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第9話_まだ温かい

京持は、空いたグラスをマスターの方へ寄せた。

「もう一杯」

マスターはグラスを見た。

「四杯目だ」

「うん」

「まだ飲むのか」

京持は椅子の上で姿勢を直した。

肘をカウンターから下ろす。

両足を床へつけた。

「今日は平気」

マスターは顔を見た。

「水を飲め」

京持は水を取った。

飲んで、置く。

「飲んだ」

マスターはすぐには動かなかった。

京持はカウンターの奥を眺めた。

整然と並んだ瓶と、その下のグラス。

一本の瓶のラベルを読もうとして、少し首を傾けた。

「何見てる」

「酒」

「そうか」

「いっぱいあるな」

マスターは空のグラスを下げた。

新しいグラスを用意した。

京持は満足そうに頷いた。

入口が開いた。

マスターの目が上がる。

京持も振り返った。

黒いフードの下に、血色のない顔があった。

死神は入口から奥へ進んだ。

京持の横を通り、短辺の角席へ座る。

窓を背にして俯いた。

両腕が下りる。

「アイリッシュコーヒー」

マスターが頷いた。

京持はそちらへ身体を向けた。

「こんばんは」

「ああ」

「遅かったな」

死神の顔が、少しだけこちらを向いた。

「そうか」

「俺、もう三杯飲んだ」

死神は京持の前を見た。

水のグラスだけがあった。

「終わりか」

「次が来る」

マスターがミントを潰していた。

死神は正面へ向き直った。

京持も戻った。

「今日は、まだここにいる」

返事はなかった。

京持はソファへ目を向けた。

空いていた。

「向こうも空いてるけど」

マスターがシェイカーの蓋を閉めた。

「歩けるうちに移れ」

「まだ飲む」

「持っていける」

京持は少し考えた。

「ここでできるの、見たい」

シェイカーが鳴った。

京持は手元を見ていた。

四杯目が注がれる。

ミントを叩く音。

グラスが置かれた。

京持は一口飲んだ。

「うまい」

死神の前にも、温かいグラスが用意されていた。

コーヒーが注がれ、白いクリームが重なる。

マスターが置いた。

死神はグラスを見た。

その上を湯気が通った。

手は上げなかった。

コートの内側で、小さな振動音がした。

死神が確かめる。

立った。

京持がグラスを下ろした。

「もう行くの」

「ああ」

「今来たのに」

死神は入口へ向かった。

京持が声をかける。

「俺、今日は待ってるよ」

死神の足が止まった。

顔がわずかに向く。

「待たなくていい」

「まだ飲んでるから」

死神は一度、京持のグラスを見た。

それから扉を開けた。

閉まった。

京持は角席へ目を向けた。

アイリッシュコーヒーから、まだ湯気が上がっていた。

「忙しいな」

マスターは使った道具を洗っていた。

京持は自分の酒を飲んだ。

*

四杯目は、いつもよりゆっくり減った。

京持は途中で水も飲んだ。

小皿から一つ取り、食べた。

手を伸ばしてから、何を食べたのか見た。

「これ、さっきもあった?」

「あった」

「うまいな」

マスターは皿を少し寄せた。

京持はもう一つ食べた。

角席を見る。

コーヒーの上の白い面は、まだ整っていた。

窓の外では、灯りの消えた建物が増えていた。

京持はグラスを持ったまま、しばらくそちらを見た。

「あいつ、戻るの遅いとさ」

マスターが顔を上げた。

「俺、先に帰るから」

「ああ」

「帰ってきたとこ、見ねえ日もあるんだよ」

「そうだな」

京持は頷いた。

また一口飲む。

「今日は見る」

「見るものではない」

「帰ってくるとこ」

マスターは布をグラスへ入れた。

京持は四杯目を飲み終えた。

空のグラスを置く。

すぐには次を頼まなかった。

水を飲んだ。

入口へ目を向けた。

扉が開いた。

京持の顔が上がった。

死神だった。

フードを被ったまま入ってくる。

マスターが見た。

死神が小さく頷いた。

それだけだった。

角席へ戻る。

座った。

京持はそちらを見ていた。

「早かったな」

「ああ」

「俺、まだいた」

「見えている」

京持は笑った。

死神はグラスへ手を伸ばした。

持ち上げる前に、指が一度止まった。

温かかった。

マスターを見た。

「そのままだ」

マスターが言った。

死神は頷いた。

グラスを持ち上げる。

白いクリームを通して飲んだ。

京持は、その手を見ていた。

「まだ温かい?」

「ああ」

「よかったな」

死神はグラスを置いた。

返事はしなかった。

京持は自分の空のグラスを見た。

「俺も」

マスターが見た。

「何を」

「もう一杯」

「五杯目だ」

「うん。これで終わり」

マスターは京持の目と、カウンターに置かれた手を見た。

京持は椅子に座り直した。

背を伸ばす。

「最後」

水のグラスが手前へ寄せられた。

京持はそれを飲んだ。

マスターは小さく息を吐き、新しいグラスを出した。

「急ぐな」

「急いでねえよ」

京持は死神を見た。

「一緒に飲むだけ」

「私は飲んでいる」

「ああ、うん」

京持は頷いた。

「俺も飲む」

マスターがミントを手に取った。

*

死神はアイリッシュコーヒーを飲んでいた。

一口ずつ、置いてから次を取った。

京持の前で、シェイカーが鳴った。

彼はその音を聞きながら、角席を見ていた。

「温かいと、違う?」

「違う」

「どっちがうまい」

死神はグラスを見た。

「今は、これが温かい」

京持は少し考えた。

「そうだな」

マスターが酒を注いだ。

五杯目が置かれる。

京持はグラスを取った。

角席へ少し持ち上げた。

死神は、ちょうど自分のグラスを置いたところだった。

京持は一人で頷き、飲んだ。

冷たい酒が喉を通った。

「うまい」

グラスを置いた。

手を離すまで、少し間があった。

死神は小皿から一つ取った。

京持も自分の皿へ手を伸ばした。

指が皿の縁へ当たる。

引き寄せようとして、やめた。

「俺、五杯飲んだな」

「まだ残っている」

マスターが言った。

京持はグラスを見た。

「そうか」

また持ち上げる。

一口飲む。

置く。

今度は、カウンターへ置いた肘が動かなかった。

肩が少し下がった。

京持は顔を上げた。

「今日は、平気だったんだけどな」

マスターは近くへ来た。

「移るぞ」

「うん」

京持は椅子から降りようとした。

足を床へつける。

身体を起こしたところで、片手がカウンターに残った。

マスターが腕を取った。

京持は立った。

「歩ける」

一歩出した。

二歩目で、マスターの方へ寄った。

「……ちょっと」

マスターはそのまま支えた。

ソファまで行く。

京持は座るつもりで腰を落とし、横へ傾いた。

マスターがコートの裾を引いた。

背中が落ち着く。

京持は目を開けた。

角席が見えた。

死神はまだ飲んでいた。

「帰ってきたな」

「ああ」

声は、カウンターから届いた。

京持は頷いた。

「よかった」

何がよかったのか、続きはなかった。

目が閉じた。

マスターが呼んだ。

「氷室」

京持の眉が少し動いた。

「水はここだ」

「うん」

グラスは、まだ取らなかった。

*

死神は残りのアイリッシュコーヒーを飲んだ。

最後まで、ぬるくなるほどの時間は掛からなかった。

グラスを置く。

小皿には何も残っていなかった。

マスターがカウンターへ戻った。

京持の前のカクテルグラスを下げる。

半分ほど、酒が残っていた。

死神がそちらを見た。

次に、ソファへ目を向けた。

京持は寝ていた。

片方のスニーカーが床へ下り、もう片方はソファの端に引っ掛かっていた。

マスターがその足を下ろした。

京持は起きなかった。

死神は勘定を済ませた。

マスターが受け取る。

仕事の確認と受け渡しも、短く終わった。

死神が立った。

ソファの前を通る。

京持の口は、少し開いていた。

死神は足を止めなかった。

扉を開け、出ていった。

静かに閉まる。

マスターは角席のグラスを下げた。

まだ、温かかった。

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