第7話_チャーム
氷室京持が戻ってきたとき、依頼人はカウンターの中央に座っていた。
目の前には、水のグラスがあった。
京持は男の隣へ、細長い包みを置いた。灰色の布に巻かれ、二本の革紐で留めてある。
「これ」
男が手を伸ばした。
マスターが先に、カウンターの内側へ引いた。
「確認してからだ」
「ええ。もちろん」
男は手を膝へ戻した。
京持はその隣に腰を下ろした。
「鍵、聞いてたのと違ったぞ」
「開かなかったんですか」
「開いた。裏の方が」
コートの袖を引いた。
左手の甲に、細い擦り傷があった。
「表、途中から別の錠にしてたんじゃねえかな」
「それは知りませんでした」
「うん。俺も行くまで知らなかった」
マスターが革紐を解いた。
布を開くと、古い金属製のケースが出てきた。蓋の中央に、薄く紋章が残っている。
「これで間違いないか」
「はい」
「中もだ」
男が蓋を開けた。
中には、小さな部品が幾つも並んでいた。薄い板と、輪と、歯のついたもの。京持には、何かの機械を分解したように見えた。
男は一つずつ確かめた。
数え終えると、息を吐いた。
「揃っています」
「じゃあ、俺は終わり?」
京持が聞いた。
「ああ」
マスターが言った。
「ご苦労だった」
「シェイク」
京持は椅子を下りた。
入口に近い、いつもの席へ戻る。
マスターが冷えたグラスを出したところで、扉が開いた。
*
入ってきた男は、店内を見回さなかった。
中央の客と、その前にあるケースを見て、まっすぐ歩いてきた。
「やっぱり、ここか」
依頼人が顔を向けた。
「どうして」
「さっき、あれを持って出るのが見えた。お前の車も下にあった」
京持は自分の袖を見ていた。
新しく来た男が、カウンターへ手をついた。
「それは私の物です」
マスターはケースを閉じた。
「お連れ様ですか」
「違います」
二人が、ほとんど同時に答えた。
京持は顔を上げた。
「知り合いではあるんだな」
どちらも返事をしなかった。
「それを返してもらいたい」
後から来た男が言った。
「売る話は取りやめた。そう伝えたはずだ」
「昨日になってですよ。こっちはもう動いてるんです」
「だから、取りやめると言った」
「保管先から引き揚げるだけでも金がかかる。今、戻ってきたところなんです」
依頼人が京持を見た。
「あなたからも、何か言ってください」
「何を?」
「事情はわかるでしょう」
「俺、あそこから持ってきただけだよ」
後から来た男も、京持へ顔を向けた。
「私の所有物だと知っていましたか」
「持ち主が誰かまでは聞いてねえな」
「では、今、知っていただけたわけです」
男はマスターへ向き直った。
「渡さないでください。その男に処分する権利はありません」
マスターはケースを、自分の側へ寄せた。
京持はそれを見た。
「俺、まだ仕事?」
「回収は終わってる」
「うん」
京持は袖から手を出した。
「じゃ、シェイク」
マスターが、ミントの入った容器へ手を伸ばした。
*
「まず、お掛けください」
マスターが言った。
後から来た男は、空いた椅子を見た。
「私は話をつけに来たんです」
「立ったままでも聞きますが、通路は空けてください」
男は背後を見た。
テーブル席から出てきた客が、少し離れたところで待っていた。
男がカウンターへ寄ると、客はその後ろを通って入口へ向かった。
「ありがとうございました」
マスターが見送った。
扉が閉まった。
後から来た男は、椅子に座った。
「何かお飲みになりますか」
「……ウィスキーを」
「飲み方は」
「水を少し」
マスターはうなずき、依頼人へ目を向けた。
「あなたは」
「同じ物を」
京持は顎を手に載せた。
「俺のあと?」
「お前のあとだ」
「よかった」
依頼人が京持を見た。
京持は、シェイカーへ氷が入る音を聞いていた。
*
酒が三人の前に置かれた。
京持の前には、薄く靄の降りたカクテルグラス。
二人の男の前には、水を加えたウィスキー。
それぞれに、小さな皿も置かれた。
燻したナッツと、薄く切った乾燥果実が載っている。
「これは頼んでいませんが」
後から来た男が言った。
「チャームです」
「料金は」
「いただきません」
京持はナッツを一つ取った。
「酒頼むと出るの」
男が彼を見た。
「あなたに聞いたわけではありません」
「うん」
京持は食べた。
少し塩が強かった。
シェイクを飲んだ。
マスターが二人へ言った。
「こちらが受けたのは、保管先からこのケースを回収して、指定の受取人へ渡す仕事です。氷室の担当は回収まで。受け渡しはこちらで行います」
依頼人がうなずいた。
「私です」
「ああ。その指定をしたのも、あんただ」
「だから、私に渡してください」
「その前に確認する。これは、あんたが売る物なのか」
「私が売却を任されています」
「誰に」
依頼人は、隣を見た。
後から来た男が言った。
「私です。売却の仲介を頼んだ。しかし、その話は取り消した」
「買い手はもうついていたんです」
「正式に決まったとは聞いていない」
「価格を出したら、それで進めろと言ったでしょう」
「そこから連絡がなかった」
「あなたも返事をしなかった」
二人の声が、少しずつ大きくなった。
マスターは動かなかった。
「そこは、二人で話してください」
依頼人が口を閉じた。
「こちらでは、売却を取り消せるかどうかまでは決めません。受け渡しを変更するなら、あんたから指示を出してもらう」
「しかし」
「回収の代金は、別です。物はここまで戻っています」
依頼人は京持を見た。
京持は乾燥果実を食べていた。
「私はもう、売るつもりはない」
所有者が言った。
「それなら、かかった費用を払ってください」
「いくらだ」
依頼人は鞄を開けた。
紙を出し、カウンターへ置いた。
*
京持の小皿から、ナッツがなくなった。
隣では、二人の男が紙を挟んで話していた。
所有者は買い手へ謝ることには同意したが、仲介人が出した費用の全額を払うことには同意しなかった。
仲介人は、契約書を見ろと言った。
所有者は、そこにその金額は書いていないと言った。
京持は、残った乾燥果実を持ち上げた。
「これ、何」
「いちじく」
マスターが答えた。
「うまいな」
「ああ」
「おかわりある?」
「まだ残ってるだろうが」
「もうすぐなくなる」
マスターは、小皿を見た。
京持は手に持った分を食べた。
「なくなった」
マスターは皿を下げた。
中央では、所有者がようやくウィスキーを飲んだ。
仲介人も飲んだ。
しばらく、紙の上を指が行き来した。
声は、さっきより小さくなっていた。
「ここまで戻す費用は、私が払う」
所有者が言った。
「それから、買い手への連絡も私からする。ただし、売却が成立したときの手数料まで払うつもりはない」
「同じ額を請求しているわけじゃありません」
「では、この項目は何だ」
二人は、また紙を見た。
マスターは京持に、いちじくを少し足した皿を出した。
「ありがと」
京持はシェイクを飲んだ。
*
話がまとまったのは、京持のグラスが空になってからだった。
仲介人が紙の一部を消し、額を書き直した。
所有者が確かめた。
金の支払いを済ませると、仲介人はマスターへ向いた。
「受取人を変更します。この人に渡してください」
「回収の代金は」
「今、払います」
マスターが金額を示した。
仲介人は、自分の酒代と合わせて支払った。
マスターが伝票へ記入する。
それからケースをカウンターへ戻した。
「こちらで確認を」
所有者が蓋を開けた。
仲介人がやったのと同じように、一つずつ数えた。
「揃っています」
「では」
マスターは布を寄せた。
所有者がケースを包み、革紐を締めた。
京持はその手元を見ていた。
「それ、何なの」
所有者が顔を上げた。
「古い時計です」
「時計か」
「父の物でして」
京持はうなずいた。
仲介人が、残った酒を飲んだ。
所有者は自分の小皿を見た。
ほとんど手をつけていなかった。
ナッツを一つ食べた。
「ご迷惑をお掛けしました」
マスターへ言った。
「お気をつけて」
所有者は酒代を払った。
二人は、少し間を空けて席を立った。
京持の後ろを通るとき、仲介人が足を止めた。
「回収は、ありがとうございました」
「どうも」
「錠のことは、本当に知らなかったんです」
「次は確かめといて」
男はうなずいた。
二人が出ていった。
*
マスターがケースを置いていた布を片づけた。
水の跡を拭き、二人のグラスを下げる。
京持は、入口の扉を見ていた。
「あれ、一緒に帰るんだな」
「用が済んだんだろ」
「外でまた喧嘩してたりして」
マスターは返事をしなかった。
京持も、見に行こうとはしなかった。
「報酬、預かっとく」
マスターが言った。
「うん」
京持は自分の手の甲を見た。
擦り傷は、もう血がにじむこともなかった。
「戻ったら終わりって、いいな」
「お前が受け渡しまで頼まれたら別だ」
「今日の俺は?」
「回収までだ」
「じゃあ、今日は終わりでよかった」
マスターは二人の小皿を下げた。
片方は空だった。
もう片方には、ナッツと乾燥果実が残っていた。
「揉めてても、あれ出すんだな」
京持が言った。
「酒を頼んだ客だ」
「どっちにも?」
「どっちにも」
京持は自分の皿を見た。
いちじくが、一切れ残っていた。
「俺にも、もうちょっと」
「食い終わってから言え」
京持はそれを取った。
口へ入れた。
「食った」
マスターは、京持を見た。
「酒は」
「もう一杯」
「ああ」
棚からカクテルグラスを出した。
京持は椅子に座り直し、コートの裾を尻の下から抜いた。
「俺、ここの用心棒までやってねえからな」
「何もさせてねえだろうが」
「うん。確認」
マスターが氷を入れた。
京持は空の小皿を、カウンターの内側へ寄せた。
新しい皿が置かれた。
今度はいちじくが、少し多かった。
京持は一つ取り、シェイカーの音を聞きながら食べた。




