十七(side純也)
幹也と明の背中越し。古い引き戸がガララと軋む。
屋上でヤニを肺の奥まで焼き付けて戻ると、音楽室にはひどく淀んだ空気がへばりついていた。
幹也の指先から、冷えた缶コーヒーの水滴が床に落ちる。水音が、やけに鼓膜に響いた。
「お待たせ。……って、お前ら何泣いてんだよ」
先に入った明が小さく息を吐く。横で幹也の口角が、引き攣ったように上がる。後ろから顔を出した俺は、舌打ちを一つ噛み殺して視線を逸らした。
キーボードの前の真奈。目は粘膜がひっくり返ったように赤く腫れ上がり、陽菜がその肩に顔を埋めている。
「……なんだよこの空気。俺がヤニ吸ってる間に、死にそうな空気作んなよ」
泣き腫らした女の顔なんて、どう扱っていいかわからねえ。舌打ちを一つ床に落とし、ドラムスツールへ一直線に向かった。
「……何でもない。ただの女子の気合い入れ」
真奈が乱暴に袖で涙を拭う。俺から漂うヤニの匂いに、あからさまに顔をしかめた。
「病人がいるのにヤニ吸ってくるなんていけないんだ」
「うっせ、だから屋上で吸ってるだろうが」
ドラムスツールにどっかりと腰を落とす。明が、深く重い息を吐き出した。
「生徒会入ってる俺の前で堂々と吸ってる度胸は認めてやる。ただ、見つかるなよ。文化祭前に停学とかマジでシャレにならんぞ」
「わかってるよ、会長。そんなヘマはしねえ」
スティックを拾い上げる。木の冷たい感触が手のひらに馴染む。
隣で陽菜が、ふふっと小さく吹き出した。真奈の肩にすがっていた、死に怯える少女の顔はない。両手でマイクスタンドを握りしめる。
俺たちの人生に消えない呪いを刻み込もうとする、熱。その熱が、顔面を覆っている。
「さあ、やろう? 時間がもったいない」
陽菜の掠れた息継ぎが、鼓膜を引っ掻く。胃の腑が持ち上がり、酸っぱいものが込み上げる。
右足。バスドラのペダルを重く踏み抜いた瞬間、足の裏から脳天まで、痺れるような振動が突き抜けた。
俺には、これしかない。
ペダルを踏み込む。馬鹿デカい振動が腹の底を揺らす。その時だけ、俺は「ここにいていい」とまともに呼吸ができる。生徒会選挙で全校生徒の前で演説をぶち上げた幹也。
あんな真似、俺には一生かかってもできない。上手く笑えない俺にとって、この丸い椅子の上が、唯一息ができる場所だ。
「合わせるぞ」
スティックが空気を叩き割る。シンバルを力任せに打ち鳴らす。嫌な記憶の蓋が吹き飛んだ。中学時代。薄暗い音楽室の埃っぽい匂い。
『お前の音は、ただの雑音だ』
内臓を土足で踏み躙られた。気づけば幹也の顔面を殴り飛ばし、機材を蹴り上げていた。一週間の停学。ドラムを取り上げられたあの一週間。自分が透明人間になったような、地獄。
だが、今は違う。
あの夜。河川敷の湿った土に額を擦りつけ、土下座までして俺を巻き込んだ幹也の音。今は、すぐそばにある。
陽菜の、命を削るような声。下からすくい上げる明のベース。真奈のキーボード。食らいついてくる幹也のギター。全員の音が泥臭く絡み合う。汗が目に入る。視界が滲む。手首の関節が軋む。止まらねえ。
俺のバスドラで、スネアで。こいつらの命ごと、全部、底から力任せに持ち上げてやる。
「おい幹也! テンポ狂ってんだよ、甘えんな!」
全力でスネアを叩き込む。手元を気にして走ったギターの音を、ドラムの力で強引に引きずり戻した。
「ちょっと煙草」
言い残し、音楽室を出る。人気のない渡り廊下の陰。冷たい風が頬の汗を撫でる。コンクリートの壁に背中を預けた。
肺の奥まで煙を吸い込み、吐き出す。ニコチンの苦味。異常に冷たかった陽菜の手。幹也の焦燥しきった顔。脳裏にこびりついて離れない。
「……おい。こんな所でヤニ吸って、先生に見つかっても知らねえぞ」
横から降ってきた声。顔を上げる。段ボール箱を抱えた明が立っていた。延長コードやガムテープが無造作に突っ込まれた箱。生徒会の裏方作業の途中らしい。
「……会長か」
「気まずすぎてな。慣れないんだよな俺も女子の泣き顔。機材チェックのついでにちょっと抜け出してきたとこだ」
明が深く重い溜息を吐き出す。抱えていた段ボールを、ドンと床に置いた。現実的で、冷ややかな目。その温度が、今の俺にはどうしようもなく救いだった。
「……なあ、会長。俺さ」
口から出たのは、ひどく間抜けな声だった。
「俺、もしこのバンドが無くなったら、マジで透明人間になっちまうかもしれねえ」
明の目が少しだけ丸くなる。そしてまた、深く息を吐き出した。
「お前、ヤニ吸いすぎて頭湧いたか? 生徒会でこき使われてる俺の前で、急にエモーショナルになりやがって」
「いや……さっきの練習、なんか変に力が入っちまってよ。ドラム叩いてねえと、自分が消えちまいそうな気がした」
「……馬鹿か、お前は」
明が壁に寄りかかる。自分の前髪を掻きむしった。
「お前が透明人間になったら、誰がその馬鹿デカい音でリズムキープすんだ。俺のベースだけじゃ、到底あいつらの土台にはなれねえんだからな」
明の視線が、足元の吸い殻に向く。
「土台がブレたら、陽菜の歌ごと全部崩れる。……ほら、さっさと火ィ消して戻れ」
それだけ言うと、明は再び段ボール箱を持ち上げ、背中を向けて歩き出した。
「……ああ。わかってるよ」
短くなった吸い殻を、携帯灰皿に力任せに押し潰す。明の言う通りだ。俺が土台を作らなきゃ、あいつらは崩れる。
この音を。陽菜が死んだ後も、絶対に世界にこびりつかせてやる。
音楽室に戻る。すぐに練習再開。
サビ。陽菜の声が悲鳴のように跳ね上がる。視界を極限まで狭める。震える陽菜の小さな背中。血の滲む自分の手元。シンバルを叩き割る勢いでスティックを振り下ろした。これが俺だ。ここに俺がいる。
最後の音が鳴り止む。耳鳴りだけが残った。無言で立ち上がり、幹也のそばに歩み寄る。
「……おい、幹也」
幹也が顔を上げる。その指先。弦を押さえすぎて滲んだ、血の跡。
「ピッキングが甘えんだよ。痛えからって庇ってんじゃねえ」
吐き捨てた言葉に、幹也の眉間が微かに歪む。だがすぐに、憑き物が落ちたような顔で薄く笑った。
「……悪い。でも、お前の音がデカすぎるから、負けたくなくて無茶したんだ」
俺は短く鼻を鳴らした。あの夜の河川敷。額を土に擦りつけてまで俺に縋った、幹也の言葉。
「あの夜、俺に言ったよな。これは『世界で一番贅沢な暇つぶし』だって」
幹也の喉仏が上下した。さらに一歩踏み込み、声をねじ伏せる。
「俺のドラムは、俺の全部だ。だから……お前のその痛てぇ手、本番でぶっ壊れてもいい。最後まで弾ききれ」
幹也の血の滲む指先。焦燥。不格好な叫び。
「あの馬鹿な女の命ごと、俺のドラムで全部、底からぶち上げてやるからよ」
幹也の目が大きく見開かれる。やがて、あの夜の河川敷とは違う、確かな熱を持った声が返ってきた。
「……ああ。頼む、純也」
「ちょっと。馬鹿って何さ」
不意の声。陽菜だった。さっきまでの薄ら笑いはない。小さく唇を尖らせている。だが、すぐにその顔がふわりと綻んだ。
「でもね。今日のドラム、なんだか純也くんの全部が詰まってるみたいだった」
「うるせえ。死ぬ前にそんな気色悪いこと言ってんじゃねえよ」
毒づき、顔を背ける。視界の端。明がベースの弦を拭きながら、小さく笑っている。口が裂けても言わねえ。だが、俺の腹の底は、内臓が焼け焦げそうなほど熱かった。
練習が終わり、誰もいなくなった音楽室の出口。一人、薄暗い廊下を睨みつける。
「本番まで、もう時間がねぇ……クソが」
吐き捨てた声は、思いのほか震えていた。
どうか、頼む。
俺たちの生きた証。この不格好な雑音が。ちゃんと世界に、こびりついてくれますように。




