七
夜は、都合がいい。
暗いだけで、世界の輪郭が曖昧になる。うまく笑えなかった顔も、言えなかった言葉も、夜が勝手にぼかしてくれる。誰かの罪を黙って見逃してくれる夜みたいだ。
河川敷の草は湿っていた。座ると、土の匂いがじわりと上がってくる。湿った泥と、遠くの川の水気。指先が冷たい草に沈む感触が、胸の奥の澱を少しだけ溶かしていく。
ケースを開ける。ギターを膝に乗せた。木の重みが、腿にずしりと落ちる。
弦に爪を立てる。乾いた響きが夜気の中に溶けていく。冷たい金属の感触が、指の熱を一瞬で奪う。
指を走らせる。皮がめくれる痛みが、逆に心地いい。血の鉄の味が、舌の裏にまで這い上がってくる。この痛みだけが、嘘をつかない。
それでも、弦を抉るように掻き鳴らす。
中学の廊下を思い出す。純也と掴み合いになった日。床に落ちたギター。割れる木の音。廊下に残った、嘲るような笑い声。
あの日からだ。本音を隠すようになったのは。言えば壊される。見せれば笑われる。だったら、最初から見せなければいい。
そうやって生きてきた。仮面を被ったまま、誰も傷つけない場所に自分を閉じ込めて。それが、生きるためのやり方だった。
でも彼女は違う。残り時間なんて気にしていないみたいに生きている。むしろ、全部使い切るつもりみたいに。
その輝きを見ていると、腹が立つ。たぶん――俺が臆病だからだ。
パチン、と乾いた音がした。三弦が切れた。
跳ね返った弦が指を裂く。鋭い痛みが、骨まで響く。血がにじむ。温かい液体が、弦に染みていく。
俺はギターを膝に乗せたまま、しばらく動けなかった。
何をしているんだ、俺は。彼女のことを考えているふりをして、結局、自分が傷つかない場所を探しているだけじゃないか。
川の音が、やけに大きく聞こえた。俺の心臓の音みたいだった。
それから一週間。
指は腫れたままだった。夜ごと河川敷に行っては弦に触れ、触れただけで指が震えて、結局何も弾けずに帰る日々が続いた。
教室の蛍光灯がまぶしい。白い光が、目の奥でチカチカと痛む。
「お前、どうしたんだよ、その顔」
明が机に肘をついて言った。視線が俺の手に落ちる。
「それ、どうした」
雑に巻いた絆創膏。血が少し滲んでいる。
「ちょっと切っただけ」
そう言うと、明は小さく息を吐いた。
「その顔で“ちょっと”はないだろ」
椅子の背もたれに寄りかかる。しばらく俺を見ていた。
「なあ、幹也。高一の秋、覚えてるか?」
「……何が」
「生徒会選挙」
思い出す。クラスメイトに頼まれて、応援演説をした。
「お前さ」
明は机の端を指で軽く叩いた。
「カッコつけすぎなんだよ」
小さな音が妙に響く。
「あの時もそうだった。内心バクバクのくせに、余裕そうな顔してさ」
視線を逸らす。
「誰も傷つけない言葉ばっか並べてた」
沈黙。教室のざわめきが遠い。
「本音隠すの、上手いよな」
言い返せない。
明は少し首を傾けた。
「でもさ」
机をもう一度叩く。
「音楽に対しては嘘つけないんだろ?」
胸がわずかに揺れる。
「だから、赤松を傷つけたんだろ?」
視線が合う。
「……そういう感じだろ?」
図星だった。
言葉が出ない。喉の奥が詰まる。
明は肩をすくめた。
「中途半端が一番の暴力だ」
静かな声。教室の音が遠くなる。
「決めろよ」
明は立ち上がる。
「本音出すのか、出さないのか」
一瞬こちらを見る。
「……俺さ」
珍しく照れたように目を逸らした。
「お前のギター」
少し間を置く。
「本当に好きなんだよ」
肩を軽く叩く。
「だから、その音に嘘混ぜんなよ」
総合病院。
白い光。消毒液の匂い。冷たい空気が、肌を刺す。
会計待ちのロビー。
名前を呼ばれた気がして顔を上げた瞬間。
「……赤松さん?」
診察室の方から歩いてくる陽菜。隣には母親。
陽菜は立ち止まった。
驚き。戸惑い。それから、見られたくないものを見られた時の顔。
次の瞬間。陽菜の瞳が、わずかに揺れた。怯えた子どもみたいな目だった。
ほんの一瞬、息を呑む音が聞こえた気がした。
「……っ」
背を向けたまま、彼女はロビーを駆け出した。白い壁に、足音だけが残る。
青白い顔。震えていた膝。文化祭のステージに立ちたい訳。
……その答えが星座のように線で繋がる。
「……ごめんなさいね、佐藤くん」
振り向くと、陽菜の母親が立っていた。
中庭のベンチ。
風に乗って、消毒液の匂いが流れてくる。木の葉の影が、地面に揺れる。
「陽菜、今すごく焦ってるの」
母親は言った。
「自分の時間が長くないこと、あの子は分かってるの」
母親は少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「親より先にね」
言葉が落ちる。
「だからね」
少し間を置く。
「最後に君を選んでまで、音楽がしたいんだと思うの」
胸が強く打つ。
「その理由は分からない。恋心かもしれないし、憧れなのかもしれない。でもあの子は本気なのは目を見ればわかったわ。だから……応えてあげてほしいの」
沈黙。木の葉が揺れる。
母親がふと思い出したように言った。
「今気づいたんだけど」
少し首を傾げる。
「動画、あげてるでしょ?」
心臓が跳ねる。
「陽菜ね、高校受験の年、不登校だったの」
知らなかった。
「部屋に閉じこもってたの」
母親は続ける。
「その時にあなたの動画を見つけたのよ」
呼吸が浅くなる。
「ギターを弾いてる動画を、何度も見てたわ」
あの動画。俺が、逃げるように上げていた音。
「だんだん元気になっていったの」
母親は遠くを見る。
「……多分、救われたのよ」
少しだけ笑った。
「あなたの音に」
視界が滲む。嬉しいのか。悲しいのか。分からない。
俺は、誰かを救えるような人間じゃない。そう思っていた。逃げるようにギターを弾き、逃げるように動画を上げて。音だけ置いてきたつもりだった。
それなのに。
救われたのは――もしかしたら、俺の方だったのかもしれない。
母親は静かに言った。
「陽菜はね」
優しく、少し寂しそうに微笑む。
「あなたの音が、本当に好きなのよ」
その言葉が胸に落ちた。
「怖いのは当たり前よ」
小さく笑う。
「でもあの子、待ってると思うわ」
一拍置く。
「あなたの、本気を」
母親が去ったあとも、俺は動けなかった。明の言葉。陽菜の瞳。俺の音。全部が、頭の中で回っている。
空を見上げる。星が一つだけ光っていた。あいつは、きっとああいう光だ。遠くても、はっきり見える。迷った時、目印になる星。
問題は、俺だ。そこに立てるのか。仮面のままじゃなく、ちゃんと向き合って。
逃げないで。その光の隣に。




