第14話_オリーブの種
小皿には、緑と黒のオリーブが載っていた。
氷室京持は緑の方を一つ口へ入れ、隣に置かれた空の皿を見た。
「種あるやつか」
「ある」
マスターはグラスを磨いていた。
「食う前に聞け」
「聞く前に食っちゃった」
京持は口の中で種を外した。
小皿へ出し、ペパーミントシェイクを飲んだ。
短辺の角には、死神がいた。
フードをかぶり、両腕を下ろしている。前に置かれたアイリッシュコーヒーからは、もう湯気が立っていなかった。
京持は入口から入ったときに目を合わせ、片手を上げた。それで挨拶は済んでいた。
「仕事がある」
マスターが言った。
京持はグラスを置いた。
「俺に?」
「ああ。話を聞いてこい」
「誰の」
マスターが短辺へ目を向けた。
京持もそちらを見た。
死神が顔を上げた。
「代わりに行ってほしい」
「聞くだけ?」
「聞くだけだ」
「返事は」
「しなくていい」
京持はマスターへ向き直った。
「いくら?」
告げられた額を聞き、うなずいた。
「いいよ」
マスターが一枚の紙を出した。
場所と、相手の名前が書いてあった。
「代理だってことは、向こうに伝えてある。話を聞いて、そのまま持ち帰れ。返事も約束もするな」
「揉めたら?」
「帰ってこい」
「わかりやすくていいな」
京持は紙を折り、コートのポケットへ入れた。
黒いオリーブを一つ食べた。
死神は、コーヒーのグラスを持ち上げた。
「待ってる?」
京持が聞くと、短く返事があった。
「ああ」
「じゃ、なるべく早く戻る」
京持は種を小皿へ出した。
残ったシェイクを飲み終え、席を立った。
*
ホテルのラウンジで、相手の男は待っていた。
細い縁の眼鏡をかけ、膝の上に両手を置いていた。京持が近づくと、立ち上がった。
「代理の方ですか」
「そう」
「お掛けください」
京持は座った。
男も座った。
視線が一度、京持の襟元へ下がった。
京持はコートの前を少し寄せた。
「何かお飲みになりますか」
「水でいい」
「遠慮なさらず」
「仕事中だから」
男はうなずいた。
係を呼び、水を頼んだ。
届くまで、二人とも黙っていた。
「ご本人は、お忙しいんですね」
男が言った。
「そうなんじゃねえかな」
「ご事情は伺っていますか」
「いや」
男は、眼鏡の位置を直した。
京持は水を飲んだ。
「話、聞いてくるように言われただけだからさ」
「承知しています」
「うん」
男は膝の上の手を組み直した。
「その前に、少しだけ確認してもよろしいでしょうか」
「俺で答えられることなら」
「普段は、どういった方なんですか」
京持は男を見た。
「普段?」
「ええ。仕事を離れたときの、人となりといいますか」
「コーヒー飲んでる」
男は待った。
京持も待った。
「……それは、お好きだということですか」
「たぶん。いつも同じの頼むから」
「お酒は」
「入ってるやつ」
「なるほど」
男はうなずいた。
何がなるほどなのか、京持にはわからなかった。
「お付き合いは長いんですか」
「同じ店で飲んでる」
「頻繁にお会いになる?」
「来れば」
「来ない日もある、と」
「そりゃあるよ」
男の指が、膝の上で動いた。
「差し支えなければ、普段のお仕事などは」
「知らねえ」
「では、お住まいは」
「知らねえ」
「ご本名も?」
「知らねえな」
男は黙った。
京持は水を飲んだ。
隣の席で、誰かが静かに笑っていた。遠くで食器が触れ合った。
「お答えになれないことを伺ってしまったようですね」
「いや、知らねえんだって」
「もちろんです」
「ほんとに」
男は小さく頭を下げた。
京持はグラスを置いた。
「仕事の話、聞こうか」
「ええ。ただ、私も初めてですので」
「うん」
「こちらとしては、信用できる方かどうかを、まず知っておきたいんです」
「それ、俺に聞かれてもなぁ」
「代理を任せられるくらいですから、あなたのことは信用していらっしゃるのでしょう」
「聞いて帰るくらいはできると思われてんじゃねえかな」
「あなたは?」
「何が」
「あなたは、あの方を信用しているんですか」
京持は少し考えた。
「金は払うからな」
男の手が止まった。
「それだけですか」
「今日の仕事なら、それで足りるよ」
京持は背もたれから少し体を起こした。
「俺、あんたの話聞いて、帰って伝える。それで金もらう。それ以上のことは頼まれてねえの」
男は京持を見ていた。
「よく、そんな相手の代理を引き受けられますね」
「そんなに難しい話するつもり?」
「いえ」
「じゃあ、大丈夫だよ」
男は、そこで初めて少し笑った。
安心した顔には見えなかった。
*
男が話し始めると、京持は黙って聞いた。
ある人物に対して、仕事を頼みたい。
ただ、まだ決めてはいない。
条件を聞きたい。費用を知りたい。こちらの名前がどこまで伝わるかも、確かめておきたい。
男は同じところへ何度か戻った。
京持は遮らず、水を飲んだ。
「その場合、引き受けていただけるでしょうか」
「持って帰って聞く」
「費用の目安だけでも」
「それも聞く」
「もし、こちらが途中で取りやめるとしたら」
「今、まだ頼んでねえんだろ?」
「ええ」
「じゃあ、その条件も伝えとく」
男はうなずいた。
鞄から封筒を出し、テーブルに置いた。
「必要な情報はこちらに」
「これ、預かっていい?」
「お願いします」
京持は封筒を取った。
男の手が、離れるまで少し時間がかかった。
「返事は、あなたから頂けるんでしょうか」
「そこは決まってねえ。どうしてほしい?」
男が連絡方法を告げた。
京持は紙に書いた。
「ほかは?」
男は考えた。
「今日お話ししたことは、まだ、依頼ではないということで」
「うん。条件聞きたいだけ。そう言っとく」
「お願いします」
京持は立った。
男も立った。
「お名前を伺っても?」
「氷室」
「氷室さん」
「うん」
「本日はありがとうございました」
「どうも」
京持が歩き出すと、背中へ声がかかった。
「本当に、ご本人とは親しいわけではないんですね」
振り返った。
「店で会ったら、喋るよ」
男は、またうなずいた。
京持はそれ以上言わずに、ラウンジを出た。
*
ウィスパーでは、死神が同じ席にいた。
アイリッシュコーヒーのグラスは、空になっていた。
京持が入ると、マスターは手にしていた布を置いた。
「どうだった」
「話、聞いてきた」
京持はいつもの席を通り過ぎ、カウンターの中央に座った。
封筒を出した。
「これ、預かってきた。まだ依頼じゃねえって。条件と値段聞いてから決めたいんだと」
マスターは封筒を受け取り、死神の前へ置いた。
京持は、男から聞いた話を順に伝えた。
途中で二度、確認が入った。
一度はマスターから。
一度は死神から。
京持は答えた。
紙に書いた連絡方法も渡した。
「返事は、あんたからするか」
マスターが聞いた。
「頼む」
死神が言った。
「決まったら言え」
「ああ」
京持は二人を見た。
「俺は終わり?」
「終わりだ」
マスターが答えた。
京持は椅子から下り、入口寄りの席へ戻った。
「シェイク」
マスターが冷えたグラスを出した。
小皿のオリーブは、まだ残っていた。
京持が一つ取ろうとすると、マスターが皿ごと引いた。
「新しいの出す」
「まだ食えるだろ」
「出すから待て」
京持は手を引っ込めた。
死神が、封筒から顔を上げた。
「ほかには」
「ん?」
「何か聞かれたか」
「ああ。お前のこと」
マスターが、新しい小皿を置いた。
京持は黒いオリーブを取った。
「何と答えた」
「知らねえって」
「そうか」
死神は封筒へ目を戻した。
京持はオリーブを食べた。
種を出す皿も、新しくなっていた。
「なんか、仲いいと思われてたみたいだな」
返事はなかった。
聞いていないわけではなかった。
死神は紙を一枚めくった。
「名前も家も仕事も知らねえって言ったら、気ぃ使われちゃったよ」
マスターがミントを潰した。
「言えねえこと聞いちゃいました、みたいな」
「知らねえんだろ」
「知らねえよ」
「じゃあ、そうだろうが」
「向こうはそう思ってくんねえの」
京持は種を小皿へ置いた。
「代理なんか出すからじゃねえかな」
死神が顔を上げた。
「引き受けてくれて助かった」
「うん。楽だった」
それで、また話が切れた。
シェイカーの音が店内に響いた。
*
マスターは酒代とは別に、京持の報酬を預かり、額を記録した。
京持は額を確かめた。
「これ、たまにあるならやるよ」
「話があればな」
「椅子座って、水飲んでりゃいいんだもん」
「ちゃんと聞いてきたんだろうな」
「聞いたって。今、言ったじゃん」
マスターはカクテルグラスを置いた。
京持はすぐに持ち上げた。
冷たい酒を飲み、息をついた。
死神が席を立った。
マスターへ短く告げた。
「あとで連絡する」
「ああ」
京持はグラスを持ったまま、顔を向けた。
「お疲れ」
死神が、わずかにうなずいた。
フードの下の顔が入口へ向く。
隣の空席には、最後まで誰も座らなかった。
扉が閉まってから、京持はオリーブの皿を引き寄せた。
「結局さ」
「何だ」
「何で本人行かなかったんだろうな」
マスターは死神の使ったグラスを下げた。
「聞かなかったのか」
「聞いてねえ」
「じゃあ、知らねえだろ」
「そうなんだよ」
京持は少し笑った。
オリーブの皿へ手を伸ばした。
窓際では、教授が本の頁をめくっていた。
京持はその方を見て、またカウンターへ目を戻した。
種だと思ったものを一つつまみ、種を出す小皿へ移した。
マスターがそれを見た。
「そっちはまだ実がある」
京持は皿をのぞいた。
種だと思ったものは、小さな黒いオリーブだった。
「あ」
「酒、回ったか」
「まだ二杯目だぞ」
「種がわからねえんじゃな」
京持は爪楊枝で拾い直し、口へ入れた。
今度はちゃんと種を外した。
「いた」
舌先で転がして、小皿へ出した。
マスターは鼻で笑った。
京持はシェイクを飲んだ。
さっきの男には、もう少し立派なことを言えたかもしれなかった。
何を言えばよかったかは、思いつかなかった。
オリーブは、まだ三つあった。
*
京持は残った酒を飲み切った。
空のグラスを置く。
「今日は帰る」
マスターが彼を見た。
「もういいのか」
「うん」
勘定が置かれた。
京持は払い、コートの合わせを寄せた。
窓際へ手を上げる。
教授が顔を上げた。
「おやすみ、氷室君」
「おやすみ」
扉を開けた。
三杯目は頼まなかった。
*
部屋へ戻ったとき、三時にはなっていなかった。
コートを脱いだ。
二丁の重さを身体から外し、寝床へ横になった。
天井を見ていた。
目を閉じた。
しばらくして、また開けた。
部屋は暗かった。
*
ツー、と音がした。
京持は跳ね起きた。
足が床へついた。
息を吸った。
そのまま、待った。
続く音はなかった。
壁を見た。
見慣れた染みがあった。
卓に、昨夜脱いだコートが掛かっていた。
時計は六時になった。
京持は座っていた。
しばらく、何もしなかった。
窓の向こうでは、向かいの建物の上の方が明るくなっていた。
部屋の中には、まだ灯りが要った。
京持は窓から目をそらした。
立った。
水を飲んだ。
卓の上を空ける。
左胸に下げる重い一丁と、右胸に下げる軽い一丁を並べた。
手入れの道具を出した。
手は、いつもの順に動いた。
水のグラスは、途中から空になっていた。
*
訓練場の入口は、まだ閉まっていた。
京持は脇で待った。
開くと、入った。
「早いな」
受付の男が言った。
「起きちゃった」
男は、それ以上聞かなかった。
京持はいつもの分の弾を受け取った。
持ち歩いていた分も、その日に使った。
右手で撃った。
左手でも撃った。
射撃の区画を出て、身体を動かす方へ移った。
そこでも、両方の手を使った。
途中で水を飲んだ。
休んで、また戻った。
長い半日だった。
終わってから、二丁を清掃した。
新しい弾を用意し、普段の携帯の状態へ戻す。
片づけて、外へ出た。
通りは、もう昼の顔をしていた。
京持は日陰へ寄った。
腹が減っていることに気づいた。
*
飯を食った。
部屋へ戻り、横になった。
今度は眠った。
起きたときには、窓の向こうも暗くなっていた。
*
零時を少し過ぎて、ウィスパーの扉を開けた。
「こんばんは」
「いらっしゃい」
いつもの席へ座った。
マスターが水を置いた。
京持は飲んだ。
グラスを戻す。
「シェイク」
マスターは頷いた。
小皿が置かれた。
京持は中を見た。
一つ取って、口へ入れた。




