第11話_カリカリのベーコン
ミセスが来たのかと思って、京持は入口を見た。
誰も来なかった。
マスターが裏へ下がっただけだった。
若いバーバックが、空いたテーブルのグラスを下げていた。
緋牡丹は長辺の席で、シンガポール・スリングを飲んでいた。
京持の一杯目は、まだ少し残っていた。
「誰か来た?」
彼が聞いた。
「裏でしょう」
緋牡丹はグラスを置いた。
京持は入口から目を戻した。
「じゃ、俺には見えねえな」
「見せないために、そちらを使うんでしょう」
「そうか」
京持は残りを飲んだ。
もう一杯頼もうとして、やめた。
マスターが戻ってきた。
二人を見た。
「仕事がある」
京持は緋牡丹へ顔を向けた。
彼女も、マスターを見ていた。
「二人か」
「ああ」
京持が椅子を降りた。
長辺の中央へ移る。
緋牡丹も一つ席を詰めた。
マスターが写真と、条件を置いた。
写真の男は、笑っていた。
よく食べ、よく眠っていそうな顔だった。
京持は紙を読んだ。
途中で、マスターを見た。
「これ、俺の分?」
「ああ」
緋牡丹も、自分の報酬を確かめた。
京持は紙へ目を戻した。
「半年は飲めるな」
「成功すればな」
京持は条件の最後まで読んだ。
「ここに書いてある分は、向こう持ち?」
「必要になればな。済んでから請求する」
緋牡丹も、その欄を確かめた。
「では、この条件で」
「俺は好きだなぁ、こういう仕事。うまくすりゃしばらくブラブラできるもんな」
緋牡丹は写真を置いた。
「たまにでいいわ。命あっての物種よ」
京持は頷いた。
「うん。毎晩は面倒くせえ」
「頻度の話だけではないのよ」
マスターは二人が条件を読み終えるのを待った。
依頼人は、ホテル共用の業務用通路を通って来ていた。
店の裏口を越え、マスターに招かれて、バックヤードの奥で話をした。
二人は顔を見ていない。
名乗った名前も聞かなかった。
必要なのは、写真の男を殺すことだった。
男は、武装した人間に囲まれていた。
居場所は分かっている。
今夜、そこを出る。
出発してからでは、仕事はさらに難しくなる。
緋牡丹が写真を指した。
「これは、いつの?」
マスターが答えた。
彼女は別の写真を見た。
建物と、その中の部屋だった。
「私が入る話は?」
「先方への紹介は通っている」
「誰の紹介?」
マスターが名前を一つ告げた。
緋牡丹は少し考えた。
「あの人なら、入れてもらえるわね」
京持が聞いた。
「俺は?」
「客としては入れない」
マスターが言った。
京持は自分のコートを見た。
「まあ、そうか」
緋牡丹は条件書を畳まなかった。
「紹介した人が、仕事のあと困るでしょう」
「承知しているそうだ」
「承知していることと、処理できることは別よ」
マスターは頷いた。
「帰路を含めて、もう一度確認する」
緋牡丹が条件書へ目を戻した。
「車は?」
「こちらで頼む。紹介者とは別だ」
「待っていてくれるのね」
「ああ」
京持は写真を眺めていた。
「人、多いな」
「見えている分だけだ」
「うん」
京持は写真を戻した。
「見えてねえ方も、いるだろうな」
*
マスターは裏で電話を掛けた。
戻ると、建物の写真の一か所を指した。
「引き上げの車は、ここだ」
京持が覗き込んだ。
「怪我してても?」
「ああ。汚れた分も払う」
緋牡丹が頷いた。
「それならいいわ」
二人は水を飲んだ。
京持は何か食べたがった。
緋牡丹が皿を見た。
「重いものはやめておきなさい」
「腹減ってる」
「走るかもしれないわよ」
「食っても走れる」
「食べた直後に、殴られるかもしれない」
京持はメニューを置いた。
「それは嫌だな」
マスターが、小さな皿を二人へ出した。
緋牡丹は礼を言った。
京持も食べた。
「済んだら、ちゃんと食う」
「済んだらね」
緋牡丹は水を飲んだ。
京持は彼女を見た。
「帰ってきたら、もう一杯いけるな」
「あなたは一杯目で出るんでしょう」
「うん。帰って二杯目」
「数えるのは、帰ってからにしたら?」
「楽しみにしとくの」
緋牡丹は少し笑った。
それから、資料へ目を戻した。
*
緋牡丹が通された部屋には、男が三人いた。
写真の男と、左右に一人ずつ。
左右の二人は立っていた。
彼女が入ると、先に鞄へ目を向けた。
次に、上着。
最後に顔を見た。
写真の男だけは、最初から顔を見ていた。
「待っていたよ」
「お待たせしました」
彼女は笑った。
紹介した人間の名を出すと、男の顔が緩んだ。
「久しぶりに気が利くことをしたな、あいつも」
「そう伝えておくわ」
鞄を預けるように言われた。
緋牡丹は左右の男を見た。
一人が手を出した。
彼女は鞄を渡した。
その前に、口紅だけ取り出した。
「これは、持っていてもいい?」
男が対象へ目を向けた。
対象は笑った。
「好きにさせろ」
彼女は小さな口紅を、卓の上へ置いた。
鞄を受け取った男は、中を確かめてから、部屋の隅の椅子へ置いた。
それから彼女は座った。
部屋の隅には、酒が用意されていた。
男が勧めた。
「何でもある」
「あなたと同じもので」
「強いぞ」
「少しだけいただくわ」
男は満足した。
注がせる。
緋牡丹の前にも、グラスが置かれた。
彼女は持ち上げ、香りを確かめた。
男が先に飲んだ。
彼女も少し飲んだ。
「いい酒ね」
「君には、分かると思った」
男は話し始めた。
緋牡丹は聞いた。
左右の男は、ほとんど動かなかった。
一人が廊下へ出た。
しばらくして、別の男が入ってきた。
人数は減らなかった。
緋牡丹はグラスを置いた。
今夜は、簡単ではなさそうだった。
*
京持は外にいた。
建物の裏側から、緋牡丹が入った部屋の位置を見ていた。
窓には明かりがあった。
その下の通路に、人が一人立っていた。
京持は一度通り過ぎた。
男がこちらを見た。
京持も見た。
互いに、何も言わなかった。
角を曲がってから、京持は足を止めた。
写真では、その場所に人はいなかった。
携帯電話を出した。
マスターへ短く伝える。
戻ってきた返事も短かった。
追加の情報はない。
京持は電話を仕舞った。
「ちぇ」
二丁とも薬室へ弾を送った。
ホルスターへ戻し、もう一度建物へ目を向けた。
*
対象は、話すたびに酒を飲んだ。
緋牡丹は、口をつけるだけのことが多かった。
「飲んでないな」
男が言った。
「あなたを見ていたのよ」
男は彼女を見た。
緋牡丹は、そこで飲んだ。
少量だった。
男は笑い、左右の人間へ顎を向けた。
「少し外にいろ」
一人が言った。
「出発まで、あまり」
「分かってる」
二人は顔を見合わせた。
対象が、もう一度目を向けた。
ようやく出ていった。
扉が閉まった。
緋牡丹はその音を聞いた。
対象は彼女の肩を見ていた。
刺青の端が、服の縁から覗いている。
「それは、どこまである?」
「気になる?」
「ああ」
彼女は身体の向きを少し変えた。
男も近づいた。
卓の上の口紅には、誰も目を向けなかった。
*
京持の携帯電話が震えた。
画面を見た。
短い合図だった。
京持は歩き出した。
裏の通路の男が、こちらを見た。
「どこへ行く」
京持は答える前に、男の手を見た。
拳銃があった。
腰から抜かれたところだった。
京持は身体を壁へ寄せた。
音がした。
壁の欠片が顔へ当たった。
男が近づいた。
京持は、その腕へ手を伸ばした。
届いた。
さらに音がした。
男の腕が跳ねた。
京持は離さなかった。
男を壁へ押した。
押し返された。
京持は足を掛けた。
二人とも倒れた。
男の頭が、壁際の段差へ当たった。
拳銃が通路の端へ滑った。
京持は右手をついて起きた。
男も肘を立てようとした。
身体が持ち上がらず、また伏せた。
京持は男を見た。
落ちた拳銃を見た。
それから、扉へ向かった。
扉が開いた。
中から別の男が出てきた。
銃を持っていた。
京持は扉の陰へ入った。
狭かった。
男がこちらへ腕を回す。
京持はその腕へ身体をぶつけた。
銃が耳の近くで鳴った。
耳の奥に、高く澄んだ音が一本残った。
京持は相手の胸へ肩を入れた。
両手で、銃を持つ腕を押さえた。
男が壁へ当たった。
肘が京持の口元へ入った。
目の前が白くなった。
口の中に、ぬるりとしたものが広がった。
それでも、腕を離さなかった。
男の銃が落ちた。
まだ押し返してきた。
京持は相手の背へ回った。
首へ回した腕を、男が掴んだ。
引き剥がそうとした。
京持は離さなかった。
やがて、掴む手から力が抜けた。
腕に男の重さが掛かった。
京持は床へ下ろした。
扉を引き、間へ身体を入れた。
膝へ手をつく。
大きく息を吸った。
走りすぎたときと一緒だなと思った。
口の中には、ぬるりと血が溜っていた。
床へ吐いた。
花火の臭いが鼻についた。
祭りのあとを思い出した。
花火と爆竹が鳴りやんでも、煙はもうもうと残っていた。
息を弾ませ、耳の奥ではまだ音が鳴っていた。
シェイクが飲みたかった。
ミントの利いた、冷たいやつ。
廊下の奥から、足音がした。
まだいた。
京持は扉を引いた。
部屋へ入った。
*
緋牡丹は、対象から離れていた。
男は卓へ片手を置き、もう片方を胸元へ当てていた。
グラスは倒れていた。
酒が、卓の縁から落ちていた。
京持は彼女を見た。
彼女も、京持を見た。
京持は息を整えた。
「済んだ?」
「確認するわ」
扉が叩かれた。
外から声がした。
対象の名を呼んでいた。
返事はなかった。
緋牡丹は男のそばへ戻った。
必要な確認をした。
京持は扉を押さえていた。
「まだ?」
「もう少し」
また叩かれた。
京持は扉の向こうへ言った。
「下がれ」
外が静かになった。
緋牡丹が手を離した。
立つ。
「済んだ」
京持は頷いた。
「帰ろう」
緋牡丹は鞄を取った。
口紅も戻した。
扉の向こうで、金属が触れる音がした。
二人は顔を見合わせた。
緋牡丹が、部屋の奥の扉へ目を向けた。
対象が入ってきた側だった。
京持は頷いた。
「そっち」
*
帰り道は、確認した通りには使えなかった。
奥の廊下にも人がいた。
京持は右手で拳銃を抜いた。
緋牡丹が先に声をかけた。
「中へ行って。倒れているの」
男が彼女を見た。
京持の方も見た。
京持の手に拳銃が見えた。
男の手が動いた。
京持が銃口を向けた。
「今はやめろ」
男は立ち止まった。
緋牡丹は、その間に先の扉を開けた。
階段だった。
「来て」
京持は男から目を離さず、後ろへ下がった。
扉の中へ入る。
緋牡丹が閉めた。
京持は拳銃をコートへ戻した。
二人は階段を下りた。
緋牡丹は鞄を片手に持っていた。
下の踊り場から、外へ出る扉が見えた。
京持が先へ出て、押し開けた。
車がいた。
写真で示された場所だった。
「先、行って」
緋牡丹が彼の横を通った。
背後で、階段を駆け下りる音がした。
京持は振り返った。
最後の角から、男が出てきた。
銃を握っていた。
二人を見て、その手が上がった。
京持の拳銃は、まだコートの中だった。
京持は男へ飛びついた。
銃を持つ腕に両手が掛かった。
肩が胸へぶつかった。
二人の身体が壁側へ回った。
緋牡丹が扉を抜けかけたところで、銃が鳴った。
京持の脇に、熱いものが走った。
息が詰まった。
男は腕を引こうとした。
京持は離さず、壁へ押しつけた。
銃を握った手が壁へ当たった。
もう一度、押した。
拳銃が落ちた。
京持は歯を食いしばった。
離さず、身体ごと男を壁へぶつけた。
男の背が当たった。
息が、短く漏れた。
押し返していた腕から力が抜けた。
京持は手を離した。
男は壁を支えにしようとした。
手が滑り、片膝をついた。
京持は出口へ下がった。
緋牡丹が振り返っていた。
「行け」
京持は外へ出て、扉を引き閉めた。
脇へ手を当てた。
「歩ける?」
「痛えけど、歩ける」
緋牡丹は車の後部のドアを開けた。
鞄を入れ、京持を通した。
自分も乗る。
背後で、建物の扉が開く音がした。
ドアが閉まると、車は動き出した。
*
京持は背もたれに頭をつけた。
緋牡丹が行き先を告げた。
運転手は頷いた。
彼女は京持の手を見た。
脇を押さえていた。
指の間が濡れていた。
「そこ?」
「うん」
彼女は鞄からハンカチを出した。
京持が少し身体を傾けた。
コートの前側には、穴は見えなかった。
彼女が後ろへ手を回すと、脇に近いところで布が裂けていた。
その周りが湿っていた。
コートの裾をずらした。
その下は、素肌だった。
車内は暗かった。
傷がどれほど深いのかまでは、見えなかった。
「手、どけて」
京持は手を離した。
緋牡丹は傷へハンカチを直接当てた。
強く押さえる。
京持の身体がこわばった。
「痛え」
「押さえているのよ」
「分かってる」
車が曲がった。
京持は歯を食いしばった。
緋牡丹は手を緩めなかった。
京持は頭を背もたれへ戻した。
「半年」
彼が言った。
緋牡丹は押さえたまま答えた。
「ええ」
「半年、毎晩飲んだら、足りなくなるかな」
「何杯飲むかによるでしょう」
「三杯」
「食事も頼むわね」
「うん」
「では、全部使うつもりで考えないで」
京持は目を開けた。
「そっか」
彼女の手へ目を向けた。
「ボタンも飲めるな」
「あなたが戻ればね」
京持は少し息を吐いた。
「戻ってるよ」
「まだ車の中よ」
彼女は空いた手で電話を掛けた。
仕事の完了と、予定した帰路が使えなかったこと。
二人とも戻ること。
京持が負傷したこと。
短く伝えて、切った。
車が店の入っているビルへ近づいた。
「自分で押さえて」
緋牡丹が言った。
京持は彼女の手の上へ、自分の手を重ねた。
彼女は少しずつ手を抜いた。
ハンカチは動かさなかった。
京持が同じ場所を押さえているのを見てから、鞄を取った。
*
Whisperへ入る前に、京持は共用の洗面所へ寄った。
ハンカチを脇へ押さえたまま、備え付けのペーパータオルを取った。
空いた手で水を含ませる。
手と、傷の周りについた血を拭った。
コートも着たまま、血のついたところへ紙を当てた。
薄い綿の布が、脇の後ろ寄りで少し血を吸っていた。
広くは汚れていなかった。
表面の血を拭っても、染みは残った。
裂けたところも、そのままだった。
京持は使った紙を屑籠へ落とした。
身体をひねると、脇が痛んだ。
「早く座りてえ」
二人は店へ戻った。
マスターは入口を見て、すぐに近づいた。
緋牡丹が短く言った。
「車から、ずっと押さえているわ」
マスターは京持の顔を見た。
「座れるか」
「うん」
京持はいつもの端席へ座った。
今夜は、コートの裾を直すのも面倒だった。
マスターが脇へ目を向けた。
「見せてみろ」
京持はコートの裾をずらした。
傷のある側を、少しマスターへ向ける。
マスターは手を洗い、救急箱を持って戻った。
手袋をつけ、京持の手に代わってハンカチを支えた。
「離していい」
京持は手をどけた。
マスターがハンカチをゆっくり外した。
血は止まっていた。
脇の後ろ寄りに、肉を浅くえぐった傷が一つあった。
緋牡丹は隣から見た。
暗い車の中で思ったほど、ひどくはなかった。
けれど、ハンカチを当ててから、まだそれほど経っていなかった。
彼女は京持の顔へ目を戻した。
「何?」
「何でもないわ」
マスターは傷の周りを整え、傷を覆う大きさのパッチを当てた。
縁を留めると、京持の肩が動いた。
「痛え」
「動くな」
京持は口を閉じた。
手当てが済むと、マスターはハンカチと使った物を袋へ入れた。
京持はコートの裾を戻した。
もう、手で押さえていなくてよかった。
「血は、どこで拭った」
「そこの洗面所。紙、使った」
マスターは若いバーバックを呼んだ。
手元の袋を渡す。
「これを捨てて、共用洗面所の屑籠も袋を替えてこい」
バーバックは頷き、裏へ下がった。
マスターが水を置いた。
京持は右手で取った。
緋牡丹は隣へ座った。
彼女の酒は、もう片づけられていた。
二人とも、しばらく喋らなかった。
マスターが確認を終えた。
報酬が出た。
京持は封筒を開けた。
中を見た。
数えるのに時間が掛かった。
もう一度数えた。
緋牡丹も自分の分を確認した。
京持は封筒を閉じた。
「半年」
マスターは答えなかった。
京持は口元を緩めた。
「ちゃんとあった」
緋牡丹が彼の脇を見た。
「あなたも、ちゃんと帰ってきたわね」
京持は頷いた。
水を飲んだ。
口の中を確かめるように、舌を動かした。
「シェイク」
緋牡丹が顔を向けた。
「飲むの?」
「二杯目」
「数の話ではないのよ」
「分かってる」
京持は水を置いた。
まだ、息を深く吸うと脇が痛かった。
じっと座っているのも落ち着かなかった。
マスターが冷やしたグラスを出した。
ミントの青い匂いがした。
京持はその手を見ていた。
シェイカーが鳴った。
耳の奥には、まだ別の音が残っていた。
*
緑の酒が置かれた。
京持は右手で取った。
冷たかった。
口へ含む。
ミントが鼻へ抜けた。
ライムの酸味と、冷たさが舌を刺した。
口に残っていた血の味が遠のいた。
「うまい」
もう一口飲んだ。
肩から力が抜けた。
まだいけそうだった。
緋牡丹の前にも、新しいシンガポール・スリングが置かれた。
彼女は一口飲んだ。
しばらくグラスを見ていた。
髪を耳へ掛けると、首筋が見えた。
京持の目がそこへ止まった。
触れたら、そのままでは済ませたくなかった。
彼女がこちらを見た。
目が合った。
緋牡丹は逸らさなかった。
京持はグラスを置いた。
「腹減った」
マスターが顔を上げた。
「何を食う」
「ベーコン」
「どうする」
「カリカリにして。胡椒も」
緋牡丹が彼を見た。
「それでいいの?」
「今、それ食いたい」
彼女はマスターへ顔を向けた。
「私にも少し」
マスターが頷いた。
京持は封筒をコートへ入れようとして、やめた。
血がついていた。
カウンターへ置き直す。
マスターが、汚れていない袋を出した。
京持は礼を言った。
*
ベーコンは、縁までよく焼かれていた。
皿へ置かれると、脂と胡椒の匂いがした。
京持は一つ取った。
噛む。
小さく、硬い音がした。
塩気が口へ広がった。
胡椒が利いていた。
脂が舌へ残った。
もう一度噛んだ。
「うまい」
飲み込んで、次へ手を伸ばした。
マスターを見る。
「トーストもくれ」
マスターが頷いた。
緋牡丹も食べた。
飲んで、笑って、相手の気分を見ていたときには、空腹を感じなかった。
今は感じた。
「美味しいわね」
京持は頷いた。
シェイクを飲んだ。
冷たいミントが脂をさらった。
またベーコンを取る。
食える。
酒もうまい。
膝はもう震えていなかった。
京持は椅子へ背を預けた。
脇が痛んだ。
息を止め、身体を起こした。
緋牡丹がそれを見ていた。
「ゆっくり食べなさい」
「食ってる」
彼はグラスを引き寄せた。
残りを飲んだ。
「もう一杯」
マスターが空のグラスを下げた。
三杯目が来るまで、京持は皿の胡椒を指先で拾っていた。
トーストが出た。
焼き目のついた一枚が、半分に切ってあった。
京持は片方を取った。
ひと口かじってから、ベーコンを食べた。
脂と塩気を、パンごと飲み込んだ。
緋牡丹も、もう片方へ手を伸ばした。
二人は食べた。
マスターが三杯目を置いた。
京持はパンを飲み込んでから、グラスを取った。
皿の残りが減った。
京持が、最後の一つを見た。
緋牡丹も見た。
「食べていいわよ」
「ボタンは?」
「もう食べた」
京持は取った。
噛んでから、彼女へ顔を向けた。
「こういう仕事、やっぱりたまにはいいな」
緋牡丹はシンガポール・スリングを飲んだ。
「たまに、よ」
「うん」
「明日また来ても、私は受けないわ」
「ほかの仕事?」
「それもあるわ」
京持はカウンターの袋を見た。
報酬が入っていた。
「俺も、明日は飲む」
マスターが皿を下げた。
京持の足先は、まだ椅子の横木を小さく叩いていた。
緋牡丹が聞いた。
「半年、何もしないつもり?」
「毎晩ここ来る」
「ほかには?」
京持は考えた。
「ベーコンも食う」
マスターが洗い場から顔を向けた。
「毎晩は出ないぞ」
京持は少し笑った。
痛くて、途中でやめた。
「……たまにでいいよ」
緋牡丹は、今度はちゃんと笑った。
京持も、また笑った。
三杯目を飲み切った。
緋牡丹がグラスを置いた。
「このあと、どうするの」
京持は彼女へ顔を向けた。
肘のすぐそばに、彼女の手があった。
指先に目が行った。
顔へ戻すと、まだこちらを見ていた。
京持は喉を動かした。
それから、マスターを見た。
「シェイク」
マスターが彼を見た。
京持は袋へ手を置いていた。
「金、あるよ」
「知っている」
いつもなら、そこで水が出た。
今夜は、冷やしたグラスが出た。
緋牡丹はマスターへ目を向けた。
彼はミントを手に取った。
緋牡丹はグラスへ目を落とした。
「……そう」
京持は冷やしたグラスを見ていた。
*
四杯目は、さっきより甘かった。
そう思っただけかもしれなかった。
冷たさがうまかった。
塩気も、胡椒も、まだ口に残っていた。
京持は飲んだ。
もう、後ろを見なくてよかった。
扉が開いても、マスターが顔を上げるだけだった。
ここにはベーコンがあった。
酒もあった。
袋の中には、しばらく困らないだけの金があった。
京持は緋牡丹へ何か言った。
彼女が聞き返した。
言おうとしたことを忘れた。
笑うと、彼女も少し笑った。
グラスが空になった。
「もう一杯」
マスターは京持の顔を見た。
裏へ下がり、短く電話を掛けた。
戻ってから、五杯目を作った。
緋牡丹は水を飲んでいた。
京持がグラスを取る。
指先が少し滑った。
持ち直した。
「うまい」
声は、もうはっきりしなかった。
飲み切って、グラスを置いた。
置いたつもりだった。
マスターの手が底を受けていた。
京持はカウンターへ肘をついた。
頭が下がった。
持ち上げようとして、やめた。
緋牡丹が覗き込んだ。
「ミスター・ペパーミント」
口元だけが動いた。
言葉にはならなかった。
彼女はグラスを置いた。
「……あんたねえ」
彼女は言った。
京持の顔は上がらなかった。
緋牡丹は少し息を吐いた。
「今夜は、よく飲んだわね」
マスターが京持のグラスを下げた。
「ああ」
*
車が着いたと、連絡が来た。
マスターは若いバーバックを呼んだ。
京持の肩へ手を置く。
「氷室。帰るぞ」
京持は顔を上げた。
椅子を降りようとした。
足が床へついた。
膝が折れた。
マスターが支えた。
「歩けるか」
京持は頷いた。
一歩も出なかった。
バーバックが反対側へ入った。
二人で椅子から離した。
コートの裾が床を擦った。
緋牡丹が、報酬の入った袋をマスターへ渡した。
「これも」
マスターは京持のコートへ収めた。
緋牡丹は自分の勘定を払った。
鞄を持った。
京持は二人に支えられたまま、彼女を見ようとした。
目が合う前に、また頭が下がった。
「おやすみ」
彼女は言った。
返事はなかった。
*
後部座席へ乗せると、京持は横へ倒れかけた。
マスターが肩を戻した。
ベルトを留める。
運転手へ住所を告げた。
「部屋まで頼む」
運転手は頷いた。
マスターは京持のポケットから鍵を出し、渡した。
「着いたら連絡を」
京持が何か言った。
マスターが顔を寄せた。
「何だ」
「明日」
その先は出なかった。
マスターはコートの裾を車内へ入れた。
ドアを閉める。
緋牡丹は少し離れたところに立っていた。
車が出るのを見て、マスターへ顔を向けた。
「私も帰るわ」
彼女は車の消えた方を、もう一度見た。
「おやすみ」
彼女は歩いていった。
マスターはバーバックと店へ戻った。
皿はもう下がっていた。
京持の席の前を拭いた。
水のグラスも片づけた。
やがて、運転手から連絡が来た。
部屋へ入れた。
鍵も戻した。
マスターは礼を言い、電話を切った。
それから、店の灯りを落とした。




