十四
文化祭まであと十日を切った。放課後、純也の家の地下に造られた私設の防音スタジオには、明のベースと真奈のキーボード、俺のギター、純也のドラム、そして中央でマイクを握る陽菜の声がひしめき合っていた。
だが、それはお世辞にも「音楽」とは呼べない。互いの鼓膜をヤスリで削り合うような、ひたすらに神経をすり減らすだけの不協和音。
「……ストップ」
明のひどく掠れた声で、濁流が止まる。ベースの太い弦を押さえる彼の指先は、限界を訴えるように白く強張っていた。
真奈も弾かれたように鍵盤から手を離し、ひどく疲労した顔で肩で荒い息をしている。二人の表情には、この泥沼のようなセッションに付き合わされる消耗と、どうにもできない無力感が色濃く張り付いていた。
静寂が落ちた直後、純也が苛立たしげにシンバルをスティックで叩いた。カン、という無機質な音が、俺の頭蓋骨を直接殴りつける。
「今日はもういい。これ以上やっても電気代と時間の無駄だ」
純也はスツールを蹴るように立ち上がると、シンバルを乱暴に手で押さえて残響を殺した。
「テメェのギター、昨日からずっとテンポが死んでんだよ。何に怯えて守りに入ってんだ」
「……」
鋭い視線が喉元に突きつけられるが、言い返す言葉が粘りついて出てこない。俺の指先は、弦の跡が深く食い込んで鬱血していた。指が、脳が、勝手にブレーキをかけている。
終わらせたくない。俺のギターは、無意識のうちにこの時間を引き延ばそうとするかのように、テンポから逃げ続けている。
「……これ以上は、バンドごと壊れる。少し頭を冷やそう」
明が重い溜息とともにベースをスタンドに置き、真奈も無言でそれに従う。
純也は舌打ちを一つ残し、地下室の重い防音扉へ向かった。だが、扉を開ける直前、すれ違いざまにマイクスタンドの前に立つ陽菜へ顔を寄せ、何かを短く囁いた。
俺の位置からは、ドラムセットのシンバルに遮られてその表情は見えなかった。ただ、陽菜が微かに目を見開き、小さく頷いたのだけが見えた。
明と真奈、純也が出ていき、地下スタジオには重苦しい空気だけが残された。
純也の家を出た後、俺は逃げるように自転車のペダルを乱暴に踏みつけ、気づけばあの河川敷に辿り着いていた。
土手に腰を下ろし、黒く濁った川面を見つめたまま、どれほどの時間が過ぎたのだろう。ペダルを漕いで火照っていた体はとうに冷え切り、冷たい川風が汗ばんだ首筋から体温を容赦なく奪っていく。
空が鈍い鉛色に沈みかけた頃、背後の草を擦る、ひどく不規則で重い足音が近づいてきた。
振り返ると、陽菜が立っていた。
肩で激しく息を切り、血の気の引いた蒼白な顔で、ふらつく足元を必死に堪えている。病に蝕まれた体を無理やり引きずって、時間をかけてここまで俺を追ってきたことは、その痛々しい姿から嫌でも伝わってきた。
彼女は俺から少しだけ距離を空け、引き攣るような荒い呼吸を整えながら、黙って斜面に座り込んだ。
「……悪い。俺のせいで、練習が台無しだ。明も真奈も、限界だった」
吐き出した声は、風の音に掻き消されるほど頼りなかった。
「本当は、この曲が完成して『次』へ進んでいくのが怖いんでしょ」
息も絶え絶えの至近距離から見上げる彼女の瞳に、同情の色はない。ただ、すべてを見透かしたような静かな飢餓感が張り付いていた。図星を突かれ、俺の肩が微かに跳ねる。
「……当たり前だろ」
喉の奥で、粘着質な塊が破裂した。
文化祭が終われば。この曲が完成してしまえば。その先にあるのは、陽菜が消えるという確定した未来だ。
「怖いんだよ……ッ」
両手で顔を覆うと、泥水のような嗚咽が指の隙間から漏れ出した。
「陽菜がいなくなる。そう考えただけで、胃の腑がひっくり返りそうになる……。本人が一番怖い思いをしてるなんて、分かってる。文化祭のステージは楽しみだ。みんなと音を鳴らすあの瞬間だけは、息ができる気がする。でも……だから怖いんだ。最高の時間が終わって、全部消えて……楽しかった分だけ、そのあとに来る絶望が、どれだけ俺たちを壊すのか。引き延ばした先に来るしわ寄せに、俺はどうやって耐えればいいのか、分からないんだよ!」
醜い。あまりにも身勝手な生存者のエゴだ。
それでも止まらなかった。陽菜の温かさを知ってしまった俺が、またあの真っ暗な日常に引き戻される恐怖。
「完成させたくない。終わらせたくない……。だったら最初から、明日なんか来なくていい。このまま永遠に未完成のまま、時間が腐って止まってくれればいいって……ッ」
ひどく無様な泣き言だった。こんなボロボロの体で追ってきてくれた彼女に向かって吐く言葉じゃない。軽蔑されても仕方がない。
だが、陽菜は俺を突き放すことはしなかった。
「さっき、スタジオを出る時……佐々木くんが私に言ったの」
彼女は川面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「『あいつ、自分の頭の中で勝手に溺れてる。……今、あいつの横っ面を張れるのはお前だけだ。何とかしろ』って」
純也が。心臓が、ひやりと嫌な音を立てた。
あの時、純也が残した言葉。それは俺を見限ったからではなく、俺の抱えるどす黒い恐怖を見抜き、陽菜に託した不器用すぎるパスだった。
陽菜の細い指が、俺の膝の上に置いた拳にそっと重なる。
彼女の皮膚は、驚くほど冷たかった。けれど、そのひんやりとした指先の奥から伝わってくる微かな脈動だけが、今の俺にとって唯一の確かなものだった。
「音楽は、時間を引き延ばすための防空壕じゃないよ」
静かな、けれど有無を言わさぬ声だった。
その言葉が、俺の奥底で肥大化していた喪失への恐怖を、容赦なく抉り出す。
「失うのが怖いなら、なおさら立ち止まっちゃダメ。絶望が怖いなら、その絶望すらも全部音に乗せて吐き出して、今この瞬間を永遠に焼き付ける。それが、私たちにとっての唯一の武器なんじゃないの?」
唯一の武器。その言葉が、俺の脳天を激しく殴りつけた。
そうだ。この無様な弱音すら、丸ごと音に乗せて叩きつけるのが、俺たちの『音楽』だったはずだ。
ただ絶望して下を向く奴の敗北の音じゃない。泥にまみれ、下を向きながらも、必死に足掻いて前へ進もうとする軋み。それをこのギターで、この『一等星』という曲で表現する。それだって、一つの戦い方だろう。
俺はまだ、心のどこかで自分を守り、お行儀よく『綺麗』にまとめようとしていたのだ。
真奈と身を削るようにして血の通った歌詞を紡ぎ出した夜も、中学の頃に純也と本気で殴り合ったあの喧嘩でも、さんざん思い知らされてきたじゃないか。上辺だけの、猫を被ったような嘘で塗り固めた音など、この曲では何の意味も持たないし、誰の心も救いはしないと。
喪失への恐怖から目を逸らし、ただやり過ごすための『逃げる音楽』なんて、俺たちにはもういらない。
どうせいつか、すべてが手から零れ落ちてしまう日が来るのなら。せめて今、この一瞬の轟音の中に彼女の存在を焼き付けるしかない。
翌日の放課後。
地下スタジオの空気は、昨日までの澱みきったものとは明確に違っていた。
純也はスツールに深く腰を下ろし、乾いた手つきでスティックを回す。俺が定位置につき、アンプの電源を入れたのを確認すると、あいつは短く息を吸い込んだ。
「……やるぞ」
ワン、ツー、スリー、フォー。
カウントと共に、轟音のような純也のバスドラムが床を伝って腹の底を揺らす。昨日までなら、ここで一歩引いてテンポを合わせにいっていた。だが、俺はもう逃げない。
エフェクターを全力で踏み込む。喪失への怯えも、惨めさも、すべてを暴力的な衝動に変換して、純也のビートのど真ん中へ荒々しいカッティングを叩きつけた。
ギャン、という耳をつんざく不協和音が弾ける。
明と真奈が驚愕に目を見開いたのが分かったが、構わずギターを掻き毟った。純也がスティックを回し、俺を睨みつけながら凶暴に口角を上げる。
言葉はなかった。ただ、純也のドラムが一気に牙を剥き、手加減なしの乱打で俺のギターを煽り立ててくる。喰い破れるものなら、やってみろ。ドラムの振動がそう言っていた。
俺は血の滲み始めた指でさらに激しく弦を叩きつける。音と音がぶつかり合い、削れ合い、火花を散らす。一切の言葉を排したその濁流の中で、俺たちは確かに数年ぶりの対話をしていた。
やがて、その暴力的な轟音の中心で、陽菜がマイクを握りしめ、息を吸い込む。俺たちの泥だらけの音が、彼女の作った『一等星』という旋律に、生々しい血を通わせていくのが分かった。
演奏が終わり、地下スタジオに深い余韻と荒い息遣いだけが残る。
純也はスティックをスネアの上に放り投げ、額の汗を手の甲で無造作に拭った。ただ、荒くなった呼吸を整えながら、微かに肩を揺らしている。昨日までの、人を拒絶するような冷たい壁はそこにはなかった。
「……クソ。手が震えてやがる」
純也が自分の手を見つめて呟く。
「……俺もだ」
俺もギターのネックを握りしめたまま、その熱と震えを感じていた。
「……とんでもない二人だな」
明が俺たちを見ながら、小さく笑った。真奈は少し涙ぐみながら頷く。
「……すごかった。音が……本当に生きてた」
陽菜がみんなを見渡し、誇らしげに言った。
「……うん、最高の『一等星』だね」
俺たちの間にある泥濘は、乾かなくてもいいのかもしれない。そして、この先に待っているのがどんな喪失と絶望なのかも分からない。けれど、その泥だらけの道を、不格好に並んで歩き出すことくらいは、できるだろう。
熱を持ったギターのネックを握りしめながら、俺は陽菜と視線を交わし、小さく、だが確かな手応えと共に息を吐き出した。
その日の夜。
純也の家を出て、自室に戻った俺は、デスクに向かっていた。
定期的に動画投稿サイトにアップロードしていた、ギターの弾き語り動画。これまでは、怯えや臆病、猫かぶりの自分を隠すために、常に黒い仮面を被って歌ってきた。
デスクの片隅に置かれた、その仮面。これまで俺を守り、同時に俺を閉じ込めてきた、嘘の象徴。
俺は仮面を手に取った。そのプラスチックの冷たさが、今日の地下スタジオでの熱を知った俺の手には、酷くよそよそしく感じられた。
陽菜の言葉。純也のドラム。そして俺が出した、不格好だが嘘のない音。
「もう……こんなものはいらない」
俺は仮面をゴミ箱に放り込んだ。
仮面が底に落ちる鈍い音が、過去の自分との決別の合図のように響く。
俺はカメラに向き直り、素顔のままギターを構えた。
そのネックは、まだあのスタジオでの熱を覚えている。
カメラの録画ボタンを押す。
歌い出した俺の声は、以前のような、綺麗にまとめられたものではなかった。弱音も、恐怖も、絶望も、そして足掻く意志もすべて乗った、不格好だが嘘のない音。猫をかぶらず、剥き出しの自分としての弾き語り。
あの日々が、俺の中に確かに何かを残していた。
文化祭まで、もうすぐ。
俺たちの『一等星』を、俺の不格好な音で、夜空に刻み込む。




