直後、俺たちが躊躇している間に先回りしていたのだ。自分の命が残り少ないことを、最大限の武器にして。


「あいつ、本当に頭おかしいだろ。俺みたいな停学中の、将来も何もない半端者に、人生の最後を賭けやがって。勝手に死にかけてる分際で、俺とお前を繋ぎ止めようとか、本当にお節介で最悪な女だよ」


 純也の目が、ゆっくりと俺を射抜いた。その瞳は、怒りではなく、自分でも整理のつかない感情に揺れている。スティックを握りすぎて硬くなった指が、譜面を握りしめ、くしゃりと音を立てる。あいつの喉が、重く動いた。吐き気を堪えるような、不器用な嚥下だった。


「それでも、無理だ。そんな簡単に、元に戻れるわけねえだろ。俺とお前が、何年も何年も……何回殴り合ったと思ってんだよ。俺のドラムとお前のギターが、今更噛み合うはずがねえ」


「分かってる。戻れるなんて、これっぽっちも思ってない。許してくれとも言わない。自分勝手な考えで、俺はお前を傷つけたし、恨んで当然だ」


「でも……彼女の、陽菜の、世界で一番贅沢で、一番美しい暇つぶしに付き合って欲しいんだ」


 俺は言葉を言い終えると同時に、膝を地面に落とした。額を冷たい土に押しつけ、両手を突いて深く頭を垂れた。土下座。かつてあいつに与えた傷の深さを、今ここで全部返そうとするように。


「……付き合って欲しいんだ、か……。お前が土下座までして俺にそんなこと言う日が来るなんてな。……馬鹿かよ」


 純也は、陽菜から手渡されたというその譜面を、指が白くなるほど強く、大切そうに握りしめた。


「俺は、あの女が最期に残した、どうしようもない『暇つぶし』に付き合うだけだ。自分の残された時間を削ってまで、俺なんかに頭を下げてきた、あの馬鹿な女の気が済むようにな。……お前のためじゃない。あいつを後悔させたまま逝かせたくない、それだけだ」


 純也はそこで一度、深く、重い息を吐き出し、ぼそりと付け加えた。


「この前も、殴って悪かった。お前のギター……あの時から、嫌いじゃなかったよ。この曲も、死ぬほど癪だが、悪くねえ」


 あいつはそのまま、一度も振り返ることなく闇の中へ歩き出した。去り際の背中から、風に乗って小さな舌打ちが届いた。それは、俺に対する拒絶というより、自分自身の割り切れない感情を無理やり飲み込もうとする音。


 あいつなりに、この地獄のような現実を、音楽という名の「暇つぶし」で塗り潰そうとしているのだ。


 一人残された河川敷で、俺は再びギターを爪弾いた。


 今度は、低いEの音だけじゃない。陽菜が愛し、彼女が俺たちに託した旋律を、祈るように奏でる。


 文化祭まで、あと十二日。

 許し合えたわけじゃない。和解なんて綺麗な言葉で片付けられるほど、俺たちの過去は軽くはない。積もった泥濘が乾くことも、この先一生ないだろう。


 これは、救済のための音なんかじゃない。

 死にゆく一人の少女が、残酷すぎる運命をやり過ごし、最期の瞬間まで「自分」でいるための、ただの「暇つぶし」。


 それでも、俺たちの音は、彼女のためにまだ息をする。


 冷たい夜風がギターの弦を震わせるたび、俺の胸の奥も同じように軋んだ。

 罪も、痛みも、あの血の味も。


 そして互いへの、到底許しがたい、けれど捨て去ることもできない執着も。


 そのすべてを曝け出して、俺たちは音を鳴らす。たとえその先に、別れしか待っていなかったとしても。


 俺たちはまだ、これ以上ないほど不格好に、歪に、足掻きながら生きているのだから。

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