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19/22

十八

 校舎から漏れ聞こえる吹奏楽部の不揃いなチューニング音が、秋特有の冷たく乾いた風に乗って鼓膜を揺らす。十月下旬。文化祭一日目のむせ返るような喧騒の中で、俺――佐藤幹也は、完全に時間を持て余していた。


 俺たちのバンドの出番は明日だ。今日は特にやることもなく、すれ違う生徒たちの熱気を避けるように、校庭の隅へと足を向けた。


 グラウンドの端、土埃の匂いが鼻を突くパイプテントの下。そこには、生徒会の腕章をつけた明の姿があった。ネクタイをきっちり締め、トランシーバー片手に各所のトラブル対応に追われている。


「おい、そこの段ボール。もう少し右に寄せろ。導線を塞いでる」


「あー……くそっ、力加減がわかんねぇんだよ!」


 明の指示に対し、純也は苛立たしげに自身の太ももをドラムのように乱暴に叩き、足元の段ボール箱を睨みつけた。


 この前の一件による停学処分を早く解くための交換条件として、実行委員会の雑用を押し付けられているのだ。だが、繊細な展示用のガラス細工を運ぶという作業は、彼に染み付いた野性的なリズムと絶望的に噛み合っていなかった。


「おい会長、こんなチマチマしたこと、俺にやらせんな。全部ぶっ壊しちまいそうだ」


「あのな、力任せに運べばいいって問題じゃない。中身は展示用のガラス細工だぞ」


「だったら最初からそう言えよ! 箱の外側にデカデカと『割れ物』って書いとけ!」


「書いてあるだろ。お前の目の前にある赤い字が読めないのか」


「……チッ、うるせぇな」


 大柄な体を折り曲げ、純也が低い声で唸る。明は手元のバインダーから顔を上げると、心底呆れたように深くため息をつき、眉をひそめた。


 俺はそんな二人のやり取りを、少し離れた場所からただ静かに見つめていた。秋の風に乗って漂ってくるのは、いつかの煙草の饐えた匂いではなく、健全で、不器用な熱を帯びた汗の匂いだった。


 ふと、明がこちらの視線に気づいた。眼鏡の奥の目が、少しだけ細められる。


「なんだ幹也。お前、暇なら手伝え。中途半端に突っ立って見られてるのが一番目障りだぞ」


「悪いけど、遠慮しとく。足手まといになるだけだからな」


 俺が短く返すと、純也もこちらを振り向いた。


「おい幹也! お前が代わりにやれよ! 俺はもう腕がパンパンなんだよ!」


「ドラムを叩く筋力と段ボールを運ぶ筋力は違うらしいな。頑張れよ」


「あァ!? 覚えてろよお前、明日の本番、テンポ爆速にしてやるからな!」


 子供のように喚く純也に小さく肩をすくめ、俺はテントに背を向ける。明日のステージに向けた、あいつらなりの不器用な「準備」の邪魔をする気はなかった。

   



 二年生の教室エリアに足を踏み入れると、空気が一変した。


 鉄板で焦げるソースの匂い、油の熱気、そして安っぽい香水と汗が混ざったような高校生特有の熱を孕んだ匂いが、俺の嗅覚を容赦なく殴りつける。


「いらっしゃいませー! 焼きそば、あとみっつでーす!」


 喧騒の中で、その声はひときわ高く、どこか無理をして捻り出しているように響いた。


 教室の奥、お揃いの法被を着た陽菜だ。抗がん剤の影響を隠すウィッグの上からねじり鉢巻を締め、鉄板の熱を真正面から浴びながら、彼女は必死に「太陽のような明るい女子高生」のようで、もうすぐ居なくなるようには見えなかった。


 だが、その肩は小さく上下し、小刻みに震える手先が遠目にもわかった。


 声をかけようと人混みを掻き分けた俺を、いち早く見つけたのは真奈だった。


 レジ打ちをしていた彼女の手がピタリと止まる。真奈の冷ややかで鋭い観察眼が俺を一瞥し、次いで陽菜へと向けられた。


「陽菜、あんたちょっと休憩」


 真奈は一切の抑揚がない声で言い放ち、陽菜の腕を強引に引いた。


「ええっ、まだ大丈夫だよ! これから昼時だし……」


「いいから。こんな油臭いところで倒れられたら、こっちが迷惑なの。……あんた、さっきから息、おかしいよ」


「ば、バレてた?」


「当たり前でしょ。ほら、お迎えが来てるから。さっさと行きな」


 真奈は有無を言わせず陽菜の法被を乱暴に剥ぎ取り、俺のほうへと背中を押し出した。よろけた陽菜の細い肩を、俺は咄嗟に受け止める。


「あ、彼氏さんじゃん!」


「陽菜ちゃんいってきなよー! 待たせんなって!」


 周囲のクラスメイトたちが囃し立てる。俺たちは決して、明確な恋人同士というわけではない。だが、彼女が俺に向ける強引な生命力は、周囲から見ればひどく熱に浮かされた恋人たちのそれに映るらしい。


 陽菜は否定も肯定もせず、ただ頬を赤く染めて「てへっ」と愛嬌を振りまいた。


「……じゃあ、ちょっとだけ、サボっちゃおうかな。真奈、ごめんね」


「いいから。さっさと行きな」


 真奈の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いた。


 彼女の不自然に強い手つきと酷薄な視線の中に、俺には到底踏み込めない、底なしの沼のような領域を見た気がした。


「……借りてく」


 俺が短く告げると、真奈は唇だけを微かに動かした。


「……無茶させないでよ。彼氏さん」


 そのひどく切実な悪態を背に、俺たちは熱気渦巻く教室を抜け出した。

   



 二人で歩く校舎内は、どこもかしこも祭りの熱に浮かされていた。


 綿飴の甘ったるい匂いと、すれ違う生徒たちの笑い声が壁に反響する。陽菜はさっきまでの息苦しさを隠すようにはしゃぎ、俺の袖を引いてはお化け屋敷の看板を覗き込んだりした。


「幹也くん、あっちの射的も行こうよ! 私、意外と才能あるかもしれないし!」


 強引に手を引かれ、階段を上りかけたその時だった。


 陽菜の足が、ふらりと虚空を掻いた。


「……っ、あ」


 短い呼気とともに、彼女の体が後ろに傾く。俺は咄嗟に腕を伸ばし、彼女の細い手首を掴み、そのまま手をきつく握りしめた。


 驚くほど、冷たかった。周囲の熱気が嘘のように氷のように冷え切り、小刻みに震えている。


「おい、大丈夫か」


「……ごめん。ちょっと、はしゃぎすぎちゃった、かな。足が、なんか……言うこと聞かなくて」


 階段の途中で立ち止まったまま、陽菜が顔を上げる。


 そこには、夜の病室で「消えるのが怖い」と泣いていた、孤独で弱々しい子供のような琥珀色の瞳があった。


「恥ずかしいな。……ねえ、幹也くん。私、ちゃんと笑えてる?」


「……馬鹿なこと言うな」


 俺は、彼女の手を離さなかった。その恐ろしいほどの冷たさを俺の体温で上書きするように、痛いほど強く握り返した。


 この冷え切った手がいつか完全に動かなくなる。その事実を突きつけられるだけで、息の仕方を忘れそうになる。救うつもりで近付いたはずが、いつの間にか俺の方が彼女の放つ不器用な光にすがりつき、この身を焦がすほどの熱を求めてしまっているのだ。


「明日もある。……無理はせず、ゆっくり歩こう」


 陽菜の目がわずかに見開かれ、やがて彼女の細い指先が、すがりつくように俺の指をきゅっと握り返してきた。

  

 人混みを避けながら辿り着いたのは、体育館前の通路に設けられた射的の出店だった。


 使い古された機械油と、わずかな火薬の匂い。陽菜は息を弾ませながら狙いを定める。だが、その視線は定まらず、空気銃を持つ手も震えている。


「あれ? おかしいな。的が二重に見える……」


「……貸してみろ」


 引き金を引く前に、俺は彼女の背後に回り、彼女の手の上から空気銃を握った。


「あ、幹也くん……?」


「明日、すべてを燃やし尽くすんだろ。無駄な体力は使うな」


 俺の腕の中にすっぽりと収まる彼女の身体は、やはり冷たかった。彼女の甘ったるいシャンプーの匂いが俺の嗅覚を支配する。


 腕の中の細い輪郭がふいに溶けて消えてしまわないよう、俺は無意識のうちに背中へ回した手に力を込めていた。


「……幹也くんの手、あったかい」


 彼女の小さな呟きと共に、俺は銃口を微調整する。狙ったのは、段の奥に置かれた、一等星を模した安っぽいガラス細工だった。


 引き金を引いた瞬間、コルク弾が命中し、ガラス細工は棚から落ちて地面に砕け散った。砕けた破片は夕日を浴びて、どこか血の鉄臭を孕んだように紅く瞬いた。


「……壊れちゃいましたね。綺麗な細工だったのに」


「……でも、壊れた瞬間が、一番強く輝いてた」


 俺がそう言うと、彼女は顔を見上げ、俺の腕の中で「そっか。そう、だよね」と小さく息を吐いた。


 その後、俺たちは出店で買った綿飴を手に、人の気配が少ない校舎裏へと向かった。

 窓の外では、秋の短い夕日が校庭を完全にオレンジ色に染め上げていた。


「……綿飴、久しぶりです。甘すぎて、ちょっと喉が渇くかも」


「無理して食うなよ」


「ううん、食べる。飲み物もあるし、こういうの、ずっとやりたかったから」


 陽菜は綿飴を一口食べた。俺も彼女からちぎって渡された綿飴を口に含む。舌の上で暴力的なまでに甘い綿が溶け、喉の奥で、湿った甘さが少しだけ苦く絡まった。


「……幹也くん。私、最低ですよね」


 ふと、陽菜が綿飴を食べる手を止め、静かに言った。西日を受けた彼女の横顔は、透き通るように白い。


「急にどうした?」


「私が死んだ後も、みんなが息ができなくなるくらい、消えない呪いをかけたいって……そう思ってる。みんなの中に、私っていう傷跡を、ぐちゃぐちゃに抉って残したいの」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の胃の奥が冷たく重い鉛に変わった。


 恋人という甘い枠組みには到底収まりきらない、剥き出しのエゴ。遺される側の人生を永遠に縛り付けようとする、醜く、血の滲むような生への執着。


「……ああ、最低だ」


 俺の口から、ひどく乾いた声が漏れた。綺麗事なんて言えなかった。彼女の呪いは、吐き気がするほど重く、悍ましい。


 けれど、俺は空いた手で、彼女の氷のような指先を痛いほど強く握りしめていた。


 父親が死んだ日から空っぽになっていた俺の『暇つぶし』の人生に、彼女の呪いが、太く冷たい杭を打ち込んでいく。


 ……あぁ、狂っている。俺は、この今にも消えそうな命の残滓を喰らってでも、己の中の虚無を埋めようとしているのだ。彼女が消えた後の世界で、自分だけが正常に息を吸って吐くことのほうが、よほど恐ろしい。


 死にゆく人間のエゴにすがりつき、そのすべてを貪ろうとする俺のほうが、お前よりずっと最低じゃないか。


「……ごめんなさい」


「謝るな。謝らなくていい……呪ってくれよ。一生、息ができなくなるくらいに」


「幹也くん……」


「お前がいなくなった後、俺が平気な顔して生きて行けるとは思わない。だけど陽菜が生きていたことは絶対忘れない。俺たちの中で傷跡として必ず生きていくから」


 風が吹き抜け、彼女のウィッグの毛先が微かに揺れる。


 彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは決して美しい涙ではなく、死への恐怖とエゴ、安堵が混ざり合った、生々しい水滴だった。


「明日、世界で一番贅沢な暇つぶしにして、すべてを燃やし尽くそう」


 夕日を浴びながら、俺たちは静かに言葉を交わした。


 彼女の瞳の奥で、確かな熱が瞬く。


 明日、限界を超えてすべてを燃やし尽くし、俺たち全員の胸に「消えない傷跡」を深く刻み込むための、どこまでも生々しい炎が。


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