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死者が帰る町で、母が「次の満月は、私を呼ばないで」と言った  作者: 綴木 灯


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4/5

母が帰らない満月

紺色のノートに、また同じ言葉を書いた。


――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。


書いた時には、何も思わなかった。


研修先から届いた案内は、希望者向けの小さなものだった。


休みの日を一日使って、市民劇場の衣装修繕をしている工房を見学できるらしい。


見学だけでなく、簡単な補修なら実際に触らせてもらえることもある、と書いてあった。


参加費が少しかかる。


美緒は昼休みの机でスマートフォンを見ながら、二回読んだ。


「行くの?」


隣で弁当を食べていた先輩が聞いた。


「迷ってます」


「好きそうじゃん」


「好きそうです」


「じゃあ行けば」


「休み一日なくなるんですよ」


「じゃあやめれば」


「どっちですか」


「知らないよ」


先輩は笑った。


美緒も笑った。


それから、いつものようにノートへ書いた。


――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。


その日の午後は、袖口のほつれを直して、裾を詰めて、店長が置いたはずの定規を一緒に探した。


定規は店長のポケットに入っていた。


帰りに牛乳を買った。


夜は少しだけ研修の荷物を整理した。


見学のことは、そこでいったん頭から消えた。


◇


数日後、研修の書類をまとめようとして、美緒はノートを開いた。


持っていくものを書き出すつもりだった。


最初に目に入ったのは、少し前のページだった。


――研修の宿。食事付きか、自炊か。お母さんに聞く。


その横に、美緒の字で小さく、


――食事付き。


とある。


その下に、今度の文字。


――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。


美緒はペンを止めた。


二つの「お母さんに聞く」が、思ったより近くに並んでいた。


前の時は、本当に聞いた。


食事付きがいいと言われた。


その理由に笑って、言い返して、最後には自分でもそちらが楽だと思った。


嫌な時間ではなかった。


むしろ、楽しかった。


だから、美緒はしばらくその二行を見ていた。


ペン先が紙に触れたまま、小さな点ができる。


「……別に、聞いたっていいじゃん」


誰もいない部屋で言った。


佳代に聞くことの何が悪いのか、美緒にはやっぱり分からない。


見学の申し込み期限は、次の満月より後だった。


待とうと思えば待てる。


美緒は新しい文字を書かず、ノートを閉じた。


◇


月が丸くなる日は、いつもより早く分かる。


空を見なくても、町の方が先に教えてくる。


商店街の雑貨屋では、帰り灯用の替え芯が入口近くに並ぶ。


スーパーでは、いつもより少しだけ大きな魚や肉が売れる。


夕方になると、普段なら閉じている家の窓に明かりが増える。


美緒も、仕事の帰りにスーパーへ寄った。


鯖が安かった。


一度、手に取った。


佳代は鯖の味噌煮が好きだった。


美緒はパックを持ったまま、しばらく値札を見た。


「……別に私も好きだし」


小さく言った。


それでも、鯖を棚へ戻した。


代わりに豚肉と白菜を買った。


今日は鍋にする。


一人でも鍋くらい食べる。


家の前まで来ると、隣の玄関に帰り灯が置かれていた。


まだ火はついていない。


隣のおばさんが、しゃがんで芯を整えている。


「あら、美緒ちゃん」


「こんばんは」


「今日は早いのね」


「うん」


おばさんは灯りを立て直した。


「佳代さんも帰るんでしょう?」


美緒は一瞬だけ、自分の家の玄関を見た。


帰り灯は戸棚の中にある。


「今日は、呼ばない」


口にしてみると、思ったより普通の声だった。


おばさんは少しだけ目を丸くした。


「そう」


それだけ言った。


「寒くなってきたから、鍋いいわね」


美緒の買い物袋を見て笑う。


「そっちは?」


「うちはおでん。あの人、帰ってくるたび大根ばっかり食べるのよ」


「死んでも?」


「死んでも」


おばさんが笑った。


美緒も少し笑った。


家へ入った。


玄関の戸棚は、閉じたままだった。


◇


鍋を作る時、美緒は箸を二膳出した。


出してから気づいた。


「……何してんの」


一本ずつ戻す。


器も一つ。


取り皿も一枚。


白菜を切りすぎたので、半分は保存容器へ入れた。


佳代がいたら、


『だから最初に量見なさいって言ってるでしょう』


と言うだろう。


たぶん。


美緒は包丁を置いた。


今のは佳代が言ったわけではない。


自分が勝手に思っただけだ。


テレビをつける。


鍋が煮える。


外が完全に暗くなった頃、隣の玄関から声が聞こえた。


「ただいま」


男の声だった。


続けて、隣のおばさんの笑い声。


「遅いわよ」


「呼んだのそっちだろ」


そこまで聞こえた。


美緒はリモコンを取り、テレビの音量を一つ上げた。


二つ上げた。


やっぱりうるさくて、一つ戻した。


鍋を食べる。


味は普通だった。


白菜が少し柔らかすぎた。


佳代なら何か言うと思った。


佳代はいない。


呼んでいないから、当たり前だった。


美緒は一口食べて、スマートフォンを見る。


まだ早い。


今から帰り灯を出しても、何も遅くない。


前の満月の夜、佳代は、次に呼ばれなかったら怖いかと聞かれて、


『……ちょっと』


と答えた。


美緒は箸を止めた。


「それ言うの、ずるいんだよ」


誰もいない向かいの席へ言った。


もちろん返事はなかった。


鍋を食べ終えた。


洗い物をした。


布巾を畳んだ。


きれいに畳んだ布巾を見て、また腹が立った。


「似るじゃん」


美緒はぐしゃっと丸めた。


すぐに気になって、結局畳み直した。


◇


九時を過ぎた頃、戸棚を開けた。


帰り灯はいつもの場所にあった。


透明なガラス。


何の変哲もない小さなランプ。


美緒は両手で持ち上げた。


軽い。


前の満月にも、同じことを思った。


軽いのに、持っていると腕が落ち着かない。


玄関まで持っていった。


床に置く。


火をつける道具も、その横の箱に入っている。


ここまでなら、まだ呼んでいない。


美緒はしゃがんだ。


ガラス越しに、自分の指が少し歪んで見える。


外から笑い声がした。


隣だけではない。


道の向こうからも、誰かが大きな声で笑っている。


たぶん帰ってきた人がいる家だ。


この町では、今夜はそれが普通だ。


少なくとも、この玄関には美緒一人しかいなかった。


火をつければいい。


名前を呼べばいい。


前の満月の夜、二人とも認めた。


美緒は呼びたかった。


佳代は帰りたかった。


だったら、今夜だって会えばいい。


美緒は箱から火をつける道具を出した。


指に持つ。


帰り灯の芯を見る。


「……今日は」


声が出た。


続きが出なかった。


誰に言い訳しているのか分からなかった。


美緒は火をつける道具を箱へ戻した。


帰り灯は玄関に置いたままにした。


戸棚へ戻すこともしなかった。


◇


十時を過ぎた頃、美緒は食卓へ戻った。


紺色のノートが置いたままになっている。


開く。


――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。


また同じ文字を読む。


佳代なら何と言うだろう。


『行きたいなら行けば?』


と言うかもしれない。


『休み一日くらい休みなさい』


と言うかもしれない。


どちらも言いそうだった。


だから、考えても分からなかった。


美緒はスマートフォンから案内を開いた。


舞台衣装の補修。


古い衣装を実際に見られる。


簡単な縫い直しなら体験できる。


一日休みが減る。


参加費もかかる。


申し込みはまだ先でもいい。


それでも、最初に案内を見た時から、少し行ってみたかった。


美緒は申し込み画面を開いた。


名前を入力する。


研修番号を入れる。


確認画面が出る。


最後のボタンの上で指が止まった。


今から母を呼んで、聞くこともできる。


帰り灯は玄関に出してある。


佳代が帰るかどうかは佳代が決める。


でも、呼ぶことはできる。


美緒は画面を見た。


それから、押した。


《参加申し込みを受け付けました》


たった一行が表示された。


部屋は同じままだった。


外では誰かが笑っている。


帰り灯は暗いまま玄関にある。


美緒はノートの一行へ線を引いた。


――舞台衣装の見学、行くか。お母さんに聞く。


その下に書く。


――行くことにした。


少し考えた。


もう一行。


――お母さんに話す。


書いた瞬間、胸の奥が痛くなった。


話したい。


今すぐ話したい。


「お母さん」


美緒は小さく呼んだ。


玄関の帰り灯は暗いままだった。


それは招待ではない。


名前も呼んでいない。


ただ、誰もいない家で母を呼んだだけだった。


美緒はノートを閉じた。


◇


十一時を過ぎた。


隣の家からテレビの音が聞こえる。


帰ってきた男の声も、ときどき混ざる。


美緒は歯を磨いた。


着替えた。


ベッドへ入ろうとして、やめた。


まだ眠れない。


玄関へ戻る。


帰り灯はそこにある。


座り込む。


「ねえ」


美緒はランプへ向かって言った。


「私、見学行くことにした」


返事はない。


「舞台衣装のやつ」


言ってから、少し笑った。


佳代はそんな案内が来たことすら知らない。


説明から始めなければならない。


それが、妙に遠く感じた。


美緒は膝を抱えた。


「聞いたら、何て言った?」


ランプは答えない。


当然だ。


美緒はしばらく座っていた。


泣くほどではないと思った。


そう思った直後に涙が出たので、腹が立った。


袖で拭く。


「最悪」


何に言ったのか分からなかった。


母にか。


自分にか。


この町にか。


会えるのに会わないなんてことを考え始めた二人にか。


全部かもしれなかった。


美緒は帰り灯を持ち上げた。


今度は玄関の外へ出した。


満月は高いところにあった。


道のあちこちに、灯りが見える。


生きている人と、死んでいる人が同じ家の中にいる夜。


この玄関には、美緒一人しかいなかった。


箱から火をつける道具を取り出す。


一度、火を出した。


小さな炎が指先の近くで揺れる。


帰り灯の芯までは、数センチだった。


美緒は炎を消した。


「今日は、呼ばない」


今度は最後まで言えた。


誰も聞いていなかった。


◇


夜が深くなると、町は少し静かになった。


美緒は温かい牛乳を作った。


ソファで飲んだ。


テレビは消した。


静かな家の音を聞いた。


冷蔵庫。


時計。


遠くの車。


隣の家の、誰かがトイレへ行く足音。


佳代がいない夜の音だった。


いつもある音なのに、満月の日だけ違って聞こえた。


二時を過ぎた頃、美緒は一度ベッドへ入った。


三時前に起きた。


眠れなかっただけだった。


玄関を見る。


まだ暗い。


まだ間に合う。


そう思った。


帰り灯は外に置いたままだ。


火をつけて名前を呼べば、佳代が帰るかもしれない。


夜明けまで数時間しかなくても。


一時間でも。


十分でも。


会えないよりはいい。


美緒は玄関へ行った。


ドアを開ける。


冷たい空気が入ってくる。


帰り灯を持ち上げた。


月が少し傾いている。


「お母さん」


声が出た。


そこで止めた。


名前は呼ばなかった。


帰っておいで、とも言わなかった。


ただ、お母さん、と言った。


それだけだった。


美緒は灯りを抱えて、玄関の中へ戻った。


火はつけなかった。


◇


空の色が変わり始めた頃、隣の家の玄関が開いた。


美緒はカーテンの隙間から見た。


隣のおばさんと、背の高い男が立っている。


男が何か言った。


聞き取れない。


おばさんが笑って、腕を叩いた。


それから二人とも少し黙った。


夜明けは、どの家にも同じように来る。


やがて男の姿がなくなった。


おばさんはしばらく玄関に立っていた。


美緒はカーテンを閉じた。


自分の玄関を見る。


帰り灯は一度も点かなかった。


佳代は帰らなかった。


寂しかった。


呼べばよかったとも思った。


今からではもう遅い。


そのことにも腹が立った。


美緒は食卓へ行った。


紺色のノートを開く。


――行くことにした。


――お母さんに話す。


昨夜書いた二行がある。


美緒はその下へ何か書こうとして、やめた。


次の満月、と書きそうになったからだった。


ペンを置いた。


帰り灯を戸棚へ戻した。


ガラスは冷たかった。


扉を閉める。


朝になった。

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