第5話_2杯目のコーク
弟がWhisperへ戻ってきたのは、五日後だった。
今度は、入口で立ち止まらなかった。
マスターへ頭を下げ、案内された席へ座る。
「コーラを」
値段は、もう知っていた。
弟は警察へもう一度行き、兄から聞いたことと、上司から聞いたことを分けて話していた。
届けの内容は訂正された。
マスターが紹介した調査の手も、遠方ではなく勤務先へ向かった。
コーラが置かれた。
弟は一口飲み、鞄から封筒を出した。
「残りです」
マスターが中を確かめた。
「これで、最初の調査分は済みです」
「兄は」
「まだ見つかっていません」
弟の指が、鞄の口へ残った。
「その先を頼むには」
「別の依頼が入りました」
弟が顔を上げた。
「お兄さんの会社で、荷物が横へ流されていた。荷主が回収を依頼しています」
「兄が、盗んだんですか」
「本人の名前を使った受領記録があります。実際に何をしたかは、本人へ確かめる必要がある」
弟はグラスを見た。
持ち上げなかった。
「捜していただけるんですか」
「その確認と、見つかった場合の保護は、今回の依頼に含まれています」
「私は」
「知っていることを話してください」
弟は頷いた。
鞄から手帳を出した。
*
午前零時を七分過ぎると、氷室京持が入ってきた。
マスターは視線で確認した。
京持が弟へ手を上げる。
「こんばんは」
「こんばんは」
いつもの端席へ座った。
「兄さん、まだ?」
弟が頷いた。
京持も頷いた。
「シェイク」
マスターが長辺の中央へ目を向けた。
「その前に」
京持は立った。
「仕事?」
「ああ」
「じゃ、一杯で出る」
席を移った。
少しして、緋牡丹が来た。
弟の顔を見てから、京持の隣へ座る。
「待たせた?」
「俺も今」
「あなたには聞いてないわ」
「俺も待ってる」
緋牡丹はマスターへ顔を向けた。
「シンガポール・スリング」
マスターが二人へ資料を渡した。
兄の写真と、上司の写真。
荷物の一覧と、受領記録だった。
京持は上司の写真を弟へ向けた。
「説明したの、こいつ?」
「はい」
緋牡丹が写真を引き寄せた。
「私はこちらへ会うわ」
「兄のことを聞くんですか」
「先に、荷物のことを」
彼女は弟を見た。
「あなたに話さなかったことを、話すかもしれないから」
マスターが条件を伝えた。
横流しの経路と、荷物の保管場所を確かめる。
兄を見つけた場合は保護し、安全な場所へ移す。
その引き渡しまでが今回の仕事だった。
弟は京持を見た。
「連れてきていただけるんですか」
「いたらね」
「お金は」
「今夜のは、もう払う人がいる」
マスターが続けた。
「お兄さんを荷主へ勝手に預けるという意味ではありません。無事を確認し、必要なら治療を受けてもらいます」
弟は頷いた。
両手を膝へ置き直した。
緋牡丹が出勤簿へ目を落とした。
「辞めたことになっているのは、月曜日ね」
「土曜日には、もう来なかった」
京持が言った。
「水曜日には会っています」
弟は手帳を開いた。
「仕事で揉めているとは言っていました。でも、いつもの愚痴だと思って」
京持が別の紙を見た。
「これも水曜だ。兄さんが受け取ったって」
「その記録に、本人の署名はあるかな」
窓側から声がした。
京持が顔を向ける。
教授は本へ指を挟んでいた。
マスターが紙を確かめた。
「名前だけだ。保管先は上司の管理する場所になっている」
緋牡丹が、その欄を読んだ。
「では、その人の話を聞くところからね」
教授は頷いた。
弟が言った。
「兄の名前を、使っただけかもしれないんですか」
「それを確かめに行く」
京持が答えた。
資料を揃える。
教授が本へ戻った。
マスターが一杯目を置いた。
京持は飲んだ。
*
緋牡丹が上司に会ったのは、その一時間後だった。
Whisperより賑やかな店だった。
男は彼女を見て、隣の席を空けさせた。
「荷主の方から?」
「なくなった品物が、別のところへ出ているなら、買いたい人がいるの」
男は笑った。
「何の話かな」
「それを決めるために来たのよ」
緋牡丹は資料を出さなかった。
兄の名前も言わなかった。
酒を飲み、男の話を聞いた。
品物はある。
元の荷主が騒ぎ始め、受け取り方を変えなければならない。
男は、それを自分の苦労として話した。
「今夜、見られる?」
「明日なら」
「では、別を当たるわ」
緋牡丹は鞄へ手を掛けた。
男が彼女を止めた。
「急ぐのか」
「あなたほどじゃないけど」
男は少し黙った。
電話を取り出した。
*
京持は車の中で待っていた。
緋牡丹から連絡が来る。
場所と、男がそこへ向かうこと。
京持は運転手へ行き先を告げた。
車は倉庫の並ぶ地区へ入った。
看板のない古い整備場だった。
京持は一つ手前で降りた。
シャッターは閉まっていた。
脇の扉から灯りが漏れ、二人の声がしていた。
京持はマスターへ連絡した。
「場所、合ってる」
「中は」
「二人はいる。兄さんは、まだ分かんねえ」
「連絡を待て」
「荷主には?」
「場所を伝える。受け取りと、お兄さんの車も向かわせる」
京持は通話を切った。
車が来た。
上司の男が降り、緋牡丹も降りた。
男が脇の扉を開ける。
二人が入った。
京持は明かりから離れたまま、待った。
*
荷物はあった。
元の箱が積まれ、詰め替えるための箱も用意されていた。
緋牡丹は一つだけ開け、中を確かめた。
「これなら文句はないだろう」
「数を見ないと」
男は奥の一人へ声を掛けた。
数えさせる。
緋牡丹は事務机と、その向こうの扉を見た。
机には紙の食器が重なり、水の容器があった。
「今夜は、泊まり込み?」
「手伝いがいる」
男はそれ以上話さなかった。
電話が鳴った。
彼が取る。
緋牡丹は鞄へ手を入れ、京持へ短く送った。
*
京持が扉を開けたとき、男は電話を持ったままだった。
目が大きくなった。
「誰だ」
「受け取り」
京持が言った。
緋牡丹が彼の方へ立った。
奥の二人も動いた。
京持は右手をコートの外へ出していた。
「喧嘩しに来たんじゃねえよ」
男はその胸元を見た。
電話の向こうでは、まだ声がしていた。
荷主側からの連絡だった。
保管場所は確認した。
売却の申し出も記録されている。
受け取りの人間を向かわせる。
男は緋牡丹を見た。
「そういう話だったのか」
「売ろうとしたのは、あなたでしょう」
男が通話を切った。
京持は兄の写真を出した。
「この人も、返してほしいんだけど」
男の顔が止まった。
奥の一人が、後ろの扉へ目を向けた。
京持も見た。
「あっち?」
「知らない」
「じゃ、見るよ」
男が腕を伸ばした。
京持は払い、肩で押した。
男の腰が机へ当たった。
奥の一人が近づいた。
緋牡丹が、その男の名前を呼んだ。
さっき上司が呼んだ名前だった。
「荷主の人が来るわよ。あなたも残る?」
男は入口を見た。
京持は後ろの扉を開けた。
*
兄は床に座っていた。
毛布が一枚。
水と、空の弁当箱。
写真より痩せていた。
扉の音で顔を上げる。
京持は写真を向けた。
「これ、あんた?」
兄は目を細めた。
「……弟が」
「捜してる」
兄の顔が歪んだ。
立とうとしたが、片足が動かなかった。
京持はそばへ屈んだ。
「怪我?」
兄が頷いた。
「歩くの、あとにしよう」
腕を肩へ回す。
身体を支え、起こした。
兄が何か言おうとして、咳き込んだ。
「喋るのも、あと」
外で車が停まった。
荷主側の人間が来ていた。
マスターが手配した、兄を運ぶ車も来た。
京持は兄を支えて部屋を出た。
上司が言った。
「そいつは、勝手に」
「本人に聞く。今は、どいて」
京持は通った。
緋牡丹は入ってきた荷主側の二人へ、箱と上司を示した。
京持は兄を車へ乗せた。
扉へ手を掛けると、兄が彼を呼んだ。
「弟は」
「待ってる」
京持は運転手へ顔を向けた。
「先に、診てもらおう」
*
兄はすぐにWhisperへ来られなかった。
治療と、事情を聞く時間が必要だった。
兄が運んだ荷物も、名前だけ使われた記録もあった。
その仕事を断ってから、自由に出られなくなっていた。
弟が遠くへ行ったと聞かされている間も、兄は街にいた。
全部が片づいたわけではなかった。
ただ、兄の居場所は分かった。
その翌晩、弟が店へ来た。
京持は端席にいた。
緋牡丹は少し離れて飲んでいた。
弟はマスターへ、それから二人へ礼を言った。
「飯、食えた?」
京持が聞いた。
「はい。少しですが」
「じゃ、よかった」
緋牡丹がグラスを置いた。
「あなたも食べた?」
弟は答えに詰まった。
「これからです」
「あなたまで倒れないで」
弟は頷いた。
窓側を見た。
教授は本を読んでいた。
弟が席へ近づく。
「こんばんは」
教授が顔を上げた。
「兄が見つかりました」
「聞いたよ」
「ありがとうございました」
弟は深く頭を下げた。
しばらく戻さなかった。
「顔を上げて」
教授が言った。
弟は顔を上げ、目元へ手を当てた。
鞄から封筒を出す。
「少しだけですが」
「私の分はない」
「でも、あのとき」
教授は待った。
弟は封筒を持っていた。
「兄は、遠くへ行ったんだと思っていました」
「うん」
「あのまま、待っていたかもしれません」
教授は本へ栞を挟んだ。
「見つかってよかった」
弟は頷いた。
封筒を仕舞った。
「はい」
もう一度、頭を下げた。
今度は短かった。
教授はその礼を受け取った。
*
弟はカウンターへ戻った。
「コーラを」
マスターがグラスを用意する。
京持は自分の酒を見た。
「今日は、俺よりいい酒だな」
弟が顔を上げた。
「コーラですよ」
「うん」
京持は頷いた。
「うまいだろ」
弟は置かれたグラスを取った。
一口飲む。
泡が喉へ当たった。
冷たかった。
「はい」
緋牡丹が笑った。
京持も酒を飲んだ。
窓側で、頁をめくる音がした。
教授は、店へ来てから一度も席を立っていなかった。




