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十六(side真奈)

 旧校舎の古い木製の椅子に座り、私は白黒の鍵盤をただ無言で見つめていた。 


 明くんと幹也くんが「飲み物を買ってくる」と出ていき、純也くんも「ヤニ吸ってくる」と扉の向こうへ消えてから、ずいぶんと時間が経っている。


 密室に取り残されたのは、機材が発する微かなハムノイズと、少し離れた丸椅子で背中を丸めている陽菜の、ひどく浅く、頼りない呼吸音だけだった。


「……陽菜」


 声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。 


 いつもの太陽のような、幹也くんが「一等星」と呼ぶ眩しい笑顔はない。いつもの甘いシャンプーの香りの奥から、どうしても隠しきれないアルコール消毒液と、錠剤が溶けたような胃の匂いが微かに漂ってくる。


 膝の上で固く握りしめられた指先は、人間のものではないみたいに青白く透けていた。

 



 思えば、私と陽菜が親友と呼べるようになったのは、高校一年の春、腐った桜の匂いが教室に充満していた日だった。 


 当時の私は、明るく染めた髪に派手なメイクで、いわゆる「ギャル」のような身なりをしていて、クラスの中で完全に浮いた存在だった。


 誰もが私を遠巻きに見て、腫れ物のように扱う中、ただ一人、太陽みたいに笑って「ねえ、一緒に食堂行かない?」と声をかけてくれたのが陽菜だった。 


 誰に対しても分け隔てなく接する陽菜。派手な見た目で武装して、本当は日陰を歩くように息を潜めていた私。 


 けれど、あの日。忘れ物を取りに戻った教室で、窓際で声を殺して泣きじゃくっている陽菜を見つけた時から、私たちの関係は変わった。暗闇に怯える、ただの脆い女の子としての彼女に触れたあの日から。私は彼女の光と影、その両方を分かち合うたった一人の「親友」になったのだ。




「真奈……ちゃん」


 ひゅう、とかすれた息の音と一緒に、陽菜が口を開いた。


「……ねえ、真奈ちゃん。今日のお昼、何食べた?」


 不意の問いに戸惑いながら、購買のパンだと答える。陽菜はそれを聞いて、ふふ、と力なく笑い、そのままボロボロと透明な雫を床に落とした。


「いいな……。私ね、この前、幹也くんのギターの弦が……プツッて切れるのを見ちゃったの。あっけなくって……。あんな風に、私の明日も突然切れちゃうのかなって思ったら……息の仕方が、わからなくなっちゃって……」


 ぽたり、ぽたりと黒い染みが床に増えていく。


「ずるいよ。私がいなくなった後も、真奈ちゃんたちは明日のお昼ご飯を食べて、笑って生きていくんでしょ? ……ずるい。寂しくて、悔しくて、妬ましくて……」


 醜い本音だった。けれど、それは死の恐怖という絶対的な暗闇の淵にただ一人で立たされている、等身大の親友の、剥き出しの生の叫びだった。


 私は何も言えず、ただゆっくりと歩み寄り、震える陽菜の両手を自分の手で包み込んだ。恐ろしいほどに冷え切った指先だったのに、手のひらだけが異常な寝汗のようにじっとりと湿り気を帯びていた。

 

 こんなにも弱く、惨めで、私がいなければ今にも壊れてしまいそうな陽菜。 


 そのひび割れた姿を独占できているという事実だけが、日陰を歩いてきた私の空っぽな胸の奥を、ひどく甘く満たしていく。


「……なら、もうやめようよ。陽菜、文化祭なんて出なくていい。これ以上命削ってまで、あいつらの音に付き合う必要なんてないよ。病院に戻って、薬飲んで、少しでも長く、穏やかに……」


「ううん。嫌。……やめたくない。最後に、音楽だけはしたいの。幹也くんたちと、真奈ちゃんと……一緒に」


「どうして?」

 

 私はたまらず、彼女の言葉を遮っていた。音楽とは、言葉にできない醜くて生々しい感情を無理やり引きずり出し、自分を切り刻むような残酷な装置だ。


「ねえ、陽菜。どうしてそこまで音楽にこだわるの? 幹也くんのことが好きだから? 他にあるんでしょ?」


 私の問いに、陽菜は少しだけ目を丸くして、それからふふっと、自嘲するように笑った。涙で濡れた顔を上げ、陽菜は私を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥には、病魔への恐怖も、死への絶望も焼き尽くすような、強烈でエゴイスティックな光が宿っていた。


「幹也くんが、病院で言ってくれたの。『どうせ終わる人生なら、世界で一番贅沢で、一番美しい暇つぶしをしよう』って。……一緒に音を鳴らそうって」


 熱を帯びた陽菜の瞳には、真っ直ぐに幹也くんだけが映っている。私の指をこんなにも強く握りしめながら、彼女の心臓を動かしているのは私じゃないのだ。その無自覚な残酷さが、私の胸の奥をチクリと、でも確実にえぐった。


「幹也くんのギターと、純也くんのドラムと、明くんのベースと……真奈ちゃんのキーボード。みんなの泥臭くて凄い音が、私にその『煌めき』をくれる。……死ぬのが怖いからこそ、私が生きてたってこと、みんなの心の中に、絶対に消えない傷跡みたいに残したいの」


「傷跡……」


「そう。私が死んだ後も、幹也くんや真奈ちゃんが音楽を聴くたびに、息ができなくなるくらい私のことを思い出すような……そんな消えない呪いをかけたい。私、最低だよね……」


 ああ、この子は最低だ。最低で、どうしようもなく私だけの親友だ。


 陽菜は、自分の死という絶対的な暴力を使って、私たちのこれからの人生すべてを呪おうとしている。幹也くんと「最高の暇つぶし」なんて綺麗な言葉で飾り立てながら、その実、自分という存在を私たちの心に永遠に打ち付ける楔にしようとしているのだ。


 震える細い背中を抱きしめながら、私の奥底で、黒くて重い泥が、溶けた砂糖のように甘く、ねばねばと沸騰した。


 いいよ、陽菜。あなたがその最低な呪いの楔を打ち込むなら、私が金槌になってあげる。絶対に抜けないくらい、深く、血が出るほどに打ち込んであげる。親友の私が、最後まで共犯になってあげる。


「真奈ちゃん……苦しい」


「うるさい……」


 私は陽菜の細い背中に回した腕に、わざと強く力を込めた。私の爪が、彼女の薄いカーディガン越しに皮膚へ食い込む。陽菜は痛みに小さく息を呑んだけれど、決して逃げようとはせず、むしろ私にすがりつくように自らの爪を私の肩に立てた。

 

 少しだけ力を緩めると、陽菜は私の肩に顔を埋めたまま、ふふ、と小さく笑った。互いの皮膚に、服の下で赤く残るであろう爪痕。それが、私たちだけの呪い。


 ……この爪痕が、陽菜の死んだ後も、私の肩に残り続けるのだとしたら。


 ガララ、と古い引き戸が開く音がした。


「お待たせ。……って、お前ら何泣いてんだよ」


 冷えた缶コーヒーの水滴が、幹也くんの指先を伝って落ちる音が、静かな音楽室に響いた。幹也くんと明くんが、少し呆れたような顔で立っていた。


 そのすぐ後ろから、純也くんが「……あー、なんだよこの空気。俺がヤニ吸ってる間に死にそうな空気作んなよ」と目を逸らしながら入ってくる。


「……何でもない。ただの女子の気合い入れ」


 私は涙を乱暴に袖で拭い、むせるようなヤニの匂いにわざと顔をしかめてみせた。


「病人がいるのにヤニ吸ってくるなんていけないんだ」


 純也くんが「うっせ、だから屋上で吸ってるだろうが」と吐き捨てるように返した。

 

 明くんが呆れたように肩をすくめながら口を挟む。

「生徒会入ってる俺の前で堂々と吸ってるの度胸は認めてやる、ただ見つかるなよ先生に。文化祭前に停学とかマジでシャレにならんぞ」


 純也くんは面倒くさそうに手を振った。


「わかってるよ。そんなヘマはしねえよ」


 隣で陽菜も、小さく吹き出して笑った。彼女の顔にはもう、死に怯える少女の面影はない。マイクを握りしめ、私たちの人生に消えない呪いを刻むための、アーティストの顔になっていた。


「さあ、やろう?時間がもったいない」


 私たちの最悪で、最高の文化祭まで、あと十日を切った。

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