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 夜は、都合がいい。

 暗いだけで、世界の輪郭が曖昧になる。うまく笑えなかった顔も、言えなかった言葉も、夜が勝手にぼかしてくれる。誰かの罪を黙って見逃してくれる夜みたいだ。


 河川敷の草は湿っていた。座ると、土の匂いがじわりと上がってくる。湿った泥と、遠くの川の水気。指先が冷たい草に沈む感触が、胸の奥の澱を少しだけ溶かしていく。


 ケースを開ける。ギターを膝に乗せた。木の重みが、腿にずしりと落ちる。


 弦に爪を立てる。乾いた響きが夜気の中に溶けていく。冷たい金属の感触が、指の熱を一瞬で奪う。


 指を走らせる。皮がめくれる痛みが、逆に心地いい。血の鉄の味が、舌の裏にまで這い上がってくる。この痛みだけが、嘘をつかない。


 それでも、弦を抉るように掻き鳴らす。


 中学の廊下を思い出す。純也と掴み合いになった日。床に落ちたギター。割れる木の音。廊下に残った、嘲るような笑い声。


 あの日からだ。本音を隠すようになったのは。言えば壊される。見せれば笑われる。だったら、最初から見せなければいい。


 そうやって生きてきた。仮面を被ったまま、誰も傷つけない場所に自分を閉じ込めて。それが、生きるためのやり方だった。


 でも彼女は違う。残り時間なんて気にしていないみたいに生きている。むしろ、全部使い切るつもりみたいに。


 その輝きを見ていると、腹が立つ。たぶん――俺が臆病だからだ。


 パチン、と乾いた音がした。三弦が切れた。


 跳ね返った弦が指を裂く。鋭い痛みが、骨まで響く。血がにじむ。温かい液体が、弦に染みていく。


 俺はギターを膝に乗せたまま、しばらく動けなかった。


 何をしているんだ、俺は。彼女のことを考えているふりをして、結局、自分が傷つかない場所を探しているだけじゃないか。


 川の音が、やけに大きく聞こえた。俺の心臓の音みたいだった。




 それから一週間。


 指は腫れたままだった。夜ごと河川敷に行っては弦に触れ、触れただけで指が震えて、結局何も弾けずに帰る日々が続いた。


 教室の蛍光灯がまぶしい。白い光が、目の奥でチカチカと痛む。


「お前、どうしたんだよ、その顔」


 明が机に肘をついて言った。視線が俺の手に落ちる。


「それ、どうした」


 雑に巻いた絆創膏。血が少し滲んでいる。


「ちょっと切っただけ」


 そう言うと、明は小さく息を吐いた。


「その顔で“ちょっと”はないだろ」


 椅子の背もたれに寄りかかる。しばらく俺を見ていた。


「なあ、幹也。高一の秋、覚えてるか?」


「……何が」


「生徒会選挙」


 思い出す。クラスメイトに頼まれて、応援演説をした。


「お前さ」


 明は机の端を指で軽く叩いた。


「カッコつけすぎなんだよ」


 小さな音が妙に響く。


「あの時もそうだった。内心バクバクのくせに、余裕そうな顔してさ」


 視線を逸らす。


「誰も傷つけない言葉ばっか並べてた」


 沈黙。教室のざわめきが遠い。


「本音隠すの、上手いよな」


 言い返せない。


 明は少し首を傾けた。


「でもさ」


 机をもう一度叩く。


「音楽に対しては嘘つけないんだろ?」


 胸がわずかに揺れる。


「だから、赤松を傷つけたんだろ?」


 視線が合う。


「……そういう感じだろ?」


 図星だった。

 言葉が出ない。喉の奥が詰まる。

 明は肩をすくめた。


「中途半端が一番の暴力だ」


 静かな声。教室の音が遠くなる。


「決めろよ」


 明は立ち上がる。


「本音出すのか、出さないのか」


 一瞬こちらを見る。


「……俺さ」


 珍しく照れたように目を逸らした。


「お前のギター」


 少し間を置く。


「本当に好きなんだよ」


 肩を軽く叩く。


「だから、その音に嘘混ぜんなよ」


 総合病院。

 白い光。消毒液の匂い。冷たい空気が、肌を刺す。


 会計待ちのロビー。

 名前を呼ばれた気がして顔を上げた瞬間。


「……赤松さん?」


 診察室の方から歩いてくる陽菜。隣には母親。

 陽菜は立ち止まった。

 驚き。戸惑い。それから、見られたくないものを見られた時の顔。


 次の瞬間。陽菜の瞳が、わずかに揺れた。怯えた子どもみたいな目だった。


 ほんの一瞬、息を呑む音が聞こえた気がした。


「……っ」


 背を向けたまま、彼女はロビーを駆け出した。白い壁に、足音だけが残る。


 青白い顔。震えていた膝。文化祭のステージに立ちたい訳。

……その答えが星座のように線で繋がる。


「……ごめんなさいね、佐藤くん」


 振り向くと、陽菜の母親が立っていた。




 中庭のベンチ。


 風に乗って、消毒液の匂いが流れてくる。木の葉の影が、地面に揺れる。


「陽菜、今すごく焦ってるの」


 母親は言った。


「自分の時間が長くないこと、あの子は分かってるの」


 母親は少しだけ言葉を探すように間を置いた。


「親より先にね」


 言葉が落ちる。


「だからね」


 少し間を置く。


「最後に君を選んでまで、音楽がしたいんだと思うの」


 胸が強く打つ。


「その理由は分からない。恋心かもしれないし、憧れなのかもしれない。でもあの子は本気なのは目を見ればわかったわ。だから……応えてあげてほしいの」


 沈黙。木の葉が揺れる。


 母親がふと思い出したように言った。


「今気づいたんだけど」


 少し首を傾げる。


「動画、あげてるでしょ?」


 心臓が跳ねる。


「陽菜ね、高校受験の年、不登校だったの」


 知らなかった。


「部屋に閉じこもってたの」


 母親は続ける。


「その時にあなたの動画を見つけたのよ」


 呼吸が浅くなる。


「ギターを弾いてる動画を、何度も見てたわ」


 あの動画。俺が、逃げるように上げていた音。


「だんだん元気になっていったの」


 母親は遠くを見る。


「……多分、救われたのよ」


 少しだけ笑った。


「あなたの音に」


 視界が滲む。嬉しいのか。悲しいのか。分からない。


 俺は、誰かを救えるような人間じゃない。そう思っていた。逃げるようにギターを弾き、逃げるように動画を上げて。音だけ置いてきたつもりだった。


 それなのに。


 救われたのは――もしかしたら、俺の方だったのかもしれない。


 母親は静かに言った。


「陽菜はね」


 優しく、少し寂しそうに微笑む。


「あなたの音が、本当に好きなのよ」


 その言葉が胸に落ちた。


「怖いのは当たり前よ」


 小さく笑う。


「でもあの子、待ってると思うわ」


 一拍置く。


「あなたの、本気を」


 母親が去ったあとも、俺は動けなかった。明の言葉。陽菜の瞳。俺の音。全部が、頭の中で回っている。


 空を見上げる。星が一つだけ光っていた。あいつは、きっとああいう光だ。遠くても、はっきり見える。迷った時、目印になる星。


 問題は、俺だ。そこに立てるのか。仮面のままじゃなく、ちゃんと向き合って。


 逃げないで。その光の隣に。


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