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7/22

 京都のデートから一週間が経った今も、赤松さんの様子が気になって仕方なかった。学校で会うたび、視界の端で彼女の姿が白く滲むように見える。


 文化祭の準備で歌詞を書いているはずなのに、手元のノートが止まっている。昼休みのベンチで、一人で空を眺めている背中が、いつもより小さく感じる。顔色が悪い。目が落ち窪んで、唇が乾いている。京都の坂道で笑っていた彼女が心配で、放っておけなかった。


 だから、バッティングに誘った。体を動かせば、少しは五感が刺激されて、歌詞のヒントになるかもしれない。その時はそんな言い訳で、自分を納得させた。




 バッティングセンターの自動ドアをくぐると、金属とゴムの匂いが鼻の奥を冷たく刺した。ボールがネットに当たる乾いた音が、天井に跳ね返って頭の上に落ちてくる。機械の低い唸りが、胸の奥まで凍りつくように響く。


 赤松さんが来ていた。頰が青白く、指先が微かに震えている。あの京都のときと同じ制服なのに、どこか小さく、脆く見える。


「いいか、赤松さん」


 俺はバットを肩に担ぐ。グリップテープの擦れた感触が、掌に冷たく馴染む。


「歌はさ、溜まったクソを出すようなもんだよ」


 赤松さんの口元が、ほんの少し緩んだ。


 ボールが飛ぶ。カン、という硬い音が骨まで震わせる。


 汗がグリップを滑らせる。一球目、空振り。二球目、先端をかすめる。三球目——彼女の膝が、内側に折れかけた。視界の端が白く滲むような顔で、床がゆっくり揺れているように見えた。


「……赤松さん?」


 俺はバットを放り投げ、すぐに駆け寄った。肩を掴むと、布越しに体温が異常に低い。胸の奥が、急に冷たく凍りつく。純粋すぎる心配が、逆に俺の背筋を這い上がる。


「大丈夫」


 赤松さんは息を整えながら、笑った。


「ありがとう。今の言葉、作詞のヒントになりそう」


 ……嘘だな。目が泳いでる。喉が勝手に、楽な言葉を吐き出してる。でも俺は、それ以上追及できなかった。本当のことなんて、聞きたくないのかもしれない。




 休憩ベンチの金属が、太腿の裏まで冷たく染み込む。水筒の蓋を開けると、冷気が指先にまとわりついた。一口飲む。水が喉を滑る音が、自分の耳にだけ大きく聞こえた。


「……先輩は」


 赤松さんが小さな声で切り出す。


「どうしてそんなに音楽に厳しいんですか」


 俺は少し黙り、空になった水筒を指で回した。


「厳しいっていうか……」


 小さく息を吐くように笑う。


「俺にとっては救済で唯一の武器なんだよ」


 ネットの向こうでボールが転がる乾いた音が続く。


「音楽を最優先してしまう。だから嫌われるんだろうけどな」


 肩をすくめる。クラスで浮いてるのも、親友を結果的に裏切ったのも、全部自分で招いたことだ。でも音楽だけは、嘘じゃない。


「こんな俺が偉そうなこと言える資格なんてないかもしれない。でも音楽にだけは、真剣に向き合ってきたつもりなんだ。それだけは嘘じゃない」


 赤松さんが顔を上げた。その目が、どこか熱を帯びている。




 ファミレスの扉を開けると、油と溶けたチーズの匂いが、ぬるく顔にまとわりついた。テーブルに置かれたピザの熱気が、頰をじんわりと焼く。俺は一切れを掴み、かぶりついた。油が指に伝う。


「赤松さん」


 口を動かしながら言う。


「人生に意味なんてないと思うんだよ」


 赤松さんは黙って聞いている。


「俺さ、中学のとき親父が死んだんだ」


 フォークが軽く震えた。


「昨日まで普通にメシ食ってたのに」


 ピザの端を潰す。トマトソースが指に染みる。


「次の日には骨になってた」


 少し笑う。その笑いは、どこか遠い。


「そのとき思ったんだよ。これ全部、ただの暇つぶしなんだなって」


 喉が熱い。赤松さんの目が、俺をまっすぐ見ている。


「だったらさ。楽しまなきゃ損だろ」


「……先輩。自由って何ですか」


 俺は迷わず答えた。


「大人に褒められるバカにならないことかな」


「それと、赤松さん。この前の死の歌、あれダメというか、変かな」


 赤松さんの肩が、わずかに縮んだ。


「怖がりすぎてる」


 俺は指で空中に線を引いた。


「死ってさ。そんな特別なもんじゃないと思うんだよ。生きてる線が、そのまま伸びて。ふっと消えるだけ」


 ぐにり、とトマトが潰れる音がした。




 俺たちは一言も交わさないまま、自動ドアを抜けて夜の街に放り出された。

 

 店内の油っぽい熱気から一転して、国道沿いは、大型トラックが撒き散らす排気ガスと、濡れたアスファルトの冷たい匂いが立ち込めていた。。

 

 ガード下を潜るとき、頭上で電車が通り過ぎる轟音が響いた。コンクリートが震え、その振動が靴の底から脳を揺さぶる。

 その轟音が止み、不自然なほどの静寂が訪れたその瞬間――。


「……先輩には、わからないんですよ」


 赤松さんの声が低く、勝手に出た。俺は眉を寄せる。


「何が?」


「何かを語れるほどの経験なんて……生きてる間は、結局みんな何も知らないまま死ぬんです」


 俺は少し考え、そしてあっさり笑った。


「そうだよ。だからいいんだよ。何も知らないから、今この瞬間を面白がれる」


 その瞬間——赤松さんの目が、あの京都のホームで「明日から、超いい歌、聴かせてあげるから!」って笑ったときと同じ熱を帯びた。


 何か、胸の奥で静かに切れた音がした。


「……先輩には、わからないんですよ」


 今度は、声が震えていた。


「自由? 暇つぶし? 面白い? そんなの、明日がある人が言うから綺麗なんです!」


 俺は一歩近づく。


「赤松さん、どうしたの?」


「先輩の音楽、好きでした」


 赤松さんは続ける。喉が焼けるように痛そうに。


「でも今は……ただの暴力です」


 俺の足が止まった。顔から血の気が引くのが、自分でもわかった。


「……俺はただ、君の曲に、期待しているんだ。少しでも力になれたらって」


「もういいです」


 赤松さんは首を振る。


「私の曲なんて、先輩には一生書けません」


 俺が追いかけようとすると、睨まれた。


「来ないで」


 声が小さくなる。


「……もう、先輩の顔見たくない」


 その言葉が、胸に突き刺さった。

 困惑と苛立ちが、一瞬で凍りつく。

 あの京都のホームで『明日から、超いい歌、聴かせてあげるから!』って、窓ガラスに映る自分の青白い顔で微笑んでいたあいつが——

 今、俺を壊そうとしている。

 その確信が、背筋を冷たく這い上がる。


 駅のベンチに腰を下ろした赤松さんの背中が、街灯の下で小さく震えている。俺は動けなかった。夜の風が、火照った頰を凍えるように切り裂く。街灯の光が、アスファルトに白く、冷たく落ちている。


 君は……何を抱えてる?

 あの笑顔の裏で、何かが静かに笑っている気がした。

 ……どうして。

 でも胸の奥が、甘く、冷たく、痺れる。

 この感覚、初めてだ。


 明日以降、君が約束した『超いい歌』を、聴けるのか。

 それとも——

 俺のすべてを、音を立てて壊すための歌を、聴かされるのか。 その考えが、静かに、冷たく、俺の鼓動を締めつけた。


 星は、燃え尽きる直前に一番輝くという。

 なら赤松さんは、今、どれだけ輝いているんだ?

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