第2話_死神のアイリッシュコーヒー
午前零時を七分過ぎた。
氷室京持は、入口に近いカウンターの端へ座った。
マスターは入口で一度顔を確認し、グラスを磨く手を止めなかった。
「こんばんは」
「こんばんは」
「シェイク」
「ああ」
京持はコートの襟を寄せた。
中のハーネスが少し隠れた。拳銃は、相変わらず分かった。
「仕事ある?」
「今夜はない」
「そっか」
京持は肘を置いた。
テーブル席に残っていた二人連れは、最後の酒を飲んでいた。窓の向こうには、山側の灯りが広がっている。
マスターがミントを潰す。
京持は、その手を眺めた。
仕事があれば一杯で出る。なければ、もう一杯頼む。
今夜は後者だった。
一杯目が置かれて間もなく、入口が開いた。
京持はグラスを口元に持ったまま振り返った。
黒いフードを被った男が入ってきた。
背が高かった。肩は狭く、頬もこめかみも落ちている。フードの下の顔には血色がなく、眼窩の暗さが店の照明に馴染まなかった。
上質なコートだった。
艶を抑えた黒い生地は、身体が動いてもほとんど音を立てない。留め具は隠れていて、わずかな金属だけが光を拾った。
テーブル席の女が、その姿を見た。
男は何も言わずに奥へ進んだ。
L字カウンターの短辺、長辺とつながる角の席へ座る。窓を背に、入口の方を向く位置だった。
深く背を丸め、顔を伏せる。
両腕は下りたままだった。
隣の椅子は空いていた。
「アイリッシュコーヒー」
マスターが頷いた。
京持は一口飲んでから声をかけた。
「こんばんは」
男の顔が、わずかにこちらへ向いた。
「ああ」
「今日も?」
「ああ」
「俺、ないんだよ」
男は何も言わなかった。
京持は自分の酒を見た。
「だから、いる」
男が小さく頷いた。
それで挨拶は済んだ。
テーブル席の二人が勘定を頼んだ。
マスターはそちらへ向かうため、入口側にあるカウンター高のスイングドアを押した。大きな身体が出てくると、テーブルの男は背筋を伸ばした。
京持は、二杯目をいつ頼むか考えていた。
角席の男は、俯いたまま待っていた。
*
温かいグラスに黒いコーヒーが注がれた。
ウイスキーの香りが立ち、上に白いクリームが重なった。
マスターが角席へ置く。
男は顔を上げた。
クリームの向こうから、細い湯気が上がっていた。
グラスへ手を伸ばしかけたが、その前に時計を見た。
針は、午前零時半に近づいていた。
手が下りた。
男が立ったので、京持も目を向けた。
「もう?」
「ああ」
「今、できたとこだぞ」
「見ていた」
「一口だけでも」
男はコートを整えた。
「戻ってから飲む」
京持はグラスを見た。
こちらの酒には、湯気も氷もない。
冷たい間に飲む。
それで、残りを口へ運んだ。
「じゃ、またあとで」
男は一度だけ頷いた。
マスターへ短い視線を送り、入口へ向かった。
扉が閉まる。
アイリッシュコーヒーは残った。
京持は空のグラスを置いた。
「いつも、ああだな」
マスターがグラスを引き取る。
「二杯目か」
「うん」
角席のコーヒーは、まだ温かかった。
*
ホテルを出ると、夜の空気がコートの中へ入った。
男は襟元を閉じた。
外ではフードの影が、顔に都合よく落ちた。店内で座っているときほど、人は見なかった。
通りを二つ渡り、車に乗った。
行き先を告げる。
運転手は鏡を一度見ただけだった。
指定した通りの一本手前で降りた。
建物の裏まで歩き、停まっている車を確認した。
対象の車はあった。
運転席に人がいた。
男は歩みを止めず、建物の角を曲がった。
向かいの料理屋は、まだ営業していた。二階の窓だけが明るい。表の入口には、車を待っている男女が一組いた。
男は、少し離れた暗い店先へ立った。
時計を見る。
予定の時刻まで、まだあった。
対象の顔は知っていた。
車も、今夜の予定も確認していた。
引き受けたのは、その男一人だった。
入口の男女が車へ乗った。
店の者が見送り、扉を閉めた。
しばらくして、別の車が来た。
二階の窓の人影が動いた。
対象が降りてきた。
写真より腹が出ていた。顔は同じだった。
一人ではなかった。
若い男を伴っていた。店の者へ何か言い、二人で笑った。階段を下りる途中でも、対象が喋り続けていた。
男は店先に立ったまま見ていた。
予定では、ここで別れるはずだった。
二人は別れなかった。
裏の車が表へ回ってきた。
若い男が先に乗り、対象も乗った。
車が出る。
男は見送った。
時計を見た。
それから、予定していた場所を離れた。
*
京持の二杯目は、半分ほどになっていた。
店には、もう一般客はいなかった。
窓の方へ目を向ける。
角席のグラスの上から、湯気が見えなくなっていた。
「これ、片づけないの?」
京持が聞いた。
マスターは布を動かした。
「戻る」
「うん。戻るけど」
京持はグラスを持ち上げた。
「俺なら、新しくしてほしい」
「お前の注文ではない」
「そうだった」
京持は自分の酒を飲んだ。
まだ冷たかった。
*
車は、対象の家へ向かわなかった。
別の料理屋の前で停まり、若い男だけが降りた。
対象は窓を開け、何か話していた。
若い男が手を振る。
車は再び出た。
男は、それを確認してから足を動かした。
次の場所までは、急がなければならなかった。
歩いているうちに、雨が降り始めた。
薄い雨だった。
フードの表面に細かい水滴がついた。
建物の前へ着いたときには、対象の車はもう停まっていた。
運転手が出て、後部の扉を開けた。
対象は電話を耳へ当てたまま降りてきた。
雨を嫌がって、顔を少し伏せる。
運転手が傘を差しかけた。
男は、道の反対側を歩き続けた。
対象が建物へ入る。
運転手は荷物を取り出し、それを追った。
入口が閉まる。
男は角を曲がった。
予定より、一時間近く遅れていた。
携帯電話を出した。
画面を一度確認し、短く連絡を入れた。
もう一度、対象が入った建物へ目を向ける。
三階の窓に明かりがついた。
男は待った。
*
京持は三杯目を飲んでいた。
グラスを持つ手と、話す口の速度が合わなくなっていた。
「これさ」
マスターが見た。
京持はミントを指した。
「いいよな」
「何が」
「匂い」
「毎晩飲んでいる」
「だから来てる」
京持は頷いた。
自分で言ったことに、満足したらしかった。
角席のアイリッシュコーヒーへ目が移る。
「遅いな」
マスターは返事をしなかった。
京持も、続けて聞かなかった。
グラスを持ち上げた。
*
対象は、三階の部屋を二十分ほどで出た。
入口の扉が開き、今度は一人で歩いてきた。
電話は持っていなかった。
車は、少し先の駐車場へ移っていた。
対象はそこへ向かい、建物脇の通路へ入った。
男も歩いた。
間に、距離があった。
それを詰める間に、対象が一度振り返った。
黒いフードを見た。
歩みが速くなった。
男は、それ以上速くしなかった。
対象の手が上着へ入った。
男の手も動いた。
短い音が二つした。
対象が壁へ当たり、地面へ落ちた。
男は近づいた。
顔を確認した。
上着の中へ入れようとしていた手の先には、携帯電話があった。
男はその場へ残った。
必要な確認を終え、時刻を記録する。
通路の向こうから車の音がした。
男は立ち、来た方とは反対へ歩いた。
雨はまだ降っていた。
*
Whisperの扉が開いたのは、午前二時半を少し過ぎてからだった。
京持はカウンターにいなかった。
マスターは入口を見た。
男のコートの肩には、水滴が残っていた。
「終わった」
男が言った。
マスターは頷いた。
「変更は」
「同行者がいた。別れたあとに」
マスターはそれだけ聞いた。
男は角席へ座った。
窓を背にして、俯く。
両腕が下りた。
少し離れたロングソファから、声がした。
「お帰り」
男はそちらを見た。
京持が座っていた。
身体はソファの端へ傾き、片足が長く伸びている。破れたスニーカーの先が、床を向いていた。
目は開いていた。
「起きていたか」
「うん」
京持は少し考えた。
「たぶん」
男はカウンターへ向き直った。
アイリッシュコーヒーがあった。
クリームの表面は、出る前ほど綺麗ではなかった。グラスに触れると、もう熱はなかった。
男は持ち上げた。
飲む。
冷えたクリームの後に、コーヒーとウイスキーが来た。
甘みも残っていた。
グラスを置く。
「冷めてるだろ」
京持が言った。
「ああ」
「俺、見てた」
「何を」
「冷めてくの」
男はソファへ顔を向けた。
京持は眠そうに笑っていた。
「ずっとか」
「いや。俺も飲んでたし」
男はまたコーヒーを飲んだ。
京持はその手を見ていた。
「もう一杯、作ってもらえばいいのに」
「これを飲む」
「そっか」
京持は水のグラスへ手を伸ばした。
少し遠かった。
身を起こして取り、飲む。
そのまま起きていようとしたが、また背がソファへ戻った。
「仕事は?」
男が聞いた。
京持は首を横に振った。
「来なかった」
「ああ」
「お前は終わった?」
「終わった」
「じゃ、いいな」
男は返事をしなかった。
京持も、それ以上言わなかった。
マスターが男の前へ小皿を置いた。
男は一つ取った。
グラスと交互に口へ運ぶ。
店内には、グラスを置く音と、洗った道具を戻す音があった。
雨に濡れたコートは、肩から少しずつ乾いていった。
「死神」
京持が呼んだ。
男の手が止まった。
「何だ」
「明日、早い?」
「ああ」
「もう今日か」
「ああ」
京持は頷いた。
「じゃ、帰って寝ないとな」
男は残りのコーヒーを飲んだ。
「お前も帰れ」
「うん」
京持は立たなかった。
男は勘定を払った。
酒の分は、酒の分だった。
マスターがそれを受け取り、仕事の報酬は別に渡した。
男は確かめて、コートへ収めた。
席を立つ。
京持はまた目を開けた。
「帰る?」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
男が入口へ向かう。
京持はその背中を見ていた。
上質な黒いコートは、帰るときもほとんど音を立てなかった。
扉が閉まる。
京持は角席を見た。
グラスは空になっていた。
「ちゃんと飲んだな」
マスターがそれを下げた。
*
男は家へ帰った。
玄関でコートを脱ぎ、乾ききっていない肩を確かめた。すぐには仕舞わず、掛けておいた。
靴を脱ぐ。
手を洗った。
明日の持ち物を確かめた。
不足はなかった。
目覚ましの時刻も変えなかった。
部屋の明かりを消す前に、窓の外を見た。
雨は上がっていた。
男はカーテンを閉め、寝床へ入った。
その頃、Whisperでは、マスターが最後のコーヒーグラスを洗っていた。
洗い終えたグラスに、温かい水が残った。
水を切る。
布を入れる。
角席は空いていた。
隣の席も空いていた。




