母が帰らない満月
紺色のノートに、また同じ言葉を書いた。
――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。
書いた時には、何も思わなかった。
研修先から届いた案内は、希望者向けの小さなものだった。
休みの日を一日使って、市民劇場の衣装修繕をしている工房を見学できるらしい。
見学だけでなく、簡単な補修なら実際に触らせてもらえることもある、と書いてあった。
参加費が少しかかる。
美緒は昼休みの机でスマートフォンを見ながら、二回読んだ。
「行くの?」
隣で弁当を食べていた先輩が聞いた。
「迷ってます」
「好きそうじゃん」
「好きそうです」
「じゃあ行けば」
「休み一日なくなるんですよ」
「じゃあやめれば」
「どっちですか」
「知らないよ」
先輩は笑った。
美緒も笑った。
それから、いつものようにノートへ書いた。
――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。
その日の午後は、袖口のほつれを直して、裾を詰めて、店長が置いたはずの定規を一緒に探した。
定規は店長のポケットに入っていた。
帰りに牛乳を買った。
夜は少しだけ研修の荷物を整理した。
見学のことは、そこでいったん頭から消えた。
◇
数日後、研修の書類をまとめようとして、美緒はノートを開いた。
持っていくものを書き出すつもりだった。
最初に目に入ったのは、少し前のページだった。
――研修の宿。食事付きか、自炊か。お母さんに聞く。
その横に、美緒の字で小さく、
――食事付き。
とある。
その下に、今度の文字。
――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。
美緒はペンを止めた。
二つの「お母さんに聞く」が、思ったより近くに並んでいた。
前の時は、本当に聞いた。
食事付きがいいと言われた。
その理由に笑って、言い返して、最後には自分でもそちらが楽だと思った。
嫌な時間ではなかった。
むしろ、楽しかった。
だから、美緒はしばらくその二行を見ていた。
ペン先が紙に触れたまま、小さな点ができる。
「……別に、聞いたっていいじゃん」
誰もいない部屋で言った。
佳代に聞くことの何が悪いのか、美緒にはやっぱり分からない。
見学の申し込み期限は、次の満月より後だった。
待とうと思えば待てる。
美緒は新しい文字を書かず、ノートを閉じた。
◇
月が丸くなる日は、いつもより早く分かる。
空を見なくても、町の方が先に教えてくる。
商店街の雑貨屋では、帰り灯用の替え芯が入口近くに並ぶ。
スーパーでは、いつもより少しだけ大きな魚や肉が売れる。
夕方になると、普段なら閉じている家の窓に明かりが増える。
美緒も、仕事の帰りにスーパーへ寄った。
鯖が安かった。
一度、手に取った。
佳代は鯖の味噌煮が好きだった。
美緒はパックを持ったまま、しばらく値札を見た。
「……別に私も好きだし」
小さく言った。
それでも、鯖を棚へ戻した。
代わりに豚肉と白菜を買った。
今日は鍋にする。
一人でも鍋くらい食べる。
家の前まで来ると、隣の玄関に帰り灯が置かれていた。
まだ火はついていない。
隣のおばさんが、しゃがんで芯を整えている。
「あら、美緒ちゃん」
「こんばんは」
「今日は早いのね」
「うん」
おばさんは灯りを立て直した。
「佳代さんも帰るんでしょう?」
美緒は一瞬だけ、自分の家の玄関を見た。
帰り灯は戸棚の中にある。
「今日は、呼ばない」
口にしてみると、思ったより普通の声だった。
おばさんは少しだけ目を丸くした。
「そう」
それだけ言った。
「寒くなってきたから、鍋いいわね」
美緒の買い物袋を見て笑う。
「そっちは?」
「うちはおでん。あの人、帰ってくるたび大根ばっかり食べるのよ」
「死んでも?」
「死んでも」
おばさんが笑った。
美緒も少し笑った。
家へ入った。
玄関の戸棚は、閉じたままだった。
◇
鍋を作る時、美緒は箸を二膳出した。
出してから気づいた。
「……何してんの」
一本ずつ戻す。
器も一つ。
取り皿も一枚。
白菜を切りすぎたので、半分は保存容器へ入れた。
佳代がいたら、
『だから最初に量見なさいって言ってるでしょう』
と言うだろう。
たぶん。
美緒は包丁を置いた。
今のは佳代が言ったわけではない。
自分が勝手に思っただけだ。
テレビをつける。
鍋が煮える。
外が完全に暗くなった頃、隣の玄関から声が聞こえた。
「ただいま」
男の声だった。
続けて、隣のおばさんの笑い声。
「遅いわよ」
「呼んだのそっちだろ」
そこまで聞こえた。
美緒はリモコンを取り、テレビの音量を一つ上げた。
二つ上げた。
やっぱりうるさくて、一つ戻した。
鍋を食べる。
味は普通だった。
白菜が少し柔らかすぎた。
佳代なら何か言うと思った。
佳代はいない。
呼んでいないから、当たり前だった。
美緒は一口食べて、スマートフォンを見る。
まだ早い。
今から帰り灯を出しても、何も遅くない。
前の満月の夜、佳代は、次に呼ばれなかったら怖いかと聞かれて、
『……ちょっと』
と答えた。
美緒は箸を止めた。
「それ言うの、ずるいんだよ」
誰もいない向かいの席へ言った。
もちろん返事はなかった。
鍋を食べ終えた。
洗い物をした。
布巾を畳んだ。
きれいに畳んだ布巾を見て、また腹が立った。
「似るじゃん」
美緒はぐしゃっと丸めた。
すぐに気になって、結局畳み直した。
◇
九時を過ぎた頃、戸棚を開けた。
帰り灯はいつもの場所にあった。
透明なガラス。
何の変哲もない小さなランプ。
美緒は両手で持ち上げた。
軽い。
前の満月にも、同じことを思った。
軽いのに、持っていると腕が落ち着かない。
玄関まで持っていった。
床に置く。
火をつける道具も、その横の箱に入っている。
ここまでなら、まだ呼んでいない。
美緒はしゃがんだ。
ガラス越しに、自分の指が少し歪んで見える。
外から笑い声がした。
隣だけではない。
道の向こうからも、誰かが大きな声で笑っている。
たぶん帰ってきた人がいる家だ。
この町では、今夜はそれが普通だ。
少なくとも、この玄関には美緒一人しかいなかった。
火をつければいい。
名前を呼べばいい。
前の満月の夜、二人とも認めた。
美緒は呼びたかった。
佳代は帰りたかった。
だったら、今夜だって会えばいい。
美緒は箱から火をつける道具を出した。
指に持つ。
帰り灯の芯を見る。
「……今日は」
声が出た。
続きが出なかった。
誰に言い訳しているのか分からなかった。
美緒は火をつける道具を箱へ戻した。
帰り灯は玄関に置いたままにした。
戸棚へ戻すこともしなかった。
◇
十時を過ぎた頃、美緒は食卓へ戻った。
紺色のノートが置いたままになっている。
開く。
――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。
また同じ文字を読む。
佳代なら何と言うだろう。
『行きたいなら行けば?』
と言うかもしれない。
『休み一日くらい休みなさい』
と言うかもしれない。
どちらも言いそうだった。
だから、考えても分からなかった。
美緒はスマートフォンから案内を開いた。
舞台衣装の補修。
古い衣装を実際に見られる。
簡単な縫い直しなら体験できる。
一日休みが減る。
参加費もかかる。
申し込みはまだ先でもいい。
それでも、最初に案内を見た時から、少し行ってみたかった。
美緒は申し込み画面を開いた。
名前を入力する。
研修番号を入れる。
確認画面が出る。
最後のボタンの上で指が止まった。
今から母を呼んで、聞くこともできる。
帰り灯は玄関に出してある。
佳代が帰るかどうかは佳代が決める。
でも、呼ぶことはできる。
美緒は画面を見た。
それから、押した。
《参加申し込みを受け付けました》
たった一行が表示された。
部屋は同じままだった。
外では誰かが笑っている。
帰り灯は暗いまま玄関にある。
美緒はノートの一行へ線を引いた。
――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。
その下に書く。
――行くことにした。
少し考えた。
もう一行。
――お母さんに話す。
書いた瞬間、胸の奥が痛くなった。
話したい。
今すぐ話したい。
「お母さん」
美緒は小さく呼んだ。
玄関の帰り灯は暗いままだった。
それは招待ではない。
名前も呼んでいない。
ただ、誰もいない家で母を呼んだだけだった。
美緒はノートを閉じた。
◇
十一時を過ぎた。
隣の家からテレビの音が聞こえる。
帰ってきた男の声も、ときどき混ざる。
美緒は歯を磨いた。
着替えた。
ベッドへ入ろうとして、やめた。
まだ眠れない。
玄関へ戻る。
帰り灯はそこにある。
座り込む。
「ねえ」
美緒はランプへ向かって言った。
「私、見学行くことにした」
返事はない。
「舞台衣装のやつ」
言ってから、少し笑った。
佳代はそんな案内が来たことすら知らない。
説明から始めなければならない。
それが、妙に遠く感じた。
美緒は膝を抱えた。
「聞いたら、何て言った?」
ランプは答えない。
当然だ。
美緒はしばらく座っていた。
泣くほどではないと思った。
そう思った直後に涙が出たので、腹が立った。
袖で拭く。
「最悪」
何に言ったのか分からなかった。
母にか。
自分にか。
この町にか。
会えるのに会わないなんてことを考え始めた二人にか。
全部かもしれなかった。
美緒は帰り灯を持ち上げた。
今度は玄関の外へ出した。
満月は高いところにあった。
道のあちこちに、灯りが見える。
生きている人と、死んでいる人が同じ家の中にいる夜。
この玄関には、美緒一人しかいなかった。
箱から火をつける道具を取り出す。
一度、火を出した。
小さな炎が指先の近くで揺れる。
帰り灯の芯までは、数センチだった。
美緒は炎を消した。
「今日は、呼ばない」
今度は最後まで言えた。
誰も聞いていなかった。
◇
夜が深くなると、町は少し静かになった。
美緒は温かい牛乳を作った。
ソファで飲んだ。
テレビは消した。
静かな家の音を聞いた。
冷蔵庫。
時計。
遠くの車。
隣の家の、誰かがトイレへ行く足音。
佳代がいない夜の音だった。
いつもある音なのに、満月の日だけ違って聞こえた。
二時を過ぎた頃、美緒は一度ベッドへ入った。
三時前に起きた。
眠れなかっただけだった。
玄関を見る。
まだ暗い。
まだ間に合う。
そう思った。
帰り灯は外に置いたままだ。
火をつけて名前を呼べば、佳代が帰るかもしれない。
夜明けまで数時間しかなくても。
一時間でも。
十分でも。
会えないよりはいい。
美緒は玄関へ行った。
ドアを開ける。
冷たい空気が入ってくる。
帰り灯を持ち上げた。
月が少し傾いている。
「お母さん」
声が出た。
そこで止めた。
名前は呼ばなかった。
帰っておいで、とも言わなかった。
ただ、お母さん、と言った。
それだけだった。
美緒は灯りを抱えて、玄関の中へ戻った。
火はつけなかった。
◇
空の色が変わり始めた頃、隣の家の玄関が開いた。
美緒はカーテンの隙間から見た。
隣のおばさんと、背の高い男が立っている。
男が何か言った。
聞き取れない。
おばさんが笑って、腕を叩いた。
それから二人とも少し黙った。
夜明けは、どの家にも同じように来る。
やがて男の姿がなくなった。
おばさんはしばらく玄関に立っていた。
美緒はカーテンを閉じた。
自分の玄関を見る。
帰り灯は一度も点かなかった。
佳代は帰らなかった。
寂しかった。
呼べばよかったとも思った。
今からではもう遅い。
そのことにも腹が立った。
美緒は食卓へ行った。
紺色のノートを開く。
――行くことにした。
――お母さんに話す。
昨夜書いた二行がある。
美緒はその下へ何か書こうとして、やめた。
次の満月、と書きそうになったからだった。
ペンを置いた。
帰り灯を戸棚へ戻した。
ガラスは冷たかった。
扉を閉める。
朝になった。




