第6話_アザラシの肉
ミセスは、京持が一杯目を飲み終える前に来た。
入口で顔を見合わせると、京持が笑った。
「こんばんは」
「こんばんは。まだ働ける?」
「一杯目」
「間に合ったわね」
彼女は長辺の中央へ座った。
コートを脱ぐと、香りが少しだけ残った。京持は空のグラスを置き、椅子を降りた。
一つ席を空けて、隣へ移る。
「何飲む?」
「ブランデー」
「俺にも?」
「あなたは仕事のあと」
「仕事は?」
ミセスはマスターへ顔を向けた。
「条件を、先にお願い」
マスターが一枚の紙を置いた。
京持は読んだ。
指定の建物で男を受け取り、街を出る車まで送る。車へ乗ったことを確認するまでが仕事だった。
「迎えに行くんだな」
「ああ」
「本人は行きたいの?」
「行きたい」
「じゃ、帰ってくるより楽だ」
ミセスはグラスが置かれるのを待っていた。
「そうだといいけど」
京持が紙から顔を上げた。
「何かあんの?」
「出してくれないの」
「誰が」
「今の雇い主たち」
「辞めるって言えば」
「もう言ったわ」
「駄目だった?」
「慰留されたのよ。とても熱心に」
ミセスは微笑んだ。
京持はその顔を見た。
「嫌そうだな」
「私?」
「話」
「ええ」
ブランデーが置かれた。
ミセスは一口飲んだ。
京持は紙をもう一度見た。
「殴られる方?」
「今夜は、そうならないように話すつもり」
「俺は何すんの」
「迎えに来た人でいて」
「それだけ?」
「余計な慰めも言わないで」
京持の指が止まった。
ミセスはグラスを下ろした。
「礼を言われても、気分はよくないわよ」
京持はマスターを見た。
「何か食うものある?」
マスターが小皿を置いた。
京持は一つ口へ入れた。
噛んで、条件書を畳んだ。
「アザラシの肉か」
ミセスが彼を見た。
「嫌い?」
「食えるよ」
京持は残りを見た。
「うまくはねえけど」
*
男は、二十年以上その組織の帳場にいた。
三人の幹部の下で働いていた。
組織の金を扱い、帳簿をつけ、支払いを合わせた。頼まれれば私用の金も動かした。
古い幹部が退き、新しい幹部が入っても、男は同じ机にいた。
今の三人は、それぞれ男を必要としていた。
一人は、昔から自分の金を任せていた。
一人は、ほかの二人が知らない頼み事をしていた。
一人は、男がほかの幹部へ何を話すかを気にしていた。
誰も、辞めてもよいとは言わなかった。
男はミセスへ相談した。
彼女は話を聞いた。
金も確認した。
男が自分のために蓄えていた分から、費用は出せた。
「全部払えば、出られますか」
男は聞いた。
「全部は要らないわ」
ミセスが答えた。
「残りは、出てから使うでしょう」
「出られれば」
男の手は、膝の上で握られていた。
ミセスはその手を見た。
「ひとつ、聞いていい?」
「はい」
「誰かに、惜しまれて辞めたい?」
男はすぐには答えなかった。
彼女は待った。
長く待った。
「長いこと、勤めましたので」
「そうね」
「せめて、喧嘩をせずに」
ミセスは頷いた。
「殴り合いは、避けましょう」
男は顔を上げた。
「でも、綺麗には辞められないと思う」
*
後任は決まっていた。
男が辞めたいと言い始める前から、若い帳場を一人育てていた。
組織の金の引き継ぎはできる。
問題は、帳簿の外にあった。
個人の借り入れ。
一時的に組織の金から立て替えた支払い。
表へ出さず、男だけが覚えている勘定。
三人とも、自分の分を新しい帳場へ渡してほしくなかった。
ミセスは一人ずつ会った。
色のある話もした。
疲れているなら酒を勧め、急いでいるなら短く済ませた。
相手が聞きたいことから話した。
男は、あなたの分だけを先に片づけたがっている。
その言葉には、全員が耳を傾けた。
「ほかの奴には?」
「あなたが決めてからね」
「全部知ってるのか、あいつは」
「帳場ですもの」
ミセスは笑った。
相手は笑わなかった。
私的な勘定を新しい帳場へ渡すことになる、と伝えると、皆が少しずつ急ぎ始めた。
「今の奴が持っていればいい」
「辞めないなら、そうでしょうね」
「辞めさせなければいい」
「では、また頼み事が増えるわね」
男は彼女を見た。
ミセスはグラスの脚を指で持った。
「ほかの二人も、同じことを言っていたから」
*
今夜の部屋には、卓が一つあった。
三人の幹部が座った。
帳場の男は、少し離れた椅子にいた。
ミセスは卓の端に座った。
京持は扉の近くで立っていた。
男を迎えに来た人間として紹介された。
三人とも、京持の服装を見た。
一人は靴を見て鼻で笑った。
京持は、その顔を覚えた。
それ以外は何もしなかった。
「さて」
ミセスは三つの封筒を置いた。
一人に一つずつ。
「ご自分の分を確かめて」
誰も、すぐには開けなかった。
一人が帳場の男を見た。
「これをこいつに見せたのか」
男が口を開きかけた。
ミセスが先に答えた。
「金額と、精算できるかだけ。中身を読む必要はなかったわ」
「お前に話す必要もないだろう」
「一人で話して、出られなかったからでしょう」
男は封筒を開けた。
紙が何枚かあった。
目を通す。
ほかの二人も、少し遅れて開けた。
全員が静かになった。
ミセスは帳場の男へ顔を向けた。
「組織の方は?」
男は声を整えた。
「引き継ぎを終えています。明朝、後任から報告を出します」
「不足は」
「ありません」
一人が言った。
「本人がそう言ってもな」
ミセスが、その男を見た。
「では、後任の方にも確認していただく?」
男は口を閉じた。
後任が今夜ここへ来ると、封筒の中まで見せる話になる。
ミセスは続けた。
「こちらは、ご自分の勘定だけ確認すれば済むわ」
帳場の男が、一人を見た。
長く金を任されていた相手だった。
「預かっていた分は、こちらへ戻しています」
送金の記録が置かれた。
男は確認した。
別の一人へ向く。
「立て替えた分は、今日、返していただいたので」
その幹部の顔が動いた。
「金の話は、もういい」
「はい」
帳場の男は三人目を見た。
「こちらは、今夜の精算で」
三人目が、卓へ金を置いた。
強い音がした。
「数えろ」
帳場の男は手を伸ばした。
ミセスが金を彼の前へ寄せた。
「数えましょう」
紙を揃え、数を確かめる。
足りていた。
それぞれの受領書へ、帳場の男が署名した。
私的な借用証も返された。
三人はそれを、自分の封筒へ戻した。
*
「これで、勘定は済みね」
ミセスが言った。
「済むかよ」
一人が言った。
「今までのことを、外で喋られたらどうする」
帳場の男は首を横に振った。
「喋りません」
「皆、そう言うんだ」
「私が出した話は、この場で精算するためのものだけです」
「その口があれば、ほかでも喋れる」
ミセスは二人の顔を見た。
「では、あなたのところだけに残す?」
男が彼女を見た。
「どういう意味だ」
「今まで通り、私用の勘定も任せるの。他の二人には、もう頼み事をしないでもらう」
ほかの二人が顔を上げた。
ミセスは、そちらにも目を向けた。
「でも、それでは困るでしょう?」
答えはなかった。
「彼を置くなら、組織の帳場として置くのか、誰か一人の側へ置くのか。後任もいるのだから、そこを決めないと」
三人目が鼻で息を吐いた。
「何の話をしてる。辞めたいんだろう」
帳場の男が頷いた。
「はい」
「なら、辞めればいい」
最初の男が顔を向けた。
「勝手なことを」
「お前が抱えるなら、お前のところで面倒を見ろ。俺の金はもう触らせない」
「俺もだ」
もう一人が言った。
「あんなことを、いちいち紙にしやがって」
帳場の男は黙っていた。
ミセスが小さく頷いた。
「では、今夜で終わりね」
三人の前へ、最後の紙が出た。
組織と私用の引き継ぎ、預かり金の返還、貸し借りの精算が済んだこと。
それ以上の請求を、退職する男へ行わないこと。
退職そのものを認めること。
「ここまで大げさにするか」
一人が言った。
ミセスはその男を見た。
「さっきまでは、辞めさせないとおっしゃっていたから」
男は舌打ちした。
署名した。
別の男も続いた。
最後の一人は、帳場の男を見た。
「恩を仇で返したな」
男の口が開いた。
声は出なかった。
「誰が食わせてやってたと思ってる」
ミセスは口を挟まなかった。
京持も動かなかった。
帳場の男は膝の上へ手を戻した。
「お世話になりました」
「思ってもいないことを言うな」
男は目を下げた。
幹部が署名した。
紙が返された。
ミセスは確かめ、帳場の男へ渡した。
男は、折らずに鞄へ入れた。
*
帰るために立ったとき、男は机の上を見た。
何かを探したのではなかった。
二十年以上使っていた部屋だった。
棚の一段へ目が行き、壁の時計へ移った。
いつもなら、まだ仕事があった。
今夜はなかった。
「鍵」
幹部の一人が言った。
男はポケットを探った。
束を出す。
事務所の鍵。
金庫の鍵。
自分の机の鍵。
一本ずつ分け、置いた。
「まだ持ってるんじゃないだろうな」
男は首を横に振った。
「それで全部です」
「合鍵もだぞ」
「ありません」
「信用できねえな」
ミセスは立っていた。
京持は扉を開けた。
男が鞄を持つ。
幹部が言った。
「二度と来るな」
男は、その言葉を聞いてから頭を下げた。
京持は廊下へ出た。
男が続いた。
ミセスが最後に出た。
扉が閉まる。
男は三歩歩いて、止まった。
鞄の取っ手を持ち直した。
それから、また歩いた。
*
車へ乗るまで、男は喋らなかった。
京持が隣へ座った。
ミセスは前の席に乗った。
車が動き出す。
窓の外を、よく知っている通りが流れた。
男は顔を向けたまま見ていた。
「本当に、帰っていいんですね」
しばらくして、男が言った。
ミセスが後ろを向いた。
「家には寄るけど、長くはいない方がいいわ」
荷物は、もう用意してあった。
次の車も待っていた。
辞められるかどうかを決める前に、ミセスが準備させた。
男は頷いた。
「もっと、ちゃんと話せると思っていました」
ミセスは聞いていた。
「自分で言ったときは、皆さん、残ってくれと言ったんです」
「ええ」
「代わりはいないって」
男の口元が動いた。
笑おうとしたらしかった。
「ああいうふうに、言えるんですね」
誰も答えなかった。
男は膝の上の鞄へ目を落とした。
「自分がいなくなったら、困ると思っていました」
ミセスが言った。
「だから、ここまで辞められなかったのね」
男は頷いた。
「長かったので」
「ええ」
車が曲がった。
男の家は近かった。
京持は窓の外を見た。
何か食べたくなった。
でも、今は何も食べたくなかった。
*
男の荷物は、一つの鞄に収まった。
京持が持った。
男は家の灯りを消し、鍵を掛けた。
玄関の前で、また少し止まった。
今度は振り返らずに歩いた。
街を出るための車が待っていた。
行き先は、京持も知っていた。
そこまで送るのは、別の人間の仕事だった。
京持は鞄を渡し、受け取った相手を確認した。
男が後部座席へ乗る。
扉が閉まる前に、京持を見た。
「ありがとうございました」
「うん」
京持は頷いた。
男がミセスへ顔を向けた。
彼女は窓の近くへ立った。
「また、働けるでしょうか」
男が聞いた。
「何をするかは、向こうで決めて」
「帳場は」
ミセスは少し考えた。
「今日は、決めなくていいわ」
男は黙った。
彼女は続けた。
「自分の金だけは、よく見ておいて。しばらくは減る一方だから」
男が小さく笑った。
「それなら、できます」
「そうね」
ミセスも笑った。
男は頭を下げた。
扉が閉まった。
車が出る。
京持とミセスは、角を曲がるまで見送った。
*
Whisperへ戻ると、京持は端席へ座った。
ミセスは長辺の中央へ戻った。
マスターが二人を見た。
「済んだ?」
「ああ」
京持が答えた。
ミセスが短く報告した。
精算と退職の書面。
鍵の返還。
本人の移動。
マスターが確認を終えた。
報酬が出た。
京持は数えた。
ミセスも自分の分を確かめた。
どちらも、仕舞った。
「シェイク」
京持が言った。
「ブランデーを」
ミセスが続けた。
マスターがグラスを用意する。
京持は、入口の方を見ていた。
男はもう来ない。
今夜、あの三人が来ても、ここでは別の客だった。
マスターの店だった。
京持は正面へ戻った。
「ボタンなら、もっと綺麗にやるかな」
ミセスが彼を見た。
「何を?」
「今日の」
「誰かを殺す話にしたいの?」
「いや」
京持は首を横に振った。
「そういう仕事じゃなかった」
「ええ」
ミセスは指輪を少し回した。
「綺麗に辞めさせたら、惜しくなって取り戻しに来るでしょう」
京持は黙った。
「自分が手放したと思わせた方が、追いにくいのよ」
「二十何年もいたのにな」
「ええ」
「飯、食わせてたってさ」
ミセスはマスターの手を見た。
「働かせてもいたわね」
京持は小皿を引き寄せた。
一つ食べた。
味はした。
「うまくねえな」
マスターが見た。
京持は首を横に振った。
「これじゃない」
「分かっている」
シェイカーが鳴った。
京持は目を上げた。
ミセスも、しばらく話さなかった。
冷えた酒が注がれる。
ミントを叩く音がした。
京持の前へ、グラスが置かれた。
一口飲む。
冷たさが、喉を通った。
「どう?」
ミセスが聞いた。
京持はグラスを見た。
「こっちは、うまい」
彼女はブランデーを飲んだ。
「よかった」
京持は、もう一口飲んだ。
「俺にも、忘れろって言う?」
「何を?」
「今日の」
ミセスは少し黙った。
「覚えていてもいいんじゃない?」
京持が顔を向けた。
「次にああいう人を迎えに行くとき、余計なことを言わずに済むわ」
京持は頷いた。
「うん」
グラスを置く。
ミセスが小皿から一つ取った。
今度は、京持も味を確かめて食べた。




