第12話_新しいコート
目が覚めた。
京持は目を閉じた。
それで、何も変わらなかった。
頭の奥が重かった。
舌が口の中へ貼りついていた。
胃には、昨夜の脂がまだあるようだった。
寝返りを打とうとした。
肩に力を入れたところで、やめた。
身体のあちこちが、動く前から嫌がっていた。
窓の明かりが、瞼を通して赤く見えた。
朝なのか、昼なのかも分からなかった。
コートを着ていなかった。
靴もなかった。
誰かが脱がせたらしかった。
自分でやった覚えはなかった。
五杯目は、覚えていた。
そのあとが、なかった。
ベーコン。
トースト。
ミント。
思い出すと、胃が持ち上がった。
京持は息を止めた。
しばらくして、ゆっくり吐いた。
水が欲しかった。
腕を伸ばせば、何かあるかもしれなかった。
伸ばす気になれなかった。
また目を閉じた。
*
次に目を開けたとき、部屋は少し暗くなっていた。
京持は肘をついた。
起き上がるまでに、何度か止まった。
足を床へ下ろす。
床は動かなかった。
頭の中だけが、遅れて動いた。
脇へ手を当てた。
パッチの縁が指に触れた。
押しても、昨夜の痛みはなかった。
それなのに、身体は言うことをきかなかった。
水を飲みに行った。
蛇口を閉めてからも、流れる音が耳へ残った。
部屋へ戻り、また横になった。
シンガポール・スリングの赤い色を思い出した。
グラスを置いた手。
自分を見ていた目。
このあと、どうするの。
京持は天井を見た。
「……あれ」
少し考えた。
頭が痛くなった。
枕へ顔を向けた。
腹の奥で、昨夜のベーコンが重かった。
*
夜になっても、出かけなかった。
携帯端末で店へ短く送った。
今日は行かない。
返事が来た。
休め。
京持は電話を置いた。
言われなくても、そうするしかなかった。
*
京持は、いつものように扉を開けた。
片手で押し、もう片方の手はポケットに入れていた。
マスターが入口を見る。
緋牡丹も顔を向けた。
京持は二人を見つけ、軽く顎を引いた。
端席へ座る。
尻の下からコートの裾を抜いた。
「こんばんは」
「こんばんは」
マスターが答えた。
緋牡丹は、京持の脇を見ていた。
「シェイク」
京持が言った。
マスターは頷いた。
緋牡丹はグラスを置いた。
「昨日は来なかったわね」
「起きられなかった」
「そうでしょうね」
彼女は口元を少し緩めた。
「今日は、平気なの?」
「何が」
「一昨日のところ」
京持は自分の脇へ手を当てた。
押した。
「うん」
緋牡丹は、その手を見た。
あの夜は触れただけで、身体が縮んだ。
今は、押してからポケットへ戻していた。
「痛くない?」
「もう痛くない」
「そう」
京持は彼女の腕へ目を向けた。
カウンターへ置かれた肘の角度が、いつもと少し違った。
「ボタンは?」
「腕が、まだ張ってるわ」
「押さえてた方?」
「あなたが痛いって文句を言っていた方よ」
京持は椅子の上で身体を向けた。
どこも庇わずに捻った。
「悪かったな」
「手を緩めるわけにもいかなかったでしょう」
京持は笑った。
途中で痛がることもなかった。
緋牡丹はそれを見て、自分の肩を少し回した。
「一杯、俺につけて」
京持がマスターへ言った。
緋牡丹が眉を上げた。
「珍しいわね」
「この前のお礼」
「仕事よ」
「じゃ、腕のお礼」
彼女は少し笑った。
「いただくわ」
京持は頷いた。
何か聞こうとした。
緋牡丹がこちらを見た。
「何?」
「いや」
京持はカウンターへ目を戻した。
「何でもねえ」
「そう」
彼女はグラスの場所を空けた。
マスターがシェイカーの蓋を閉めた。
*
一杯目が置かれると、京持はすぐに飲んだ。
冷たさに目を細める。
「うまい」
緋牡丹は、彼のコートを見た。
脇に穴があった。
あの夜、血で濡れていたところは黒ずんで、布が硬くなっていた。
縫い目の一部も切れていた。
京持が肘を置くと、穴が少し開いた。
中の肌が見えた。
傷は見えなかった。
緋牡丹はグラスを持ち上げた。
一口飲み、置いた。
「コートは、平気じゃないわね」
京持は下を見た。
指で穴の縁を摘まむ。
「こっちは治んねえな」
「当たり前でしょう」
「知ってる」
彼は前合わせを寄せた。
穴は脇にあったので、何も変わらなかった。
「洗えば、血は落ちるかな」
緋牡丹は少し顔を寄せた。
「落ちても、穴は残るわよ」
「うん」
「買い替えたら?」
京持は酒を飲んだ。
考えているらしかった。
「新しいの、見つけるのが面倒くせえ」
「お店へ行けばあるでしょう」
「いっぱいあるじゃん」
「選べるわね」
「選ばないといけねえ」
緋牡丹は彼を見た。
「黒い、長いの」
京持が言った。
「薄くて、着てて楽なやつ。前があんまり開かないの」
「分かってるなら、探せるでしょう」
「似てても、着ると違うんだよ」
「試着すればいいわ」
京持は自分の胸元を見た。
「これで?」
緋牡丹も見た。
裸の上へハーネスが掛かり、その脇に拳銃があった。
「買い物へ行くときくらい、シャツを着なさい」
京持はグラスを置いた。
「コート買うのに、シャツも要るのか」
「持っていないの?」
「あると思う」
「では、探すところからね」
京持は黙った。
ミントの葉を見た。
それから、緋牡丹へ顔を向けた。
「選んで買ってきてよ」
「なんで私が」
返事は早かった。
京持は少し考えた。
「選ぶの、うまそうだから」
「褒めれば済むと思わないで」
「金は出すよ」
「あなたが出すに決まってるでしょう」
「手間の分も」
緋牡丹はグラスを持った。
「あの仕事は、終わったわ」
「うん」
「今日は、あなたの服を探す仕事は受けない」
京持は頷いた。
「そうか」
マスターが小皿を置いた。
京持は一つ取った。
緋牡丹は彼を見た。
「困った顔をしても、行かないわよ」
「してた?」
「してる」
京持は食べた。
「困ってるからな」
*
コインランドリーには、先客が一人いた。
京持が入ると、男は新聞から顔を上げた。
コートを見た。
それから顔を見た。
新聞へ戻った。
京持は洗濯機の前へ立った。
貼ってある説明を読む。
料金を見る。
コートを脱ごうとして、先客へ目を向けた。
新聞は広がったままだった。
京持は一度、外へ出た。
しばらくして戻ってきたときには、安いシャツを着ていた。
コートを脱いだ。
ハーネスと拳銃を、シャツの上から押さえた。
うまく隠れていなかった。
先客は、やはり新聞を見ていた。
京持はコートを洗濯機へ入れた。
金を入れ、動かす。
丸い窓の中で、黒い布が回り始めた。
椅子へ座る。
しばらく、新聞の音と洗濯機の音がした。
先客が立った。
乾燥機から服を出し、袋へ入れる。
京持の前を通るとき、少し足を止めた。
「それ、洗うと縮むんじゃないか」
京持は洗濯機を見た。
「綿」
「綿でも」
「もう回ってる」
男は頷いた。
「そうだな」
袋を持って、出ていった。
京持は丸い窓を見ていた。
袖が回ってきた。
裾も回った。
脇の穴は、見えたり見えなかったりした。
*
次にWhisperへ来たとき、コートは洗ってあった。
黒ずんでいたところは、少し薄くなっていた。
布の硬さも取れていた。
穴は残っていた。
切れた縫い目も、そのままだった。
乾かしたときについた皺が、袖と背中に走っていた。
京持は端席へ座った。
「こんばんは」
マスターはコートを見た。
「こんばんは」
「シェイク」
マスターが頷いた。
京持は襟を寄せた。
前より、少し合いにくかった。
裾を引っ張る。
今度は肩が窮屈になった。
マスターが聞いた。
「洗ったのか」
「うん」
「それを、また着るのか」
京持はコートを見た。
「綺麗にはなった」
マスターは脇の穴へ目を向けた。
京持も見た。
「そこは、しょうがねえ」
マスターは何も言わず、ミントを手に取った。
*
数日後、京持が来ると、いつもの席に紙袋が置かれていた。
京持は立ったまま、中を覗いた。
黒い布が見えた。
マスターを見る。
「誰かの?」
「お前のだ」
京持は袋を持ち上げた。
座ってから、中を出した。
黒いロングコートだった。
新品の布は、まだ折り目を覚えていた。
京持は膝の上へ広げた。
指で触る。
薄手の綿だった。
「買ったの?」
「用意させた」
京持は裏へ目を向けた。
若いバーバックが、棚へグラスを戻していた。
マスターが言った。
「勘定につける」
京持は顔を上げた。
「これを?」
「ああ」
コートをもう一度見る。
「いくら」
マスターが伝票を置いた。
京持は読んだ。
酒の値段と見比べた。
「ちゃんとした値段するな」
「服だ」
「分かってる」
京持は新しいコートを持ち上げた。
襟を見た。
前合わせを見る。
「ボタンに頼んでも、買ってくれなかった」
「彼女の仕事ではない」
「これも、バーの仕事じゃねえだろ」
マスターは古いコートへ目を向けた。
京持も見た。
洗ったあとも残っていた傷みが、新しい布の横ではよく分かった。
マスターが言った。
「それで来られると、困る」
京持は黙った。
「穴から、中が見える」
京持は襟を寄せた。
脇の穴は閉じなかった。
「そうだな」
*
マスターが、裏へ声をかけた。
バーバックが来た。
「合わなければ、交換できます」
京持は新しいコートを見た。
「着れば分かる?」
「はい」
京持は古いコートを脱いだ。
バーバックは、ハーネスへ目をやらなかった。
マスターは古い方を受け取った。
京持が新しいコートを着る。
腕を通す。
肩を動かす。
前を寄せる。
襟を立てた。
「どうですか」
バーバックが聞いた。
京持は肘を曲げた。
腕を上げ、下ろす。
座ってみる。
裾を尻の下から抜いた。
立った。
「楽」
バーバックが頷いた。
「同じくらいの形を探しました」
「うん」
京持は前合わせを見た。
以前より、開きは小さかった。
その中で、拳銃の形が出ていた。
京持は指で布を引いた。
少し隠れた。
手を離す。
また分かった。
「これは、俺の問題だな」
マスターは答えなかった。
バーバックが袋を持った。
「古い方は、どうしますか」
京持はマスターの手元を見た。
穴の開いた、黒いコートだった。
「入れといて」
バーバックは頷いた。
畳もうとして、裾を揃えた。
洗濯のあと、少し歪んでいた。
それでも畳んで、袋へ戻した。
京持は受け取った。
「ありがと。選ぶの、面倒だったろ」
「少し」
「だよな」
バーバックは笑った。
裏へ戻る。
京持は新しい袖を見ていた。
「シェイク」
マスターがグラスを用意した。
*
緋牡丹が来ると、京持は身体を少し回した。
「こんばんは」
「こんばんは」
彼女の目が、すぐにコートへ行った。
「買ったのね」
「買ってもらった」
緋牡丹はマスターを見た。
マスターが言った。
「勘定につけた」
彼女は笑った。
「そうでしょうね」
京持は袖を引いた。
「楽だよ」
「よかったじゃない」
「前より、ちょっと隠れる」
緋牡丹は胸元を見た。
「努力が少し報われたわね」
「うん」
彼女は席へ座った。
「シンガポール・スリング」
マスターが頷いた。
緋牡丹はカウンターの下を見た。
京持の足元に紙袋があった。
「古い方?」
「うん」
「まだ持って帰るの?」
京持は袋を見た。
「何かに使えるかも」
「何に?」
京持は考えた。
緋牡丹は待った。
マスターも、グラスを拭きながら待っていた。
「……洗い替え」
「駄目だ」
マスターが言った。
京持は顔を上げた。
緋牡丹は笑い、グラスの置かれる場所を空けた。
「ようやく新しくなったんだから、今夜はそれを着て帰りなさい」
「着て帰るよ」
京持は自分の袖を撫でた。
布は柔らかかった。
肩を動かしても、突っ張らなかった。
「これ、いいな」
マスターがシェイクを置いた。
京持は新しい袖口を少し引き、グラスを取った。
一口飲む。
「うまい」
緋牡丹が言った。
「そちらは、いつものね」
京持は頷いた。
「こっちは替えなくていい」




