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第3話_シンガポール・スリングの女

緋牡丹は、片方の耳飾りを外した。

鏡の中で、左右を見比べる。

つけていた方を箱へ戻し、もう少し小さいものを選んだ。

今夜の服には、こちらがよかった。

黒いドレスの肩口から、刺青が覗いていた。肌の上に咲いた牡丹は、腕を動かすと花弁の重なりを変えた。

彼女は身体を少し捻り、背中の布を確かめた。

縫い目は浮いていない。

髪も掛かっていない。

窮屈ではなかった。

腕を下ろす。

鏡の前には、使ったものだけが残っていた。蓋を閉め、順に戻す。

爪の先まで確認してから、時計を見た。

まだ時間があった。

水を飲んだ。

今夜は長くなるかもしれなかった。

*

午前零時を少し過ぎたWhisperには、四人の客がいた。

二人は窓側のテーブルに座っていた。

一人は入口に近いカウンターの端にいた。

奥の窓側には、本を読む客が一人いた。

入口が開くと、カウンターの男が振り返った。

「こんばんは」

グラスを持った氷室京持が言った。

「こんばんは」

緋牡丹はコートを脱ぎ、長辺側の席へ座った。

京持との間には、空席を一つ挟んだ。

「今日は早いのね」

「俺はいつもこれくらい」

「いつも座っているところを見るから、何時に来たのか分からないのよ」

「今日で分かったな」

「明日には忘れてるかもしれないわ」

京持は頷いた。

「俺もそういうの、よくある」

緋牡丹がマスターへ顔を向けた。

「シンガポール・スリング」

マスターは頷いた。

京持は彼女の肩へ目を向けた。

牡丹の一部が見えていた。

そのまま見ていたので、緋牡丹も振り向いた。

「何」

「今日、綺麗だな」

「今日は?」

「今日も」

「言い直しが早いわね」

「間違えたから」

緋牡丹は笑った。

コートを隣の椅子へ掛ける。

京持は自分のコートを見た。

襟を少し寄せた。

寄せても、裸の胸に掛かったハーネスと拳銃の形は分かった。

「あなたも、今日はよく隠してるじゃない」

「今日も」

「そうね。そこは訂正するわ」

京持は酒を飲んだ。

彼女はカウンターへ指を置いた。

手入れした爪に、照明が映った。

「仕事は?」

京持が聞いた。

「これから」

「俺、ない」

「聞いたの?」

「うん」

「まだ来るかもしれないでしょう」

京持はグラスの残りを見た。

「あと一杯ぶんくらいは、待つ」

「そのあとは?」

「ここで飲む客」

「今もそうよ」

「兼業なんだよ」

マスターがグラスを用意した。

緋牡丹は角席へ目を向けた。

今夜は空いていた。

隣の椅子も空いている。

窓側のテーブルでは、二人連れが席を立った。

男が女の上着を持ち、マスターへ礼を言う。

二人が出ていくと、奥の別の席が見えた。

そこには本を読んでいる男がいた。

入口からは死角になる位置だった。窓を背にした横顔と、頁を押さえる手が照明の端に掛かっていた。

傍らのグラスには、まだ飲み物が残っていた。

男は顔を上げなかった。

緋牡丹も、そのまま視線を戻した。

彼女の前へ、背の高いグラスが置かれた。

赤みを帯びた酒の中で、氷が小さく鳴った。

「ありがとう」

一口飲む。

口元からグラスを離してから、息を吐いた。

京持が見ていた。

「何」

「仕事前でも、それ飲むんだな」

「一杯ならね」

「俺も一杯なら、まだ働ける」

「そこ、一緒にしないで」

「二杯だと?」

「あなたの話?」

「俺の話」

「自分で分かるでしょう」

京持は少し考えた。

「二杯だと、断るのが惜しくなる」

「何を」

「仕事」

緋牡丹は彼のグラスを見た。

「一杯でやめておけば?」

「仕事ないって」

「そうだったわね」

二人とも飲んだ。

マスターが小皿を置いた。

緋牡丹は一つ取り、京持は二つ取った。

彼女が見た。

「少しずつ食べたら?」

京持は口の中のものを飲み込んだ。

「うまかった」

「一つ目が?」

「両方」

「二つ目は、別に食べても美味しかったと思うわ」

京持は残りを見た。

「次、そうする」

緋牡丹はグラスを持ち上げた。

冷たい酒が、喉を通った。

*

約束の場所は、会員制のクラブだった。

緋牡丹は車の中で口紅を確かめた。

酒を飲んだ分を、少しだけ直した。

上着の前を閉じ、降りる。

入口の係は彼女の名前を聞き、連絡を入れた。

長く待たされなかった。

奥へ通されると、男がソファから立った。

腕時計は大きく、笑顔も大きかった。

「遅かったね」

「約束は一時でしょう」

「待っていると長いんだ」

緋牡丹は微笑んだ。

男が上着を受け取ろうとした。

彼女は係へ渡した。

「今日は誰が来ているの?」

「君が気にするような奴はいない」

男は彼女の背へ手を添え、部屋の奥へ導いた。

そこには四人いた。

二人は名前を知っていた。

残りの二人は、知らなかった。

男が彼女を紹介すると、全員が一度は見た。

顔の次に、肩を見た。

一人が刺青について口を開きかけたが、男が先に酒を勧めた。

「何を飲む?」

「さっき飲んできたの」

「どこで」

「Whisper」

「あの高い店か」

「美味しいわよ」

「ここにもいい酒はある」

「知ってる」

彼女は男の隣へ座った。

酒が運ばれた。

男は機嫌がよかった。

新しい席につき、古い人間を何人か追い出したばかりだった。

その話を、何度もした。

緋牡丹は聞いた。

相槌を打つ場所は、分かりやすかった。

男が自分の決断を語り終えると、一度笑えばよかった。

「だから、いつまでも同じやり方じゃ駄目なんだよ」

「そうね」

「若い奴にも場所をやらないと」

「あなたは、もらえたの?」

男が彼女を見た。

緋牡丹はグラスへ指を添えていた。

笑顔は変わらなかった。

男は少しして笑った。

「取ったんだ」

「よかったじゃない」

男は酒を飲んだ。

部屋の話題が変わった。

誰かが、最近見ない女の名前を出した。

誰かが笑った。

緋牡丹は自分のグラスを持ち上げた。

口はつけず、香りを確かめた。

係が新しい皿を運んできた。

男が、一つ取って彼女の皿へ置いた。

「食べなよ」

「ありがとう」

「少ないな」

「あとでお腹が空いたら、またいただくわ」

「そんなの気にしなくていいだろう」

男の手が、彼女の腰へ触れた。

緋牡丹は皿を少し動かした。

手が離れた。

「気にするのよ」

「十分綺麗じゃないか」

「だから」

男は笑った。

冗談だと思ったらしかった。

緋牡丹も笑った。

*

予定より、人が減らなかった。

一人は帰ったが、そのあとに二人来た。

男は彼女を隣に置き、酒を飲み続けた。

緋牡丹は時計を見なかった。

見れば、男も見る。

「帰りたいの?」

そう聞かれるのは、まだ早かった。

彼女はグラスを置いた。

「少し席を外すわ」

男は頷き、ほかの男へ話を続けた。

緋牡丹は立った。

化粧室の鏡は、Whisperのものより明るかった。

顔を確かめる。

口紅は綺麗だった。

髪も崩れていない。

指先を洗い、水を飲んだ。

携帯電話を出した。

短い連絡を読み、返した。

今夜でなければならない理由は、相手にある。

彼女には、できないまま引き延ばしてよい理由がなかった。

できなければ、できないと伝える。

その方が後で面倒にならない。

電話を仕舞った。

鏡を見た。

笑ってみた。

問題なかった。

部屋へ戻る途中で、男に会った。

男も席を立ってきていた。

「退屈だった?」

「同じ話を二回聞いたわ」

男は笑った。

「そんなに?」

「少し、お酒が回っているんじゃない?」

男は彼女の顔を覗いた。

「君は平気そうだ」

「飲む速さが違うもの」

「もう少し付き合ってくれよ」

「静かなところなら」

男は少し考え、奥の部屋を指した。

「こっちでいい」

彼女は男を見た。

「いいの?」

「俺の店だ」

「そうだったわね」

*

奥の部屋は、小さかった。

仕事の話にも使うらしく、卓と椅子と、壁際の棚があった。

男が扉を閉めた。

係へ飲み物を頼み、戻ってくる。

さっきより近くへ座った。

「今夜は、ずっとここにいていい」

緋牡丹は笑った。

「あなたは?」

「もちろん」

「皆さん、待つでしょう」

「待たせておけばいい」

男は自分の立場について、また話し始めた。

今度は声が低かった。

緋牡丹は頷いた。

男の手が、肩の刺青へ近づいた。

彼女はそちらの腕を少し返した。

指が花弁をなぞる。

「痛かった?」

「ええ」

「どうして入れたの」

「綺麗だから」

男は、顔を上げた。

彼女は微笑んでいた。

「もっと見たいな」

「そう?」

男は頷いた。

扉が叩かれ、飲み物が運ばれてきた。

男は邪魔をされた顔になった。

緋牡丹が先に礼を言った。

係が出る。

二人になった。

そのあと、男は彼女の肩を見ながら話した。

緋牡丹は、男の顔を見て聞いた。

近い距離だった。

鞄へ手を入れても、男は目を向けなかった。

彼女が何を取り出し、何を済ませたのか、男は知らなかった。

彼の関心は、服の下へ続く絵にあった。

緋牡丹は、そこから先を見せなかった。

*

「帰るの?」

男が言った。

廊下へ出ると、元の部屋から笑い声がした。

「今夜はね」

「もう少しいなよ」

「明日、早いの」

「何時?」

「あなたがまだ寝ている頃」

男は彼女の手を取った。

「ここで寝ればいい」

緋牡丹は、その手を見た。

「あなたが困るでしょう」

「困らないよ」

「では、また今度ね」

上着が運ばれてきた。

彼女は係へ礼を言った。

男はまだ何か言いたそうだったが、別の客が顔を出した。

名前を呼ばれ、そちらを見る。

緋牡丹はその間に上着を着た。

「おやすみなさい」

男は笑った。

「また連絡する」

彼女は頷いた。

入口を出た。

車に乗る。

扉が閉じてから、ようやく時計を見た。

午前三時に近かった。

彼女は背もたれへ身体を預けた。

肩のところで、布が少しだけ突っ張った。

整える。

携帯電話へ短く連絡した。

今夜の仕事として、彼女にできることは終わっていた。

結果は、確認を待つ。

窓の外へ目を向けた。

まだ灯りのある店が、いくつかあった。

「ホテルへ」

運転手に行き先を告げた。

*

Whisperには、京持がいた。

カウンターからロングソファへ移っていた。

入口が開くと、顔を上げる。

目が合うまでに、少し時間が掛かった。

「お帰り」

「ただいま」

「終わった?」

「私はね」

京持は頷いた。

それ以上、聞かなかった。

緋牡丹は同じ席へ戻った。

マスターが彼女を見た。

彼女は小さく頷いた。

マスターも頷いた。

それで済んだ。

「シンガポール・スリング」

グラスが用意された。

緋牡丹はコートを掛け、靴の中で足の指を少し動かした。

踵が疲れていた。

京持が見ていた。

「歩いた?」

「立っていた時間の方が長いわ」

「それも疲れる」

「あなたは座っていたでしょう」

「座る場所、変えた」

「そうね。よく働いたわね」

京持は笑った。

自分の水を飲む。

窓側のテーブルには、まだ本を読んでいる男がいた。

膝の上から別の本を取り、卓へ置いた。

先ほどまで開いていた一冊が、静かに閉じられた。

緋牡丹の前へ酒が置かれた。

彼女は一口飲んだ。

甘みと酸味が、口の中へ広がった。

喉を通る冷たさは、さっきの部屋の酒とは違った。

「美味しい」

マスターは小皿を置いた。

緋牡丹は食べた。

今度は、ゆっくり噛んだ。

京持が言った。

「ボタン」

「何」

「俺も腹減った」

「マスターに言いなさい」

京持はマスターへ顔を向けた。

「腹減った」

「何を食べる」

京持は緋牡丹を見た。

「何がいい?」

「食べたいものにしたら?」

「今、全部」

「それはやめなさい」

京持は真剣に考えた。

マスターは急かさなかった。

ようやく一品決まった。

緋牡丹も、少しだけ頼んだ。

京持が顔を上げる。

「食うんだ」

「食べるわよ」

「さっき、仕事先でも食ったんじゃねえの」

「少しね」

「太るとか気にしてんのかと思った」

「気にしてる」

京持は小皿と彼女を交互に見た。

緋牡丹はグラスを置いた。

「だから、ちゃんと食べるの」

「難しいな」

「あなたは食べるのを忘れるでしょう」

京持は考えた。

「思い出したら、いっぱい食う」

「その分も難しいのよ」

マスターが料理を運んだ。

緋牡丹は姿勢を少し直した。

京持はソファで起き上がり、卓へ近づいた。

最初の一口を食べて、顔が緩んだ。

「うまい」

「よかったわね」

緋牡丹も食べた。

一口ずつ、酒の間に挟んだ。

しばらくすると、京持の喋る量が減った。

食べ終える頃には、瞼が重そうだった。

「帰れる?」

緋牡丹が聞いた。

「帰る」

「いつ?」

「少ししたら」

「そう」

彼女はそれ以上言わなかった。

京持はソファへ背を戻した。

目を閉じた。

緋牡丹は残った酒を飲んだ。

*

帰宅して、最初に耳飾りを外した。

箱へ戻す。

ドレスを脱ぎ、縫い目と裾を確かめた。

汚れはなかった。

肩に残った男の指の感触は、湯で流した。

鏡へ顔を近づける。

化粧を落とすと、疲れが少し見えた。

目の下に指を触れさせる。

明日は、よく眠った方がよかった。

電話が鳴った。

緋牡丹は画面を見た。

「ええ」

相手の話を聞いた。

短い確認を二つした。

男は倒れた。

運ばれたが、間に合わなかった。

仕事は完了していた。

「分かりました」

電話を切った。

鏡へ目を戻した。

残っていた口紅を落とす。

肌の手入れを終え、水を飲んだ。

窓の外は、まだ暗かった。

緋牡丹は目覚ましの時刻を少し遅らせた。

明日も、顔を見られる。

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