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第13話_アブサン

「取り戻せばいいんだな」

氷室京持は、写真をカウンターに置いた。

黒い革張りの箱だった。片手で持てる大きさで、留め金の脇に小さな傷がある。

「中身もだ」

「そりゃそうだ」

「相手をどうにかする仕事じゃねえ」

「箱だけ。わかった」

マスターは写真を裏返した。住所と、箱の持ち主が言った注意事項が書いてある。

京持は読み、まだ半分残っていたペパーミントシェイクを飲んだ。

「用心棒、一人か」

「ああ」

「そいつが持ってる?」

「箱は事務所。男は、そこを使ってる奴についてる」

「じゃあ、留守のときにでも」

「ほとんど離れねえそうだ」

京持は口の端を曲げた。

「仲良しなんだな」

冷たいグラスを空にして、席を立った。

*

事務所へ入る前に、二丁とも装填は済ませていた。

用心棒は、京持より少し背が高かった。

それくらいのことしか、最初は思わなかった。

服が体に合っていた。肩にも腹にも余計な膨らみがなく、両手を下ろして立っていた。人が入ってきたのに、顔だけを向けるようなこともしなかった。

黒い箱は、奥の机にあった。

「それ、返してもらいに来たんだけど」

机の向こうの男が顔を上げた。

四角い腕時計を見てから、京持を見た。

袖口のカフスへ指を添えた。

「誰に言われた」

「持ち主」

「帰れ」

「そういうわけにもいかねえのよ」

用心棒が動いた。

京持も動いたつもりだった。

コートの中へ入れた右手を、手首ごと押さえられた。

痛いと思うより先に、体が傾いた。立て直そうと踏み出した足が床につく前に、脇腹へ打撃が入った。

息が出た。

次の息が入らなかった。

京持は用心棒の服をつかんだ。つかめた。それで、近づけたつもりになった。

額がぶつかった。

鼻の奥で、鈍い音がした。

机の向こうの男が何か言っていた。聞き取れなかった。耳が鳴っていた。

用心棒の手は、まだ京持の右手首にあった。

拳銃に触ることさえできなかった。

京持は左手でその指を外そうとした。

外れなかった。

左手をもう一丁へ伸ばしかけた。

また、脇腹に入った。

今度は膝が折れた。

「もういい。捨てとけ」

机の向こうから声がした。

用心棒は京持を起こした。

助け起こすような手つきだった。

そのまま廊下へ運び、階段へ落とした。

*

踊り場で、京持はしばらく動かなかった。

上で扉が閉まった。

それから、口の中の血を吐いた。

「……強えな」

声にすると、脇腹が痛んだ。

笑おうとして、やめた。

右手は動いた。指も動いた。銃もあった。

あったところで、今から戻る気にはならなかった。

手すりにつかまって立ち、階段を下りた。

外へ出るまでに、二度休んだ。

ウィスパーへ向かう角で、足を止めた。

今なら、まだ開いている。

酒は出る。椅子もある。

そこまで行く道の長さを考えた。

京持は反対へ曲がった。

*

目が覚めたとき、部屋は明るかった。

コートを着たまま、床に寝ていた。

脱ごうとすると脇腹が痛んだ。鼻を触ると、そこも痛かった。

京持は天井を見た。

「何だよ、あいつ」

誰も答えなかった。

もう一度眠った。

*

二晩後、京持は同じ建物を、通りの向こうから見ていた。

用心棒が出てきた。

京持は、買ったばかりの食い物を口へ運びかけて、止めた。

男は車の後ろの扉を開けた。事務所にいた男を乗せ、自分も反対側から乗った。

車が出ていった。

京持は建物を見た。

しばらくして、また戻ってきた。

男二人が降り、建物へ入った。

京持は冷めた食い物をかじった。

その翌日も、用心棒は男について出ていった。

箱についてはいかなかった。

*

「まだ受けてるか」

マスターが聞いた。

「受けてる」

「顔、見られてるぞ」

「見られた。触られもした」

京持は自分の鼻を指で押した。

「こっちはもう、よく覚えてる」

「どうする」

「本人に用事作ってもらう」

マスターは黙って聞いた。

「箱、勝手に持ってるんだろ。買いたい奴がいるってなれば、話くらい聞きに行くんじゃねえの」

「箱ごと持って出たら」

「そのときは、また考える」

「護衛も行くぞ」

「行ってほしいんだよ。ぜひ」

*

話を届かせるのに、二日かかった。

相手はすぐには動かなかった。値段を探り、相手を探り、ようやく会うと言った。

先に品物の値打ちを確かめる材料を見せろ、と要求した。

京持には、それでよかった。

車が出ていった。

建物の前に、誰もいなくなった。

京持は少し待った。

まだ待った。

それから裏へ回った。

窓から入って、廊下へ出た。

あの部屋の前で、足が止まった。

扉の向こうにいる気がした。

両手を下ろして、立っている。

京持は耳を澄ませた。

何も聞こえなかった。

「いねえよ」

小さく言った。

部屋へ入った。

箱は机の引き出しに移されていた。

写真の傷を確かめた。中身も確かめた。

持って、出た。

階段を下りるときには、手すりに触らなかった。

*

緋牡丹は、白く濁った酒を飲んでいた。

グラスの向こうに水差しがある。

京持は入口に近い、いつもの席についた。マスターが手を止めずに目を向けた。

「持ってきた」

黒い箱を出すと、マスターは布を敷いて受け取った。

「開けていいか」

「いい。俺も見た」

留め金が外れた。

マスターは中身を確かめ、箱を閉じた。

「少し待て」

「うん」

箱を持って奥へ下がった背中を見送り、京持は緋牡丹のグラスを見た。

「何、それ」

「アブサン」

「ああ」

「飲んだことない?」

「あると思う」

「覚えてないの?」

「覚えてるやつもある」

緋牡丹が水差しを少し持ち上げた。

「飲む?」

「一杯頼む」

「珍しい」

「たまにはな」

マスターが戻ってきた。

箱は持っていなかった。

「揃ってる。報酬は預かっとく」

「頼む。あとアブサン」

マスターの目が、緋牡丹のグラスへ移った。

「同じのでいいか」

「うん」

小さなグラスに酒が注がれた。

水を加えると、透き通っていた色がゆっくり曇った。

京持はそれを見ていた。

「終わったの?」

緋牡丹が聞いた。

「終わった」

「勝った?」

「勝ってねえよ」

京持はグラスを持ち上げた。

香りを嗅いで、少し飲んだ。

口の中で転がすようなことはせず、そのまま飲み込んだ。

「強いよ」

グラスを置いた。

「何だよ、あいつ」

「誰」

「箱のとこの用心棒」

「そんなに?」

「そんなに」

京持は右の手首を左手でつかんだ。

「ここ持たれてさ。抜けねえの。握られてるだけなんだけど」

「銃は」

「抜かせてもらえませんでした」

緋牡丹は笑わなかった。

「それで?」

「殴られた。いっぱい」

「帰ってこなかったものね」

「帰ってくるの、めんどくさくなっちゃって」

マスターが水を置いた。

京持はそれを飲んだ。

緋牡丹はアブサンを一口飲み、尋ねた。

「どんな男?」

京持は背丈を言った。

髪と、服と、顔を言った。

話しているうちに、思っていたよりよく覚えていることに気がついた。

「左の耳。上のとこ、ちょっと欠けてた」

「ああ」

京持が顔を向けた。

「知ってんの?」

「たぶん」

「たぶんかぁ」

「仕事してるところは見たことないもの」

「見ない方がいいよ」

「ええ。会わなくて済んでる」

京持は、しばらく緋牡丹を見た。

「いいなぁ、それ」

緋牡丹は口元だけで笑った。

京持はまた飲んだ。

「二度とツラ見たくねぇけど、有名人なんだろうなぁ」

「名前、聞く?」

「聞かない」

返事が早かった。

緋牡丹の笑いが、今度は声になった。

「名前くらい」

「名前知るとさ、余計覚えちゃうじゃん」

「もう覚えてるでしょう」

「今よりは忘れる余地がある」

京持はグラスを見た。

「向こうが俺の名前知らなきゃ、それでいい」

「知ってたら?」

「困ること言うなよ」

「顔は覚えられたでしょうね」

「もっと困ること言うなよ」

マスターが、磨き終えたグラスを棚へ戻した。

「しばらく、あっちの仕事は避けるか」

「うん。あっち、広めに取って」

「街ごとか」

「できれば」

緋牡丹が肩を揺らした。

京持も少し笑った。

笑うと、手が脇腹へ行った。

もう腫れてはいなかった。

服の上から押さえて、離した。

「箱はどうやって取ったの」

「本人を外へ呼び出した。あいつもついてった」

「それで?」

「留守になったから、取ってきた」

「よかったじゃない」

「うん」

京持はアブサンを飲んだ。

「最初からそうすりゃよかった」

「今だから言えるのよ」

「今の俺なら、出かける前の俺に言ってやれるんだけどなぁ」

「何て?」

「そいつ強いぞ。帰れ」

緋牡丹はグラスを置き、笑い終わるまで少し待った。

「聞くかしら」

「聞かねえ気がする」

京持も笑った。

「嫌な奴だな、俺」

*

アブサンは、ゆっくり減った。

緋牡丹は飲み慣れた様子で、合間に水を飲んでいる。

京持は途中から、ひと口ごとにグラスを眺めるようになった。

「嫌い?」

「いや」

「さっきから、難しい顔してる」

「こういう味だったなって」

「思い出した?」

「うん」

もうひと口飲んだ。

「ニガヨモギだっけ」

「そう」

「名前が親切だな」

緋牡丹が京持のグラスを見た。

「水、足す?」

「いや。これでいい」

最後まで飲んだ。

空のグラスを、マスターの方へ少し押した。

「シェイク」

「ああ」

マスターがカクテルグラスを冷やし始めた。

京持は椅子に座り直した。

「次、仕事来たらさ」

「何だ」

「用心棒いるときは、写真も欲しい」

「一人って聞いて、喜んでたろうが」

「反省したの」

緋牡丹が隣で、また笑った。

シェイカーの音がした。

京持は、それが止まるまで黙っていた。

濾された酒が、冷えたグラスに注がれる。

マスターがミントを手のひらで叩いた。

京持の前に、いつもの一杯が置かれた。

表面へ降りた薄い靄を見て、すぐに持ち上げた。

「次も勝てるとは限らないわよ」

緋牡丹が言った。

京持はひと口飲んでから、うなずいた。

「知ってる」

グラスを置いた。

「でも、次もあいつだったら帰る」

「箱があっても?」

「相談する。値段から」

マスターが鼻で笑った。

京持はもうひと口飲んだ。

今度は、すぐにグラスを置かなかった。

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