十三(side陽菜)
部屋の明かりを消すと、途端に闇が私の輪郭を曖昧にしていく。
ベッドの上に横たわると、重力に従って肺の奥の黒い染みが臓器を圧迫するのがわかった。息を吸うたびに、乾いた落ち葉を踏み砕くような嫌な音が胸の奥で鳴る。処方された強い鎮痛剤の、舌の根にへばりつくような化学的な苦味。それが今の私の「生」の味だった。
「人生なんて、どうせ死ぬまでの暇つぶしに過ぎない」
幹也くんと語り合った、あの日の会話が色濃く脳裏に蘇る。二人で共有した、あの哲学めいた言葉。誰もがいつかは死ぬ。それが七十年後か、たった数ヶ月後かの違いでしかない。
だとしたら、私に与えられた暇つぶしの時間はあまりにも短くて、理不尽だ。痛みに耐え、ただ朝が来るのを待つだけの夜は、美しい暇つぶしと呼ぶにはあまりにも残酷すぎる。
だからこそ、この理不尽な世界で息絶える前に、私には「音楽」という唯一の武器が必要だった。暗闇から私を引きずり出してくれる、絶対的な救済が。
右手で、そっと自分の唇に触れた。
指先にまだ、夕暮れの河川敷の熱がこびりついている気がした。
幹也くんの指が私の頬に触れた時の、火傷しそうなほどの温度。肺の奥まで侵食してくるような、甘いチョコレートのような残り香。唇が重なる寸前、彼の瞳の奥で揺れていたのは、私に対する純粋な愛情と、それと同じくらい巨大な「喪失への恐怖」だった。
本当はキスをしてほしかった。
彼のその熱で、冷えきって腐敗していく私の体を、この世界に縫い留めてほしかった。本能がそう叫んでいた。
でも、もしあの時、私が彼に縋って泣いてしまえば、私と一緒に暗闇へ引きずり込まれてしまう。彼には、明日が続くのだ。私が灰になって消えた後も、この残酷な世界で暇つぶしを続けていかなければならない。だから私は、笑って彼を突き放した。「最高のステージで届け合いましょう」なんて、自分でも呆れるほど綺麗に澄ました言葉で。
文化祭まで、あと二週間を切っている。
残された時間は、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように少ない。
明先輩と真奈ちゃんは、既にバンドの活動に全面的に協力してくれている。真奈ちゃんの献身的な優しさと、明先輩の不協和音すら包み込むようなベースの重低音。それは確実に、私たちの音楽に血を通わせ始めている。
けれど、幹也くんのギターが鳴るたび、私はその旋律の底にぽっかりと開いた「空洞」を感じていた。
綺麗なだけじゃだめなのだ。そんなものでは、死の恐怖は殺せない。幹也くんが抱える後悔も、押し殺している激情も、すべてを曝け出さなければ、彼の音楽は決して完成しない。その空洞を埋め、本物の救済に変えられるのは、かつて彼が切り捨てた親友の音だけだ。
幹也くんは彼のドラムを「俺の繊細な曲を壊す雑音だった」と、自嘲するように語っていた。けれど、その震える声の底には、どうしようもないほどの渇望と、いまだ癒えない彼への執着がべっとりとこびりついていた。
彼の生み出す、無骨で、暴力的で、生命力そのもののようなビート。それに自分の音が飲み込まれてしまうのが怖くて、幹也くんはつまらないプライドで彼を切り捨てたのだ。
だからこそ、私には分かる。幹也くんの音楽を本当の意味で生かすことができるのは、あの熱だけなのだと。
打楽器の振動は、誤魔化しがきかない。心臓の鼓動と同じだから。
私は、枕元のスマホを引き寄せた。
真奈ちゃんにお願いして、明先輩経由で調べてもらった彼の連絡先。冷たい液晶画面の光が、私の青白い顔を無機質に照らし出す。
発信ボタンを押す指が、わずかに震えた。
数回の長いコールの後、警戒するような低い声が鼓膜を打った。
『……もしもし。誰だよ』
「夜分遅くにごめんなさい。赤松陽菜です。幹也先輩の……後輩です」
電話の向こうで、いらだたしげな息遣いがピタリと止まった。停学処分を受け、別室での謹慎を経て社会からも学校からも切り離されている彼の、ささくれ立った空気が電波越しに伝わってくる。わずかな空白の後、彼の低い声が響いた。
『……あ?赤松?……ああ、あの時の、幹也の傍にいた女か』
「はい。急に電話してごめんなさい。でも、どうしても純也くんにお願いしたいことがあって」
『……俺はあいつとはもう何の関係もねえよ。なんでお前がわざわざ……切るぞ』
「待って!」
胸の奥の痛みを堪え、私は喉から血が滲むような思いで声を張り上げた。
「私、もうすぐ死ぬんです」
その一言が落ちた瞬間、電話の向こうの時間が完全に凍りついた。
呼吸の音すら消えた空白。私は構わず、言葉を刃物のように研ぎ澄ませて、彼の胸の奥へと突き立てていく。
「ガンが末期で、もう長くないんです。だから最後に、文化祭のステージで最高の曲を歌いたい。……幹也先輩と一緒に」
ベッドのシーツを握りしめ、私は一息に言葉を紡いだ。
「幹也先輩の曲には、純也くんのドラムが必要なんです。あの曲は、純也くんの真っ直ぐな熱がないと、絶対に息絶えてしまう」
『……は?』
電話の向こうで、彼の息遣いが鋭く荒立った。
『お前……俺と幹也の間に何があったか、知ってて言ってんのか?あいつが俺に何をしたか、わかっててそんなこと……!』
「はい。幹也先輩から全部聞きました」
私は彼の怒りに怯むことなく、冷たい真実を突きつける。
「自分のつまらないプライドで、あなたの音を殺してしまったこと。あの喧嘩の日からずっと、幹也先輩は一人で苦しんでる。深く後悔してる。だから……」
『……ふざけんな』
彼の低い声が、地を這うように響いた。それは、行き場のない理不尽な怒りと、触れられたくなかった古傷を無理やり暴かれた痛み、そして突然「死」を突きつけられた戸惑いが混ざり合った、酷く痛ましい響きだった。
『俺とあいつが、今更噛み合うわけねえだろ。あいつは俺のドラムを雑音だって切り捨てたんだ……!あいつの音が死んだのは、俺を突き放したあいつ自身の自業自得だろうが!』
「なら、今度はあなたが、幹也先輩の音楽を生かしてよ!」
私は彼に反論する隙を与えず、自分の命の重さを、すべて言葉の暴力に変えて叩きつけた。
「体裁なんて全部かなぐり捨てて、相手と殴り合ってでも泥臭く感情を叩きつける……純也くんのあの不器用な熱が必要なんです!その真っ直ぐな暴力だけが、幹也先輩の綺麗なだけの音楽を、本物の救済に変えられるの」
息が詰まるような沈黙が落ちた。
ああ、私は今、なんて酷い、なんて醜悪な顔をして笑っているんだろう。わかっている。わかっているのに、喉の奥から這い上がってくる真っ黒な快感が止まらない。
私は、自分の死という絶対的な切り札を使って、彼から「拒絶」というカードをむしり取り、呪いで縛り付けている。
『……お前、本当に頭おかしいだろ。勝手に死にかけてる分際で、俺の人生にまで首突っ込んで……お節介で、最悪な女だな』
吐き捨てるようなその言葉は、私の醜いエゴへの最高の賛辞だった。
「ええ、最高にわがままで、最悪な女です」
私は残された命のすべてを燃やし尽くすように、真っ直ぐな声を紡いだ。
「でも、これで幹也先輩が救われるなら、純也くんに一生恨まれたって構いません。私の残されたこの命を、世界で一番贅沢で、一番美しい暇つぶしにして終わらせたいから。……譜面は、データで送っておきます」
それだけを伝えて、私は一方的に電話を切った。
スマホをベッドに放り投げると、どっと疲労が押し寄せてきた。浅い呼吸を繰り返しながら、私はゆっくりと身を起こし、窓ガラスに額を押し当てた。
夜の冷気が、熱を持った皮膚の奥まで浸透していくのがわかった。肺の奥で鈍く軋む痛みが、今夜はなぜか、私が確かに「生きている」証のように生々しく脈打っている。舌の根にへばりついていた化学的な苦味は、いつの間にか、血の匂いがするほど濃密で暴力的な、あのドラムのビートの味に上書きされていた。
ごめんなさい。
そして、ありがとう。
私が灰になって消えた後も、その力強い音がずっと幹也くんを生かし続けますように。
不規則で、弱々しく、やがて訪れる絶対的な静寂を前にして。




