呼んだ夜
「ただいま」
その一言を聞いてから、美緒はやっと息を吐いた。
白くなった息が、佳代の肩の向こうへ消えていく。
「……入って」
「だから寒いって言ってるでしょう」
「帰ってきて最初に文句言わないでよ」
「外で待ってる方が悪い」
佳代はいつものように靴を脱いだ。
その動きまで見慣れているのに、美緒は少しだけ玄関に立ち尽くした。
本当に帰ってきた。
呼んだのだから、帰ってきてほしかった。
帰ってきたら腹を立てるつもりでもいた。
その二つが同時に胸の中にあって、どちらから口にすればいいのか分からなかった。
佳代が振り返った。
「何してるの」
「別に」
「灯り」
「あ」
美緒は慌てて帰り灯を持ち上げた。
玄関へ入れる。
佳代はそのまま台所へ向かい、食卓を見て止まった。
箸は一膳。
丼も一つ。
鍋には、うどんの汁が少し残っているだけだった。
佳代が美緒を見る。
「ご飯は?」
「食べた」
「私の」
「ない」
「ない?」
「呼ばないつもりだったから」
佳代は口を閉じた。
美緒も黙った。
数秒前まで、帰ってきたことがただ嬉しかったはずなのに、そこへ一気に一か月前の続きを置かれたような気がした。
佳代が先に目をそらした。
「……でも呼んだのね」
「うるさい」
「まだ何も言ってないでしょう」
「顔が言ってる」
「どんな顔よ」
「お母さんの顔」
「雑」
佳代は冷蔵庫を開けた。
「何かないの?」
「勝手に開けないでよ」
「私の家でもあったんですけど」
「今は私の冷蔵庫」
「冷たい子」
「死んでる人に言われたくない」
言ってから、美緒は一瞬だけ口をつぐんだ。
佳代は気にした様子もなく、冷凍庫を開けた。
「ご飯あるじゃない」
「冷凍ね」
「卵は?」
「ある」
「じゃあそれでいい」
美緒は冷凍ご飯を電子レンジに入れた。
佳代は卵を二つ取り出す。
「一個でよくない?」
「帰ってきた日に卵一個?」
「帰ってくると思ってなかった人が贅沢言わないで」
「呼んだくせに」
また、その言葉だった。
電子レンジが回り始める。
低い音だけが台所に残った。
佳代は卵を割りながら、何でもないように言った。
「昨日の味噌汁とか残ってないの?」
美緒は母の横顔を見た。
「昨日?」
「ほら、鯖の日の」
「……あれ、一か月前だよ」
佳代の手が止まった。
割った卵が、器の中で少し揺れる。
「ああ」
佳代は小さく言った。
「そっか」
それだけだった。
前にも似たことはあった。
前の帰還夜を「先週」と言ったことがある。
その時は笑って終わった。
今夜は、美緒にはうまく笑えなかった。
電子レンジが鳴った。
美緒はご飯を取り出した。
「卵、どうする?」
「焼く」
「今から?」
「混ぜたから」
「じゃあ自分で焼いて」
「娘が冷たい」
「冷蔵庫勝手に開けた人に言われたくない」
佳代はフライパンを出した。
美緒は湯を沸かした。
味噌汁を一から作るほどでもないので、棚の奥にあった即席の吸い物を出す。
「それ?」
佳代が露骨に嫌そうな顔をした。
「嫌なら水飲めば」
「いただきます」
「まだできてない」
さっきまで、佳代が帰ってこないかもしれないと思っていた。
今は、即席の吸い物に文句を言われている。
美緒は少し笑った。
「何」
「別に」
「今日そればっかりね」
◇
食卓に並んだのは、冷凍ご飯と、少し形の崩れた卵焼きと、即席の吸い物だった。
佳代は卵焼きを一口食べて、
「焦げてる」
と言った。
「自分で焼いたじゃん」
「フライパンが悪い」
「一か月の間にフライパンの性格変わってないよ」
佳代が箸を止めた。
美緒も、言ってから気づいた。
佳代は食卓の端に視線を落とした。
そこには紺色のノートがある。
「一か月、ね」
「うん」
「研修って、三か月くらい先じゃなかった?」
「もうそんな先じゃないよ」
「そうなの?」
「前に話したの、今日の続きみたいに感じてるんでしょ」
佳代は少し考えた。
「……まあ」
「こっちは普通に一か月経ってるから」
「分かってる」
返事だけは少し早かった。
美緒はそれ以上言わなかった。
佳代も卵焼きを食べた。
しばらくして、美緒はノートを引き寄せた。
「そうだ」
「何」
「研修の宿、決めないといけない」
「宿?」
「今度行く研修の」
「いつまで?」
「三日後」
美緒はページを開いた。
――研修の宿。食事付きか、自炊か。お母さんに聞く。
佳代が身を乗り出した。
「食事付きにしなさい」
「早」
「一人暮らし始めたら、絶対最初だけ張り切るから」
「何で決めつけるの」
「知ってるから」
「私、料理してるじゃん」
「満月の日だけはね」
「普段もしてる」
「うどん?」
「今日は例外」
佳代が笑った。
「食事付きなら、仕事終わって帰ってから考えなくていいでしょう」
「でも休みの日まで時間決まってるんだよ」
「じゃあ食べない日があってもいいんじゃない?」
「お金もったいなくない?」
「そこは先に聞きなさい」
「聞いた。月額だから変わらないって」
「じゃあもったいない」
「ほら」
「でも美緒、自炊にしたら野菜買わないでしょう」
「買うし」
「もやしだけは野菜って言わないからね」
「もやしは野菜でしょ」
「そういう話じゃない」
いつもの調子だった。
美緒はノートの余白に、
――食事付き寄り。
と書いた。
佳代がそれを覗き込む。
「“寄り”って何」
「まだ決めてない」
「三日後までなんでしょ」
「うん」
「私だったら食事付き」
「お母さんは、でしょ」
「そう」
佳代はあっさり頷いた。
それから閉じかけたノートを見て、
「決めたら、次に帰れた時に教えて」
と言った。
美緒の手が止まった。
佳代も、自分の言葉に気づいたらしい。
「……帰る気満々じゃん」
「だって聞きたいもの」
「呼ばないでって言った人が?」
「それとこれは」
「別?」
佳代は答えなかった。
美緒は少し笑った。
佳代も困ったように笑った。
◇
栗まんじゅうの話をしたのは、それから少し後だった。
「そういえば直樹に会った」
佳代の顔がすぐに変わった。
「いつ?」
「今度はちゃんと“一か月の間”って言えば?」
「意地悪」
「日曜」
「元気だった?」
「普通」
「髪は?」
「知らない」
「見たんでしょう」
「見たけど覚えてない」
「役に立たない」
美緒は笑った。
「栗まんじゅうくれたよ」
「ほんと?」
佳代が嬉しそうに身を乗り出した。
「どこ?」
「食べた」
「は?」
「賞味期限あるし」
「私の分じゃないの?」
「聞いたけど“別に”って」
「直樹、そういうところあるのよ」
「お母さんの分だったと思う?」
「思う」
「私も」
佳代は少しだけ満足そうに頷いた。
その顔を見て、美緒は迷った。
でも言った。
「直樹、会いたくないわけじゃないって」
佳代の表情が止まった。
「何それ」
「来ない理由」
「会いたくないわけじゃないなら、来ればいいでしょう」
「私もそう言った」
「でしょ」
「でも、会った次の日が嫌なんだって」
佳代が眉を寄せた。
「次の日?」
「朝起きたら、またお母さんがいないから」
佳代は何も言わなかった。
「会ってる夜は普通なんだって。楽しいし、くだらないこと言うし」
「くだらないことって何よ」
「髪切れとか」
「切った方がいいもの」
「ほら」
美緒は少し笑った。
佳代は笑わなかった。
「でも朝になると、またいないってなるのが嫌なんだって」
「だから二回も来なかったの?」
声に、少し棘があった。
「それだけじゃないと思うけど」
「仕事だって言ってたんでしょう」
「仕事の時もある。でも、行かなかったら行かなかったで、夜になって後悔することもあるって」
「面倒くさい子」
「お母さんの子じゃん」
「美緒に言われたくない」
佳代はそう返してから、しばらく黙った。
テーブルの上で、吸い物の湯気はもうほとんど見えなくなっていた。
佳代が小さく言った。
「直樹は、次の日もあるのね」
「そりゃあるでしょ」
「そうじゃなくて」
佳代は自分の手を見た。
「私と会った次の日」
美緒は黙った。
佳代はゆっくり息を吐いた。
「私には、その次の朝がないのね」
美緒は何も答えなかった。
「ずるい」
美緒は言った。
佳代が顔を上げる。
「何が」
「お母さんだけ、次の日つらくないじゃん」
「その代わり、一か月分知らないけどね」
すぐに返された。
美緒は言葉に詰まった。
佳代も、少し驚いたような顔をした。
言い返したかっただけなのかもしれない。
でも、その言葉は食卓に残った。
「じゃあさ」
美緒は言った。
「何」
「何で帰ってきたの」
佳代が目を細めた。
「急に戻るわね」
「だってそうじゃん」
美緒は帰り灯のある玄関の方を見た。
「呼ばないでって言ったの、お母さんでしょ」
「呼んだのは美緒でしょう」
「でも帰らないって選べたじゃん」
佳代は黙った。
美緒は続けた。
「来るまで、いつもより時間かかった」
「時間って」
「私には長かったの」
少し強い声になった。
「来ないんだと思った」
佳代は目を伏せた。
「……迷ったから」
「じゃあ帰らなきゃよかったじゃん」
「それ言う?」
「お母さんが言い出したんでしょ」
「美緒が呼んだんでしょうが」
「だから、私は呼びたかったの!」
言ってから、美緒は口を閉じた。
佳代も黙った。
美緒の声だけが、台所に少し残った気がした。
佳代が先に視線をそらした。
「……私も」
「何」
「帰りたかった」
美緒は母を見た。
佳代は少し腹を立てているような、困っているような顔だった。
「呼ばれたって分かったら、帰りたくなったの」
「じゃあ、何で呼ばないでなんて言ったの」
「分かんない」
「またそれ」
「分かんないものは分かんないのよ」
佳代は箸を置いた。
「美緒に宿のこと聞かれて、嬉しかったし」
「うん」
「直樹にも来てほしいし」
「うん」
「呼ばれたら帰りたいし」
「うん」
「でも、それでいいのかって思う」
美緒は眉を寄せた。
「何が」
「だから、そこが分かんないって言ってる」
佳代が少し苛立ったように言った。
「正解知ってたら、こんな面倒なこと言わない」
美緒は黙った。
その言い方は、少しだけ信用できた。
◇
夜が深くなるにつれて、二人の声は小さくなった。
食器を流しへ運ぶ。
美緒が洗い、佳代が拭いた。
「また布巾きれいに畳んで帰る気?」
「畳むのが普通でしょう」
「朝見ると腹立つんだよ」
「知らないわよ」
佳代は皿を棚へ戻した。
その動きを見ながら、美緒は思い出した。
「宿、どうしよう」
「まだ決めてなかったの?」
「お母さんが食事付きって言っただけじゃん」
「じゃあ食事付きにしたら?」
「責任取ってよ」
「何の」
「ご飯まずかったら」
「知らない」
「無責任」
「私は食事付きが楽だと思うって言っただけ」
佳代が笑った。
美緒も少し笑った。
「……食事付きにしようかな」
「そう?」
「うん。知らない町で毎日買い物するの面倒そうだし」
美緒はノートを開いた。
――研修の宿。食事付きか、自炊か。お母さんに聞く。
その横に、小さく、
――食事付き。
と書いた。
正式な返事は、明日送ればいい。
◇
夜明けが近づく頃、佳代は玄関に立っていた。
帰り灯の炎は小さくなっている。
美緒は壁にもたれた。
「ねえ」
佳代が言った。
「何」
「次の満月」
美緒はすぐに顔をしかめた。
「また呼ばないでって言うの?」
佳代は少し考えた。
「……言わない」
「何」
「一回、帰り灯が点かない満月があったら、どうなるのかなって思ってるだけ」
「それ、同じじゃん」
「そうかも」
「ずるい」
「うん」
少し間があった。
「怖い?」
美緒が聞いた。
佳代が目を瞬いた。
「何が」
「次、呼ばれなかったら」
佳代はすぐには答えなかった。
「……ちょっと」
それだけ言った。
美緒は何も返さなかった。
佳代が髪に触れる。
「美緒は?」
「知らない」
「それ便利ね」
「お母さんに言われたくない」
佳代が笑った。
外が少しずつ明るくなる。
「じゃあ」
佳代が言った。
「またね」
美緒は、その言葉の続きを待った。
次の満月に。
そう言うのかと思った。
佳代は言わなかった。
美緒も言わなかった。
次に瞬きをした時、玄関には美緒一人だけが立っていた。
帰り灯の火が消えている。
美緒はしばらくそこにいてから、台所へ戻った。
流しの横には、佳代が使った布巾が置かれていた。
きれいに畳まれている。
「だから、それ腹立つんだって」
美緒は言った。
返事はない。
でも今度は、少しだけ笑った。




