第1話_ペパーミントシェイク
午前零時を七分過ぎた。
エレベーターから降りた男は、廊下の鏡でコートの襟を寄せた。
薄手の黒い綿は、長く着たせいで縫い目のところから色が抜けていた。首元まで合わせても、胸の膨らみは隠れない。
男は少し考え、諦めた。
Whisperの扉を開ける。
窓側のテーブルには男女が一組いた。女が入口を見て、男の足元へ目を落とした。
破れたスニーカーだった。
上まで見ていく途中で、視線が止まった。
コートの内側に、シャツがなかった。
裸の胸へ革のハーネスが回り、左右の脇に拳銃が一丁ずつ収まっている。
女が連れの袖へ触れた。
男は気づかなかったのか、気づかないことにしたのか、入口に近いカウンターの端へ座った。
マスターは一度だけ目を向け、グラスを磨き続けた。
白いシャツの袖口も、黒いウェストコートも整っていた。大きな禿頭の下には小ぶりなボウタイがあり、その下には濃色のエプロンがある。
男が座り、コートの裾を尻の下から抜いた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「シェイク」
マスターが頷いた。
「仕事は」
「ある」
「じゃ、一杯で出る」
男は椅子を降り、長辺の中央へ移った。
マスターが薄い封筒を置いた。
「付き添いだ」
「どこへ」
「借金を返しに行く」
男は封筒の中を見た。
写真と、短い条件書が入っていた。
「返す方?」
「ああ」
「返せるの?」
「金は揃っている」
「いいじゃん」
マスターは生ミントを手に取った。
「送金と引き換えに借用証を受け取る。依頼人を自宅まで戻す。報酬は帰着を確認してから」
「相手は話ついてんの」
「金額、場所、時刻は合意済みだ」
男は条件書を読み直した。
「これだけ?」
「ああ」
「借金返すのって、もっと静かにできねえのかな」
マスターは答えず、ミントを潰した。
男は写真を置いた。
「依頼人は?」
「来ている」
マスターの視線を追って、男はテーブル席を見た。
男女のいた席とは別だった。
スーツの男が一人、グラスの水滴を指で押していた。写真より少し痩せて見えた。
目が合うと、立ち上がった。
「氷室さんですか」
「うん」
「氷室京持さん」
「それで全部」
男は名乗った。
京持は一度だけ名前を繰り返し、写真へ目を落とした。
「これ、いつの?」
「去年です」
「今日は眠そうだね」
「眠れていないんです」
「そりゃ、返した方がいい」
依頼人は笑おうとして、失敗した。
マスターがミントリキュールとドライジンを量った。ライムジュースを少し加え、氷とともにシェイカーへ入れる。
「お酒を飲まれるんですか」
依頼人が聞いた。
「うん」
「これからなのに」
京持は依頼人のグラスを見た。
「そっちも飲んでんじゃん」
「私は……落ち着かなくて」
「俺も落ち着いて飲みたい」
シェイカーが鳴った。
京持は話をやめ、その手を見た。
強く、短く、何度も振られる。大きな身体の中で、腕だけが正確に働いていた。
冷やしておいたカクテルグラスへ、酒が濾し取られた。
新しいミントを手で叩く、小さな音。
グラスが置かれる。
酒の上へ、ごく薄い霧が沈んだ。
京持は一口飲んだ。
口元が緩んだ。
「うまい」
依頼人はグラスと京持を交互に見た。
「いつも、それを?」
「ペパーミントシェイク」
「強いんですか」
「うん」
「お強いんですね」
「酒?」
「ええ」
「弱いよ」
依頼人が黙った。
京持はもう一口飲んだ。
「金、確認しようか」
*
店を出てから、京持は二丁とも薬室へ弾を送った。
ホルスターへ戻した。
約束の場所は、営業を終えた料理屋だった。
看板の灯りは落ち、客用の椅子が卓の上へ逆さに置かれていた。奥の一卓だけ空いている。
そこに三人いた。
白髪の男が座り、その後ろに二人が立っていた。
一人は京持と同じくらいの背だった。
もう一人は、大きかった。肩も首も太く、袖の中の腕が窮屈そうだった。
京持は二人を見てから、依頼人に言った。
「知ってる人?」
「座っている方は」
「後ろは?」
依頼人は首を横に振った。
「じゃ、勝手に喋らないでね」
「私が?」
「うん。返す話だけ」
白髪の男が入口へ顔を向けた。
「遅くはないが、ずいぶん余裕があるな」
「時間まで、あと四分ある」
京持が言った。
男は腕時計を見た。
「誰だ」
「付き添い」
「名前を聞いている」
「氷室」
男は京持の身なりを見た。
靴、コート、胸元。
「それで護衛か」
「今日はね」
京持は卓の向かいへ座った。依頼人が、その隣へ腰を下ろす。
「金は」
依頼人が端末を出しかけた。
京持が先に言った。
「借用証」
白髪の男は、しばらく京持を見た。
それから書類を出した。
依頼人の手が止まる。
京持は書類を彼の方へ向けた。
「これ?」
依頼人は、借りた額と日付と署名を確かめた。
「はい」
「じゃ、金」
依頼人は端末を操作し、京持へ画面を見せた。
京持は金額と送り先を確かめ、頷いた。
依頼人の指が画面に触れた。
白髪の男が、自分の端末へ目を落とした。
依頼人は膝の上で手を握っていた。
京持は出入口を見た。次に、卓の向こうの二人を見た。
大きい方は、こちらを見ていた。
目が合ったので、京持は軽く顎を引いた。
返事はなかった。
白髪の男が画面を確かめた。
「入った」
依頼人の肩が下がった。
「これで、全部……」
「そうだな」
白髪の男は借用証へ手を置いた。
「元金と、今日までの利息は」
京持が男を見た。
「全部って話だったよ」
「人を待たせた」
「まだ一分ある」
「この数か月の話だ」
依頼人の顔が白くなった。
「それは、お電話で」
「電話は電話だ」
白髪の男は端末を卓へ伏せた。
「こちらにも手間が掛かっている。人を動かした。店まで借りた」
京持は、卓に伏せられた借用証を見た。
「いくら」
金額が告げられた。
Whisperで何晩か飲めた。
京持は依頼人を見た。
依頼人は小さく首を振った。
「ないって」
「あるだろう」
「さっき確認した。これで全部」
白髪の男は京持の方へ身体を向けた。
「お前の雇い賃を回せ」
京持は少し考えた。
「それ、まだ俺の金じゃねえんだ」
「なら、こいつに返せばいい」
「俺が仕事したら、俺の金になる」
「話の分からん奴だな」
「俺、借りてないし」
後ろの大きい男が、一歩近づいた。
京持は背もたれから身体を離した。
「余計なの取るなら、今日はやめよう」
依頼人が京持を見た。
「やめる?」
「話が違う」
「だが、私は」
「今日、全部終わらせるつもりで来たんだろ」
依頼人は頷いた。
京持は白髪の男へ顔を戻した。
「金、返して」
「受け取った」
「じゃ、そっち寄越して」
借用証を指した。
白髪の男は手を動かさなかった。
京持は、立っている二人をもう一度見た。
片方は白髪の男の後ろにいた。
大きい方は近すぎた。
「どっちかにしようよ」
「何を」
「全部返して、こいつが帰るか。金戻して、こいつが帰るか」
白髪の男の頬が動いた。
「帰すとは言っていない」
京持は椅子を少し引いた。
「そこは、俺が頼まれてる」
誰も話さなくなった。
厨房の方で、冷蔵庫の機械が鳴っていた。
白髪の男は、京持の脇へ目を向けた。
コートは開いていた。
革の下に素肌が見えていたが、拳銃も見えていた。
「ここで撃つ気か」
「出してねえよ」
「見せているだろう」
京持は襟を寄せた。
うまく隠れなかった。
「悪い。いつもこうなる」
白髪の男は笑わなかった。
京持は手を卓へ戻した。
「撃たなくて済む方で、決めてくれよ」
しばらくして、白髪の男が借用証を押し出した。
「領収書も」
京持が言った。
男の手が止まった。
「全部返したって、書いて」
白髪の男は依頼人を見た。
依頼人は視線を下げた。
京持は下げなかった。
男は紙を一枚出し、書き始めた。
*
料理屋を出てすぐ、京持は振り返った。
「破るなよ」
依頼人は胸のポケットを押さえた。
「借用証ですか」
「領収書も。しばらく持っといて」
「もちろんです」
依頼人は何度も息を吐いた。
店へ入る前より、吐く息が長くなっていた。
「助かりました。本当に」
「まだ帰ってねえよ」
京持は通りへ目を向けた。
車を拾うつもりだった。
背後で扉が開いた。
依頼人の目が、京持の肩越しへ動いた。
振り返るより先に、首元のコートを掴まれた。
京持は腕を上げた。
大きい男の拳が、脇へ入った。
息が切れた。
足が一歩浮き、壁へ当たる。
「お前、誰に口を利いてる」
二発目が来た。
京持は肘を落とし、受けた。受けた腕ごと身体が押された。
強かった。
正面から押し返しても、戻せそうになかった。
京持は壁へ肩を寄せたまま、口を開いた。
「向こう行け」
依頼人が固まっていた。
「通り。車、止めろ」
大きい男が京持を引き剥がした。
足がもつれた。
京持は踏み直し、掴んでいる腕へ両手を掛けた。男の身体がこちらへ寄る。
額がぶつかった。
どちらのものか分からない血が、顔へ落ちた。
男の手が緩んだ。
京持は壁沿いに一歩離れた。
脇へ手を入れる。
拳銃を抜いたとき、扉からもう一人が出てきた。
男の右手も、上着の中へ入っていた。
京持は銃口をそちらへ向けた。
「出すな」
右手が止まった。
大きい男は鼻を押さえていた。
京持は足を引き、二人から距離を取った。
息を吸うと、脇が痛んだ。
「それ、お前らの仕事?」
誰も答えなかった。
料理屋の奥から、白髪の男が出てきた。
大きい男へ目を向け、次に京持の拳銃を見た。
「下げろ」
「そっちが戻ったら」
白髪の男が二人を見た。
「中へ入れ」
大きい男は、京持を睨んでいた。
「でも」
「入れと言った」
二人が戻った。
京持は銃口を落とした。
「こいつはもう、払い終わってるからな」
通りの方へ顎を向けた。
依頼人が車の前で手を振っていた。
白髪の男は返事をしなかった。
京持は拳銃を収めた。
「俺の分は、今ので済んだ?」
男の目が細くなった。
京持は待った。
「帰れ」
「うん」
京持は通りへ向かった。
依頼人が車の扉を開けていた。
京持は隣へ乗り込み、身体を落とした。
少し黙ってから、言った。
「ちぇ」
*
「病院へ」
依頼人が言った。
「そっちの家へ」
「でも、血が」
京持は手の甲で顔を拭った。
「止まってる」
依頼人はハンカチを出した。
京持は受け取った。
「洗って返す?」
「いえ」
「ありがと」
運転手は鏡を見たが、何も聞かなかった。
依頼人が住所を告げた。
車が動き出した。
京持は背もたれへ頭を預けた。前を向くと顔の傷が引っ張られたので、少し斜めになった。
「手慣れていらっしゃるから、大丈夫なのかと」
依頼人が言った。
「何が」
「あの方が、後ろから来たとき」
京持はハンカチを顔から離した。
「俺も、もう終わったと思ってた」
依頼人は黙った。
「悪かったね。もうちょい、早く出ればよかった」
「そんな。悪いのは、あちらでしょう」
「うん。殴られたのは俺だけど」
京持は脇へ手を置いた。
痛かった。
依頼人は窓の外を見た。
しばらくして、声を落とした。
「明日から、どうすればいいんでしょう」
京持も窓を見た。
まだ開いている店があった。
店の前で二人の男が煙草を吸っていた。路地から自転車が出てきて、車が少し速度を落とした。
「その紙、なくさないで」
「はい」
「また何か言ってきたら、一人で行くなよ」
依頼人は頷いた。
「借りなきゃよかった」
京持は顔へハンカチを戻した。
その先には、何も言わなかった。
*
Whisperへ戻ったのは、午前二時前だった。
一般客のいたテーブルは空いていた。
京持はいつもの端席へ座った。
座り終えてから、息を吐いた。
マスターが顔を見た。
「終わったか」
「うん。金渡して、紙もらって、家まで帰した」
「確認する」
マスターが短い電話を掛けた。
京持は水を飲んだ。
カウンターの奥で、洗ったグラスを戻す音がした。若いバーバックがこちらを一度見て、裏へ戻った。
マスターは電話を終えた。
「確認した」
京持の前へ封筒が置かれた。
京持は中を数えた。
足りていた。
「シェイク」
マスターは封筒を見ず、京持を見た。
「先に手を洗え」
京持は自分の手を見た。
指の間に血が残っていた。
「そうだな」
椅子を降りる。
廊下へ出て、共用の化粧室まで歩いた。
洗面台の鏡に、ひどい格好の男が映っていた。
髪は乱れ、鼻の下に拭き残した血があった。コートの襟は引っ張られて、片方だけ寝ていた。
胸元を直す。
隠れない。
「ちぇ」
手を洗った。
戻ると、マスターがシェイカーを振っていた。
京持は端席へ座り直した。
グラスが置かれる。
朝まで待てば忘れていそうな痛みだったが、今はまだ痛かった。
京持は酒を飲んだ。
ミントとライムが抜け、ジンの香りが残った。
冷たかった。
「うまい」
マスターが小皿を置いた。
京持は一つ食べた。
「相手も、金が返ってきたんだから喜べばいいのにな」
「追加を言われたか」
「うん」
「払ったか」
「払ってねえ」
マスターが頷いた。
京持は酒を飲んだ。
「一発もらった」
「一発か」
「二発目は腕」
「そうか」
京持は右腕を動かした。
痛んだ。
動かさなければよかった。
「でかかったよ」
「名前は」
「聞いてない」
「報告には残す」
京持は大きさと、顔と、服装を話した。
マスターが聞き終えるまで、酒へ手を伸ばさなかった。
「それで全部?」
「ああ」
京持はグラスを取った。
「じゃ、終わりだ」
二杯目の残りを飲んだ。
*
三杯目を頼む頃には、頬へ色が戻っていた。
仕事の封筒はコートのポケットへ入った。
酒の勘定は、別に払った。
額を見て、京持は少し黙った。
「何だ」
マスターが聞いた。
「殴られなきゃ、いい仕事だった」
「次は見ていろ」
「うん」
小皿に残ったものを食べる。
マスターが水を足した。
京持はグラスを取ろうとして、ミントへ指を触れさせた。
葉が揺れた。
「これ、いい匂いするな」
「毎晩飲んでいる」
「毎晩いい匂いする」
マスターは布を手に取った。
京持はゆっくり飲んだ。
窓の外の山側には、灯りがまだいくつも残っていた。
そのうち消える。
別のところでは、また点く。
京持はそこまで眺め、入口へ目を戻した。
誰も来なかった。
「今日は、もう仕事しねえよ」
マスターは頷いた。
「三杯だ」
「ちゃんと数えてんな」
「お前も数えろ」
京持は空いたグラスを見た。
笑うと脇が痛んだので、口元だけで笑った。
椅子を降りた。
ロングソファまで行き、ゆっくり座る。身体を傾ける向きを一度間違え、座り直した。
マスターがカウンター高のスイングドアを押して出てきた。
水が置かれた。
京持は受け取って飲んだ。
「ここ、高いな」
「今夜初めて知ったか」
「いや」
京持はソファへ背を預けた。
「安かったら、もっと飲んでる」
マスターは彼の顔を見た。
「値段の問題ではない」
「分かってるよ」
京持は水を置いた。
拳銃はまだ脇にあった。
報酬もあった。
痛みもあった。
マスターが戻ろうとしたとき、京持が呼んだ。
「明日もある?」
マスターが振り返った。
「何が」
「ミント」
「ああ」
「じゃ、来る」
マスターはカウンターへ戻った。
京持は目を閉じた。
誰かがグラスを磨いていた。




