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十五(side明)

 地下スタジオに澱む重苦しい空気は、ある一瞬でひび割れ、剥き出しの殺意へと変貌した。

 

 スツールに深く沈み込んだ純也が、指先で弄んでいたスティックをピタリと止める。定位置の幹也がアンプのスイッチを蹴り上げるように踏み込んだ。カチリ、という硬質な音が、鼓膜にへばりつく。


「……やるぞ」


 純也が鋭く息を吸い込む音が、ノイズ混じりの静寂を引き裂いた。

 

 ワン、ツー、スリー、フォー。

 

 直後、床材を粉砕するかのようなバスドラムの一撃が、俺の足裏から内臓を直接揺さぶった。空気を圧殺するような凶暴なビート。いつもなら幹也はここで半歩下がり、純也の圧をいなすように呼吸を合わせていた。

 

 だが、今の幹也は微動だにしない。むしろ、喪失への怯えも惨めさも、すべてを暴力的な衝動に変換して前のめりにエフェクターを踏み潰した。

 

 ギャンッ、と、耳の奥を引っ掻き回すような生々しい不協和音が弾けた。

 

 それは綺麗なアンサンブルを繕おうとしていた、かつての幹也の音ではなかった。真奈と曲を作った時も、中学の薄暗い別室で純也との喧嘩の余韻に沈んでいた時も、波風を立てまいと猫を被り、上辺だけを取り繕ってきた自分自身への嫌悪。


 逃げ回るだけの音楽はもういらないと、自らの退路を焼き払うような絶叫だった。純也の放つ暴力的なビートのど真ん中へ、幹也は自らを切り刻むような荒々しいカッティングをねじ込んだ。


 驚愕に目を剥く俺と真奈などお構いなしに、狂ったように弦を掻き毟る幹也。それを睨みつけ、純也が獣のように唇を歪める。


 言葉はなかった。


 ただ、手加減という安全装置を破壊された乱打が襲いかかり、喰い破れるものならやってみろとドラムの振動が煽り立てる。ピックが削れ、幹也の指先から滲んだ血が弦を汚していく。その泥沼のような熱量の応酬から、俺は目を逸らせなかった。

 

 俺のベースと、隣で必死に鍵盤にすがる真奈の音は、吹き飛ばされそうな濁流の中でかろうじて輪郭を保っているだけだ。


 俺たちが繋ぎ止める土台の上で、あの二人は数年分の空白と呪いを、互いの肉ごと削り合うようにぶつけ合っている。一切の言葉を排したその濁流の中で、あいつらは確かに数年ぶりの対話をしていた。

 

 安全圏でただ底を支えるだけの自分の指先が、ひどく綺麗で、無性に腹が立った。

 

 やがて、その凄惨な轟音の渦の中心で、陽菜がマイクを両手で握りしめ、大きく息を吸い込んだ。

 

 放たれた『一等星』の旋律が、乱気流を一本の巨大な光の柱へと束ね上げる。泥だらけの俺たちの音が、彼女の歌声に生々しい血を通わせていく。網膜が焼けるような圧倒的な熱量。だが、俺はその眩さのど真ん中で、吐き気を催すほどの薄ら寒さに震えていた。

 

 これほどまでに命を削って燃え上がる音が、長く続くはずがない。彼女の喉から溢れる美しすぎる声は、そのまま残酷な終わりへのカウントダウンとなって、俺の耳にこびりついて離れなかった。

 

 最後の音が途切れ、スタジオには深い余韻と、獣のような荒い息遣いだけが残った。

 

 純也はスネアの上にスティックを放り投げ、額の汗を手の甲で無造作に拭った。荒くなった呼吸を整えながら、微かに肩を揺らしている。昨日までの、人を拒絶するような冷たい壁はそこにはなかった。


「……クソ。手が震えてやがる」

 

 純也が痙攣する自分の両手を見下ろして呟く。


「……俺もだ」

 

 幹也もまた、すがるようにネックを握りしめたまま、その熱と震えを噛み締めるように立ち尽くしていた。


「……とんでもない二人だな」

 

 俺は引き攣るような笑みをなんとか形にして、二人を見ながら小さくこぼした。隣を見ると、真奈が少し涙ぐみながら鍵盤から手を離すところだった。


「……すごかった。音が……本当に生きてた」

 

 ひどく耳障りな静寂の中、陽菜だけが俺たちを見渡し、誇らしげな、それでいて何事もなかったかのように無邪気な笑顔を見せた。


「……うん、最高の『一等星』だね」

 

 俺はただ、自身のベースの冷たい弦が指に食い込む感覚だけを、祈るように強く握りしめることしかできなかった。

 

 

 

 翌日の放課後。

 

 ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴り終わる前に、俺は席を蹴って立っていた。


「……明くん、足、速いよ」

 

 廊下で追いついてきた真奈が、息を切らしながら歩幅を合わせる。窓から差し込む西日が網膜を刺し、すれ違う生徒たちの笑い声が水槽越しの音のように遠い。昨日の地下スタジオで全身を殴りつけたあの振動が、未だに骨の髄で鈍く疼いていた。


「あの二人の音、凄かったね」

 

 真奈がぽつりと、呟いた。


「ああ」

 

 俺はポケットの中で、自分の指先にできた固いタコを無意識に親指で削るように擦った。


「あそこまで自分を丸裸にしてぶつかり合える。俺と真奈は、あの嵐の中で振り落とされないようにするのが精一杯だったな」

 

「……でも、明くんのベースが冷静に底を支えてくれてたから、あの音も崩壊しないで済んだんだよ。明くんの音が、みんなを繋いでた」

 

 真奈の真っ直ぐな視線が突き刺さる。俺は小さく息を吐き、西日に焼かれた廊下の先へと視線を逸らした。

 

 肺の奥に溜まっていた重たい空気が、少しだけ抜けた気がした。あいつらが泥まみれになりながら切り拓く道があるなら、俺はそこに足場を残すしかない。陽菜が、最期まで迷わず歌い切れるように。

 

 スタジオの重い防音扉の前に立つ。向こうからは、すでに乾いたスネアの打音と、荒削りなギターのチューニング音が漏れ聞こえていた。昨日までの冷ややかな壁は微塵もない。そこにあるのは、次に鳴らすべき音を飢えた獣のように渇望する、ひりつくような熱気だ。

 

 俺はベースのケースを握る手に力を込め、顎で扉を示した。真奈が、無言で力強く頷いた。

 

 

 

 文化祭まで、あと三日に迫った日の夕暮れ。

 

 放課後の旧校舎。埃の匂いとセピア色の西日が澱む階段の踊り場で、俺は幹也と二人、冷えかけた缶コーヒーを片手に並んで座っていた。遠くから、吹奏楽部の練習の音が微かに響いては、溶けて消える。


「……怖いな」

 

 不意に、幹也がひび割れたような声で呟いた。その視線は、窓の向こうで血のように赤く染まっていく空に縫い付けられている。


「陽菜が一番怖い思いをしてるのは分かってる。文化祭は楽しみだ。……でも、その後が怖い」

 

 ギリ、と幹也の指がスチール缶を歪な形にへこませる。


「この楽しさのあとにやって来る、しわ寄せが……あいつが居なくなってしまう喪失感の先延ばしに、俺は耐えられるのかって……」

 

 俺は鈍い金属音が響くたび、夕日を反射するコンクリートの床を見つめた。


「……中学で純也と殴り合って、一週間の停学になって、別室登校してた時のこと、覚えてるか」

 

 俺の言葉に、幹也は弾かれたように顔を上げた。


「なんで今、中学の時の話なんか……」


「あの薄暗い部屋で、一人で息を潜めていた時より、今の方が怖いか?」

 

 幹也は少しの間だけ俺を睨みつけるように見たが、やがて自嘲するように鼻で笑った。


「……ああ。比べ物にならないくらいな。あの時は、世界ごと全部諦めてたから、失うものなんて最初から何一つなかった。……でも今は違う」

 

 へこんだ缶を握りしめる幹也の指先が、白く震え、関節がうっ血している。


「俺は……陽菜の歌も、純也のドラムも、お前と真奈の音も……これ以上、絶対に失いたくないんだよ」

 

 そのひどく生々しい執着の言葉を聞いた瞬間、俺の胃の府の底で、黒くて重たい何かがドクンと脈打った。

 

 音楽とは何なのだろう。俺にとっては、世界に抗うための武器でもなければ、絶対的な救済でもない。ただ——


「……杭だよ」

 

 俺の口から出た言葉は、ひどく掠れていた。


「……何?」


「杭だ。……陽菜の時間が終わるなら、俺たちが無理やりにでもこの世界に杭を打ち込んでやるしかないだろ」

 

 俺は幹也の手の中にある、無残にひしゃげた缶を指差した。自分でもゾッとするほど利己的で、暴力的な響きを持った言葉が、とめどなく溢れ出す。


「どうせ人生なんて、意味もなく死に向かって流れていくだけの最悪な暇つぶしだ。放っておけば、この残酷な時間ごと全部無意味に消えちまう。だったら……あの綺麗な声が消える前に、俺たちの泥まみれの音で、絶対に消えない傷跡を残してやるんだよ」

 

 幹也が目を丸くして俺を見る。俺は立ち上がり、空になった自分の缶を傍らに置いた。


「お前はもう、やり方を知ってるはずだろ。生徒会選挙の応援演説で、全校生徒の好奇の目に晒されながら、泥まみれでマイク握って不格好に張り上げた、あの時の声だよ。昨日のスタジオで、純也のビートに逃げずに叩きつけた、あのギターの音だ」

 

 息が上がる。自分の吐き出したエゴイスティックな感情の醜さに、吐き気すら覚えた。陽菜のためと言いながら、俺はただ、俺自身が彼女を忘れたくないだけなのだ。彼女の命を燃やしてでも、自分たちの存在を刻みつけたいだけだ。


「喪失が怖いなら……忘れられなくしてやるんだよ。嫌でも。俺たちの音でさ……世界に無理やり打ち込んでやろうぜ」

 

 静寂が下りた踊り場に、荒い呼吸音だけが響く。少しの気恥ずかしさと、自己嫌悪と共に俺が視線を逸らすと、幹也は呆れたように小さく息を吐き出した。


「……お前、たまに痛いポエム吐くよな」

 

 口の端には、先ほどまでの虚ろな怯えを塗り潰すような、微かな、だが確かな牙を剥くような笑みが浮かんでいた。幹也は立ち上がると、へこんだスチール缶をゴミ箱へと乱暴に放り投げた。ガコン、という乱暴な音が、旧校舎の廊下に反響する。


「うるせえ。行くぞ、みんながスタジオで待ってる」

 

 俺は階段を一段降りて、振り返らずに手を挙げた。


「……ああ」

 

 背後で続く衣擦れの音と、俺の背中を追ってくる確かな重みを持った足音。

 

 その足音が腹の底に響くたび、俺は自分の内に巣食う真っ黒な杭の感触を、ひどく心地よく感じていた。


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