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第8話_Bar_Whisper

「ミントは」

「あります」

「氷」

「足しました」

「グラス」

若いバーバックが棚を見た。

マスターも見た。

一つだけ、向きが違っていた。

バーバックが直した。

「揃いました」

マスターは頷いた。

「開けるぞ」

*

最初の客は、ホテルに泊まっている夫婦だった。

「いらっしゃいませ」

マスターの声に、夫が頭を下げた。

妻は窓へ目を向けた。

「綺麗」

「海側ではないんだね」

「海は部屋で見たでしょう」

夫は笑った。

二人は窓側のテーブルへ座った。

メニューを開き、少し相談してから注文した。

マスターが酒を運ぶ。

「お食事はお済みですか」

「下でいただきました」

「何か少し、頼める?」

妻が聞いた。

マスターが幾つか挙げた。

「では、それを」

夫が言った。

「まだ食べるの?」

「君も食べるだろう」

妻はメニューを閉じた。

「少しだけ」

*

「こんばんは」

京持はいつもの端席へ座ってから言った。

「こんばんは」

「シェイク」

マスターが頷いた。

「仕事は」

「ない」

「じゃ、二杯目も考えとく」

「一杯目を出してからにしろ」

京持は肘を置いた。

テーブル席の夫婦が、小さな皿を挟んで話していた。

「ちょっとって、言ったじゃない」

「まだある」

「私の分よ」

京持はマスターを見た。

「俺も何か食おうかな」

「何にする」

「仕事ないし」

「仕事の有無で決めるのか」

「帰ってくるまで、取っとく必要がねえ」

マスターが料理を挙げた。

京持は一つ選んだ。

窓側から、頁をめくる音がした。

京持が肩越しに見る。

プロフェッサーがいた。

本から顔が上がった。

「こんばんは、氷室君」

「こんばんは。いたのか」

「君より先にね」

「今日は静かだな」

「まだ君があまり喋っていないから」

京持は笑った。

「これから食うから、しばらく静かだよ」

「それはよかった」

「読んでるの、難しい?」

「少し」

「じゃ、頑張って」

プロフェッサーは頷いた。

本へ目を戻した。

*

「こんばんは」

緋牡丹が入ってきた。

マスターが目を向ける。

京持も顔を上げた。

緋牡丹は席へ座り、コートを掛けた。

「シンガポール・スリング」

「こんばんは」

京持が言った。

「こんばんは。食べてるのね」

「うん」

「美味しい?」

「うまい」

緋牡丹は皿を見た。

「私も、少し食べようかしら」

「これ?」

「それはあなたのでしょう」

京持は皿を少し動かした。

「一口くらい」

「マスター、一緒に出して」

マスターは頷いた。

京持は皿を元へ戻した。

「仕事?」

「今日はないわ」

「俺も」

「よかったじゃない」

「よかったけど」

京持はグラスを取った。

「よかったな」

緋牡丹は笑った。

「二度言うほど?」

「ボタンも暇なら」

「暇とは言ってないわよ」

「何すんの」

「お酒を飲むの」

「俺と同じじゃん」

「あなたは食べてもいるでしょう」

京持は皿を見た。

「これから同じになる」

マスターが緋牡丹の酒を置いた。

*

窓側の夫婦が勘定を頼んだ。

妻は最後に料理の皿を見た。

「綺麗に食べたわね」

「少しだけ、だったね」

夫が言った。

妻が笑った。

マスターは席へ向かった。

帰る二人へ礼を言う。

京持は二人が通るとき、椅子を少し寄せた。

夫が頭を下げた。

妻も下げた。

京持は会釈を返した。

扉が閉まる。

「何見てたの?」

緋牡丹が聞いた。

「俺も今、皿、空だなと思って」

「少しだけ、ではなかったわね」

「うん」

マスターが戻ってきた。

京持は皿を渡した。

「美味しかった」

「ああ」

「二杯目」

マスターが空のグラスを引き取った。

*

「今日は皆さん、暇なの?」

ミセスは席へ座ると、カウンターを見渡した。

「暇とは言ってないわ」

緋牡丹が答えた。

「俺は暇」

京持が言った。

「あなたは、よく暇そうにしているでしょう」

「仕事待ってんの」

「今夜は?」

「ないって」

ミセスはマスターを見た。

マスターは首を横に振った。

彼女はコートを脱いだ。

「では、私もお客になるわ。ブランディ」

マスターがグラスを用意した。

京持が彼女を見た。

「持ってくるのかと思った」

「何を?」

「仕事」

「今日は持ってないわ」

「ミセスも?」

「ええ」

緋牡丹が酒を飲んだ。

「静かな日ね」

「皆、よい子にしているのかしら」

ミセスが言った。

京持は考えた。

「金がねえのかも」

「それでは、明日も困るわね」

「今日も困る」

ミセスが笑った。

ブランデーが置かれた。

香りを確かめ、一口飲む。

彼女はマスターへ目を上げた。

「今日は違うのね」

「ああ」

「私、そんな顔をしてる?」

「ゆっくり飲めそうだ」

ミセスはグラスを見た。

「そうね」

京持が身を乗り出した。

「違うの?」

「いつものとはね」

「うまい?」

「美味しいわ」

「俺もたまには」

マスターが見た。

京持は自分のグラスへ目を落とした。

ミントが飾ってあった。

「いや、これでいい」

緋牡丹が笑った。

「早かったわね」

「これ、うまいし」

*

「教授は、何してる?」

京持が声をかけた。

「読んでいるよ」

「いや、今日」

プロフェッサーは本から顔を上げた。

「今日も読んでいる」

「仕事は?」

「今日はここへ持って来ていない」

ミセスが窓側へ顔を向けた。

「それは仕事の本ではないの?」

プロフェッサーは表紙を見た。

「読むうちに関わるかもしれないね」

「今は?」

「面白い本だよ」

京持は頷いた。

「一番いい暇の使い方してんな」

「君も、そう悪くはないと思うが」

京持は酒を見た。

料理のなくなった場所も見た。

緋牡丹とミセスを見た。

「そうだな」

「最後にこちらを見たのは、何?」

緋牡丹が聞いた。

「いい客がいる」

ミセスが笑った。

「あなた、今日は働かずに随分得をしているわね」

「金は減ってるよ」

「そうね」

マスターが小皿を置いた。

京持は一つ取った。

「だから、ちゃんと味わう」

緋牡丹は彼の指を見た。

「今日は一つずつなのね」

「うん」

噛んで、飲む。

「二つ目も、うまい」

「よかったわね」

*

客は何組か来た。

マスターが挨拶し、注文を聞いた。

酒を作り、料理を運んだ。

一般客がいる間、ミセスと緋牡丹は少し声を落とした。

京持は椅子の上で姿勢を直した。

しばらくすると、また丸くなった。

「背中、疲れるの?」

ミセスが聞いた。

「真っすぐにしてると」

「筋肉を使わないからでしょう」

緋牡丹が言った。

「今日、仕事してねえし」

「今日だけの話じゃないわ」

ミセスは彼のコートへ目を向けた。

「中に何か着れば、もう少し楽に座れるんじゃない?」

京持は前合わせを押さえた。

「これで楽なんだよ」

「何をしているの、今」

「隠してる」

「その手を使わずに済むでしょう」

京持は少し考えた。

手を離した。

コートが開いた。

二人が見た。

京持はまた押さえた。

「後で考える」

緋牡丹が笑った。

「お酒の方は、すぐ決まるのにね」

京持はグラスを持った。

「そっちは、もう考えてあるから」

*

最後の一般客が帰った。

バーバックが、空いたテーブルを整えた。

グラスを下げ、椅子を揃える。

マスターがカウンター越しに声をかけた。

「飯は」

「済ませました」

「裏を片づけたら、今日は上がっていい」

バーバックは店内を見た。

京持と目が合った。

京持が言った。

「俺は片づかねえよ」

バーバックが笑った。

「分かっています」

緋牡丹が京持へ顔を向けた。

「分かっているそうよ」

「常連だからな」

「自慢するところかしら」

裏へ戻る足音がした。

店内が静かになった。

ミセスは空いたグラスを少し寄せた。

「もう一杯」

マスターが頷いた。

「同じもの?」

彼女は少し考えた。

「ええ。今夜はそれがいいわ」

京持もグラスを寄せた。

「俺も」

「三杯目だ」

「分かってる」

ミセスが京持を見た。

「今、仕事を持ってきたらどうする?」

京持は真面目な顔になった。

「もう持ってこないで」

「まだ作ってないわよ」

「頼んだ」

緋牡丹が言った。

「注文で受付を終えるのね」

「今夜は、そうする」

「ずっと何もなかったじゃない」

「念のため」

ミセスはマスターへ顔を向けた。

「私からの仕事もありません」

緋牡丹も頷いた。

「私も」

京持は窓側を見た。

プロフェッサーがこちらを見ていた。

「私もないよ」

京持は安心した顔で頷いた。

「じゃ、平和だ」

*

「平和で、食べていけるかしら」

ミセスが言った。

京持の三杯目が置かれた。

「今日の俺は、赤字」

「私もよ」

緋牡丹が言った。

「お酒と食事だけ」

ミセスはマスターを見た。

「こちらは?」

マスターはグラスを磨いていた。

「客が来た」

「そうね」

「注文もあった」

京持は自分の酒を見た。

「俺たちも、ちゃんと客だもんな」

「ああ」

「仕事なくても」

「ああ」

緋牡丹が笑った。

「あなた、確認が多いわね」

「いい店だなと思って」

ミセスはグラスを持ち上げた。

「今日は、裏の方だけ商売にならなかったのね」

「俺も、こっち側で働こうかな」

京持が言った。

マスターが顔を上げた。

緋牡丹も、ミセスも見た。

京持はシェイカーへ目を向けた。

「あれ、何回くらい振るの」

「酒による」

「一晩、ずっと?」

「注文があれば」

京持はマスターの腕を見た。

自分の腕も見た。

「やめとく」

「まだ頼んでいない」

マスターが言った。

ミセスが笑った。

緋牡丹はグラスを置いた。

「洗う方なら?」

京持は棚を見た。

綺麗なグラスが並んでいた。

「割りそう」

「よく分かってるわね」

「高いの、分かるから」

プロフェッサーが本を閉じた。

「氷室君」

「ん?」

「今日は、客でいる仕事をしておくといい」

京持は頷いた。

「それならできる」

マスターは布を動かした。

「もう少しゆっくり飲め」

*

三杯目を飲み終えると、京持はロングソファへ移った。

座って、息を吐いた。

「こっちもいい」

ミセスが振り返った。

「今日は一日、何でもいいのね」

「うん」

「仕事はないけど」

京持は目を閉じかけて、開けた。

「それは明日、考える」

緋牡丹は残った酒を飲んだ。

「今日は靴も破れなかったし」

京持は足を上げた。

つま先を見た。

「元から破れてる」

「増えなかったという話よ」

「そうか」

足を下ろした。

マスターが水を運んだ。

京持は受け取った。

飲んで、卓へ置く。

「ありがと」

マスターはカウンターへ戻った。

ミセスがプロフェッサーを見た。

「本は終わった?」

「一区切りついた」

「では、お帰り?」

「もう少し考えてから」

京持がソファから声をかけた。

「難しかった?」

「最後まで読んだら、前のところが気になった」

「戻るのか」

「ああ」

京持は頷いた。

「じゃあ、暇はなくならねえな」

プロフェッサーは少し笑った。

「今のところはね」

*

ミセスが先に勘定を頼んだ。

緋牡丹も続いた。

二人とも、今夜は受け取る封筒がなかった。

酒と食事の分だけ払った。

「久しぶりに、普通に飲んだわ」

ミセスが言った。

「いつも普通に飲んでるでしょう」

緋牡丹が言った。

「仕事の話をしなかった、という意味」

「私もしてないわね」

二人は少し考えた。

「じゃあ、いい夜だったんじゃない?」

緋牡丹が言った。

ミセスは頷いた。

「そうね」

コートを着る。

京持が身体を起こした。

「帰る?」

「ええ」

「おやすみ」

「あなたも、ちゃんと帰るのよ」

「帰るよ」

ミセスが彼を見た。

「いつ?」

京持は水を飲んだ。

「もう少ししたら」

緋牡丹は笑った。

「では、また」

二人が出ていった。

扉が閉まる。

京持はカウンターの方を見た。

空いた席が並んでいた。

窓側では、プロフェッサーが本を鞄へ収めていた。

*

「お先に」

プロフェッサーが言った。

マスターが頷いた。

京持も手を上げた。

「おやすみ」

「おやすみ、氷室君」

プロフェッサーは入口へ向かった。

扉を開けたところで、京持が立った。

「俺も帰る」

プロフェッサーが振り返る。

京持はコートを引っ張り、足元を確かめた。

「待って」

プロフェッサーは扉から手を離した。

その場で待った。

京持はカウンターへ戻った。

勘定は、まだだった。

マスターが伝票を置いた。

京持は金を出した。

額を見た。

小皿のあったところも見た。

「今日は働いたみたいに食ったな」

「食った」

「明日、何かあったら教えて」

「あればな」

京持は頷いた。

「こんばんはって、また来る」

「そうしろ」

京持は入口へ向かった。

プロフェッサーが扉を開けた。

「足元は大丈夫かい」

「うん。腹も減ってない」

「それはよかった」

二人が出ていった。

マスターは扉の向こうを確認した。

客はいなくなった。

裏も片づいていた。

マスターは入口を閉めた。

カウンターへ戻り、最後の水のグラスを下げる。

洗って、拭いた。

棚へ収め、向きを揃えた。

今夜、仕事の封筒は一つも出さなかった。

ミントはよく減った。

マスターは残りを確かめ、翌日の補充分を書いた。

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