六
京都のデートから一週間が経った今も、赤松さんの様子が気になって仕方なかった。学校で会うたび、視界の端で彼女の姿が白く滲むように見える。
文化祭の準備で歌詞を書いているはずなのに、手元のノートが止まっている。昼休みのベンチで、一人で空を眺めている背中が、いつもより小さく感じる。顔色が悪い。目が落ち窪んで、唇が乾いている。京都の坂道で笑っていた彼女が心配で、放っておけなかった。
だから、バッティングに誘った。体を動かせば、少しは五感が刺激されて、歌詞のヒントになるかもしれない。その時はそんな言い訳で、自分を納得させた。
バッティングセンターの自動ドアをくぐると、金属とゴムの匂いが鼻の奥を冷たく刺した。ボールがネットに当たる乾いた音が、天井に跳ね返って頭の上に落ちてくる。機械の低い唸りが、胸の奥まで凍りつくように響く。
赤松さんが来ていた。頰が青白く、指先が微かに震えている。あの京都のときと同じ制服なのに、どこか小さく、脆く見える。
「いいか、赤松さん」
俺はバットを肩に担ぐ。グリップテープの擦れた感触が、掌に冷たく馴染む。
「歌はさ、溜まったクソを出すようなもんだよ」
赤松さんの口元が、ほんの少し緩んだ。
ボールが飛ぶ。カン、という硬い音が骨まで震わせる。
汗がグリップを滑らせる。一球目、空振り。二球目、先端をかすめる。三球目——彼女の膝が、内側に折れかけた。視界の端が白く滲むような顔で、床がゆっくり揺れているように見えた。
「……赤松さん?」
俺はバットを放り投げ、すぐに駆け寄った。肩を掴むと、布越しに体温が異常に低い。胸の奥が、急に冷たく凍りつく。純粋すぎる心配が、逆に俺の背筋を這い上がる。
「大丈夫」
赤松さんは息を整えながら、笑った。
「ありがとう。今の言葉、作詞のヒントになりそう」
……嘘だな。目が泳いでる。喉が勝手に、楽な言葉を吐き出してる。でも俺は、それ以上追及できなかった。本当のことなんて、聞きたくないのかもしれない。
休憩ベンチの金属が、太腿の裏まで冷たく染み込む。水筒の蓋を開けると、冷気が指先にまとわりついた。一口飲む。水が喉を滑る音が、自分の耳にだけ大きく聞こえた。
「……先輩は」
赤松さんが小さな声で切り出す。
「どうしてそんなに音楽に厳しいんですか」
俺は少し黙り、空になった水筒を指で回した。
「厳しいっていうか……」
小さく息を吐くように笑う。
「俺にとっては救済で唯一の武器なんだよ」
ネットの向こうでボールが転がる乾いた音が続く。
「音楽を最優先してしまう。だから嫌われるんだろうけどな」
肩をすくめる。クラスで浮いてるのも、親友を結果的に裏切ったのも、全部自分で招いたことだ。でも音楽だけは、嘘じゃない。
「こんな俺が偉そうなこと言える資格なんてないかもしれない。でも音楽にだけは、真剣に向き合ってきたつもりなんだ。それだけは嘘じゃない」
赤松さんが顔を上げた。その目が、どこか熱を帯びている。
ファミレスの扉を開けると、油と溶けたチーズの匂いが、ぬるく顔にまとわりついた。テーブルに置かれたピザの熱気が、頰をじんわりと焼く。俺は一切れを掴み、かぶりついた。油が指に伝う。
「赤松さん」
口を動かしながら言う。
「人生に意味なんてないと思うんだよ」
赤松さんは黙って聞いている。
「俺さ、中学のとき親父が死んだんだ」
フォークが軽く震えた。
「昨日まで普通にメシ食ってたのに」
ピザの端を潰す。トマトソースが指に染みる。
「次の日には骨になってた」
少し笑う。その笑いは、どこか遠い。
「そのとき思ったんだよ。これ全部、ただの暇つぶしなんだなって」
喉が熱い。赤松さんの目が、俺をまっすぐ見ている。
「だったらさ。楽しまなきゃ損だろ」
「……先輩。自由って何ですか」
俺は迷わず答えた。
「大人に褒められるバカにならないことかな」
「それと、赤松さん。この前の死の歌、あれダメというか、変かな」
赤松さんの肩が、わずかに縮んだ。
「怖がりすぎてる」
俺は指で空中に線を引いた。
「死ってさ。そんな特別なもんじゃないと思うんだよ。生きてる線が、そのまま伸びて。ふっと消えるだけ」
ぐにり、とトマトが潰れる音がした。
俺たちは一言も交わさないまま、自動ドアを抜けて夜の街に放り出された。
店内の油っぽい熱気から一転して、国道沿いは、大型トラックが撒き散らす排気ガスと、濡れたアスファルトの冷たい匂いが立ち込めていた。。
ガード下を潜るとき、頭上で電車が通り過ぎる轟音が響いた。コンクリートが震え、その振動が靴の底から脳を揺さぶる。
その轟音が止み、不自然なほどの静寂が訪れたその瞬間――。
「……先輩には、わからないんですよ」
赤松さんの声が低く、勝手に出た。俺は眉を寄せる。
「何が?」
「何かを語れるほどの経験なんて……生きてる間は、結局みんな何も知らないまま死ぬんです」
俺は少し考え、そしてあっさり笑った。
「そうだよ。だからいいんだよ。何も知らないから、今この瞬間を面白がれる」
その瞬間——赤松さんの目が、あの京都のホームで「明日から、超いい歌、聴かせてあげるから!」って笑ったときと同じ熱を帯びた。
何か、胸の奥で静かに切れた音がした。
「……先輩には、わからないんですよ」
今度は、声が震えていた。
「自由? 暇つぶし? 面白い? そんなの、明日がある人が言うから綺麗なんです!」
俺は一歩近づく。
「赤松さん、どうしたの?」
「先輩の音楽、好きでした」
赤松さんは続ける。喉が焼けるように痛そうに。
「でも今は……ただの暴力です」
俺の足が止まった。顔から血の気が引くのが、自分でもわかった。
「……俺はただ、君の曲に、期待しているんだ。少しでも力になれたらって」
「もういいです」
赤松さんは首を振る。
「私の曲なんて、先輩には一生書けません」
俺が追いかけようとすると、睨まれた。
「来ないで」
声が小さくなる。
「……もう、先輩の顔見たくない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
困惑と苛立ちが、一瞬で凍りつく。
あの京都のホームで『明日から、超いい歌、聴かせてあげるから!』って、窓ガラスに映る自分の青白い顔で微笑んでいたあいつが——
今、俺を壊そうとしている。
その確信が、背筋を冷たく這い上がる。
駅のベンチに腰を下ろした赤松さんの背中が、街灯の下で小さく震えている。俺は動けなかった。夜の風が、火照った頰を凍えるように切り裂く。街灯の光が、アスファルトに白く、冷たく落ちている。
君は……何を抱えてる?
あの笑顔の裏で、何かが静かに笑っている気がした。
……どうして。
でも胸の奥が、甘く、冷たく、痺れる。
この感覚、初めてだ。
明日以降、君が約束した『超いい歌』を、聴けるのか。
それとも——
俺のすべてを、音を立てて壊すための歌を、聴かされるのか。 その考えが、静かに、冷たく、俺の鼓動を締めつけた。
星は、燃え尽きる直前に一番輝くという。
なら赤松さんは、今、どれだけ輝いているんだ?




