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死者が帰る町で、母が「次の満月は、私を呼ばないで」と言った  作者: 綴木 灯


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2/5

次の満月まで

朝になると、母が使った布巾だけが、流しの横にきれいに畳まれていた。


美緒はそれを見て、少し腹が立った。


昨夜、佳代が皿を拭いた布巾だ。


死者は夜明けに消えるのに、畳んだ布巾は消えない。


そういうところだけ律儀に残る。


「勝手なこと言って、片付けだけきれいにして帰るんだから」


誰もいない台所で言った。


返事はない。


当たり前だった。


美緒は冷蔵庫から残りの味噌汁を出した。


温め直して飲む。


やっぱり少し濃い。


昨夜なら、向かいからすぐに「だから言ったでしょう」と飛んできたはずだった。


それを思い出して、また腹が立った。


食卓の端には紺色のノートがある。


開く。


昨夜の最後に書いた一行。


――次の満月。お母さんを呼ぶか。


見ても答えは出なかった。


美緒はその下に何も書かず、ノートを閉じた。


帰り灯は玄関から片付けて、いつもの戸棚に戻した。


ガラスの表面を拭いている間にも、佳代の言葉は何度か頭に戻ってきた。


次の満月は、私を呼ばないで。


「何でなの」


もう一度言ってみたところで、やっぱり返事はなかった。


その日は普通に仕事へ行った。


工房では、朝から店長が裁ちばさみを探していた。


「机の右です」


美緒が言うと、店長は右を見て、


「ないぞ」


と言った。


「その布の下です」


布を持ち上げる。


「あった」


「でしょうね」


店長は何もなかったように仕事へ戻った。


美緒は少し笑って、昼休みにノートへ書いた。


――店長、今日は裁ちばさみ。布の下。


書いてから、昨夜の食卓を思い出した。


佳代ならたぶん、「あの人、仕事どうやって回してるの」と言う。


その顔まで浮かんだ。


美緒はペンを止めた。


それでも、ノートを閉じた頃には、午後の仕事が始まっていた。


針を持つ。


糸を替える。


先輩に呼ばれる。


帰りにスーパーへ寄る。


風呂に入る。


眠る。


次の日になる。


そうやって、一週間ほど経った。


◇


研修先から、宿泊についての案内が届いたのは水曜日だった。


工房の奥で休憩していると、スマートフォンにメールが入った。


研修中の宿は二種類から選べるらしい。


食事の付く寮と、自炊用の小さな部屋。


料金は少し違うが、どちらでも大きな差はない。


返事は次の満月の三日後まで。


「どっちにする?」


隣でお茶を飲んでいた先輩が、美緒の画面を覗いた。


「まだ決めてないです」


「食事付き、楽じゃない?」


「でも休みの日まで決まったご飯なの嫌かも」


「じゃあ自炊」


「知らない町で毎日作るのも面倒じゃないですか」


「面倒くさい子だね」


「今気づいたんですか」


先輩が笑った。


美緒も笑って、スマートフォンを伏せた。


昼休みの終わり際、紺色のノートを開く。


今月のページには、すでにいくつか増えていた。


――店長、今日は裁ちばさみ。布の下。


――直樹、返信遅い。


――商店街の花屋、店先に猫がいる。たぶん飼い始めた。


その下に、美緒は書いた。


――研修の宿。食事付きか、自炊か。お母さんに聞く。


一度読み返す。


特に変だとは思わなかった。


佳代は一人暮らしをしたことがあるし、料理もしていた。


こういうことは聞けば早い。


期限も次の満月より後だ。


だから、そのままノートを閉じた。


◇


直樹から連絡が来たのは、その週の日曜日だった。


《今日そっち寄る。駅いる?》


美緒は《何時》と返した。


二時間後、駅前のベンチで兄を待つことになった。


直樹は予定より十二分遅れてきた。


「遅い」


美緒が言うと、直樹は眉を寄せた。


「母さんみたいなこと言うな」


「六分でも怒られるからね」


「死んでも時間に細かいのかよ」


「味にも細かい」


「うわ」


直樹は笑った。


笑ってから、少しだけ顔をそらした。


片手に紙袋を持っている。


「何それ」


「やる」


渡された袋を覗くと、栗まんじゅうが入っていた。


母が好きだった店のものだ。


美緒は兄の顔を見た。


「これ、お母さん用だった?」


「別に」


「絶対そうじゃん」


「お前が食えば同じだろ」


「同じじゃないでしょ」


直樹は答えなかった。


美緒は紙袋を膝に置いた。


駅前をバスが通る。


日曜の昼で、人が多い。


「この前さ」


美緒は言った。


「母さん、直樹が来ないって文句言ってたよ」


「だろうな」


「その前も来なかったじゃん」


「うん」


「何で?」


直樹は、駅の時計を見た。


「仕事」


「この前のメッセージ、“たぶん仕事”って私が答えたんだけど」


「合ってる」


「その前は?」


「何でもいいだろ」


「よくない」


直樹は面倒そうに息を吐いた。


「美緒、お前、母さんに言われたの?」


「何を」


「俺に来いって言えって」


「言われてない」


「じゃあ放っとけよ」


「お母さん寂しそうだったから」


「知ってる」


「知ってるなら来ればいいじゃん」


直樹はしばらく黙った。


紙袋の取っ手を美緒が指でいじる音だけがした。


「……会いたくないわけじゃない」


「じゃあ何」


「会った次の日が、俺は嫌なんだよ」


美緒は黙った。


直樹は膝に肘をついた。


「夜は普通なんだよ。母さんいるし。くだらないこと言うし、俺の髪切れとか言うし」


「言いそう」


「言うんだよ。それで朝になるだろ」


直樹はそこで一度止まった。


「朝起きて、またいないってなるのが嫌なんだよ」


美緒は紙袋を見た。


栗まんじゅうの箱が少し透けて見える。


「でも、行かなかったら平気なの?」


「平気じゃない」


「じゃあ意味なくない?」


「俺もそう思う時あるよ」


直樹は笑った。


笑い方が少し投げやりだった。


「この前だって、夜になってから行けばよかったって思ったし」


「じゃあ来ればよかったじゃん」


「そういうの、夜八時過ぎてから思うんだよ」


「近いんだから間に合うでしょ」


「うるさいな」


直樹は美緒の額を指で押した。


美緒はその手を払った。


「次は?」


「知らん」


「またそれ」


「その日にならないと分かんない」


「お母さん怒るよ」


「寂しいだけだろ」


美緒は兄を見た。


「それ、お母さんも言ってた」


直樹が少しだけ笑った。


「じゃあ合ってるじゃん」


直樹は立ち上がった。


「栗まんじゅう、全部食うなよ」


「誰の分?」


直樹は少しだけ迷って、


「……今度、俺が行ったら一個返せ」


と言った。


美緒は笑った。


「賞味期限切れるけど」


「じゃあ食え」


「どっち」


「うるさい」


直樹は手を振って、駅の中へ消えた。


◇


月は、毎晩少しずつ太った。


美緒はそれを気にしないふりをした。


仕事帰りに見上げて、


「あ、もう半分より大きい」


と思うくらいには気にしていた。


紺色のノートも少しずつ増えた。


――花屋の猫、名前はムギ。


――先輩、研修先に一回行ったことあるらしい。


――研修の宿。食事付きか、自炊か。お母さんに聞く。


――次の満月。お母さんを呼ぶか。


最後の二行だけ、何度見ても丸も線もつかなかった。


満月の三日前、美緒はスーパーの魚売り場で鯖を見た。


いつもなら籠に入れる。


手を伸ばしかけて、やめた。


別に、満月だから鯖を食べなければいけないわけではない。


その日は豚肉を買った。


満月の前日、帰り灯を戸棚から出そうとして、やめた。


当日でいい。


そう思った。


満月の当日。


仕事から帰っても、美緒は二人分の夕飯を作らなかった。


一人分のうどんを茹でた。


卵を落として、ねぎを切った。


食卓の向かいには箸を置かなかった。


帰り灯も戸棚の中だった。


「これでいいじゃん」


誰に言うでもなく言った。


テレビをつける。


天気予報では、明日から雨になると言っている。


うどんを食べ終える。


二十時二分。


まだ何もしない。


二十時七分。


隣の家の玄関が開く音がした。


「おかえり」


という男の声が聞こえた。


美緒はテレビの音量を一つ上げた。


二十時十一分。


スマートフォンを伏せる。


戸棚を見る。


帰り灯は、いつもの場所にある。


佳代に呼ばないでと言われた。


約束はしていない。


だから、呼んでも約束を破ることにはならない。


そこまで考えてから、美緒は自分で少し嫌になった。


言葉の隙間を探しているみたいだった。


「知らない」


声に出した。


立ち上がる。


戸棚を開ける。


帰り灯を取り出す。


軽い。


ただのガラスのランプだから、当たり前だった。


玄関へ持っていく。


外に出ると、夜は思ったより明るかった。


満月が屋根の上にある。


隣家の灯りの向こうに、人影が二つ見えた。


美緒は自分の帰り灯を足元へ置いた。


火をつける。


小さな炎がガラスの内側で揺れた。


ここまで来ても、まだ名前を呼ばなければいい。


美緒はしばらく黙っていた。


佳代の最後の言葉を思い出す。


次の満月は、私を呼ばないで。


その前の言葉も思い出す。


私も会いたいから。


美緒は息を吸った。


「佳代」


一度、正式な名前で呼ぶ。


喉が乾く。


「お母さん」


少し間を置いた。


「帰っておいで」


何も起きない。


それ自体は、いつもと同じだった。


灯りが強くなるわけでも、風が止まるわけでもない。


美緒は一度まばたきをした。


玄関の外には、誰もいない。


もう一度まばたきをする。


誰もいない。


美緒の腹の奥が、急に冷えた。


来ない。


そう思った。


佳代には、帰らない自由がある。


それを知っていた。


知っていたはずなのに、実際にその可能性が目の前に来ると、全然別のものだった。


「……お母さん」


もう一度呼びそうになって、やめた。


招待はした。


あとは佳代が決めることだ。


十秒なのか、一分なのか分からなかった。


美緒にはもっと長く感じた。


隣の家から笑い声が聞こえる。


帰り灯の炎だけが揺れている。


美緒は唇を噛んだ。


来ないなら、それが佳代の答えなのかもしれない。


そう思った瞬間。


「……寒い」


声がした。


美緒は顔を上げた。


玄関の外に、佳代が立っていた。


少し眉を寄せている。


「何で外で待ってるの」


美緒は何も言えなかった。


腹が立つより先に、膝から力が抜けそうになった。


佳代は美緒の顔を見て、何か言いかけた。


でも先に、美緒が言った。


「……おかえり」


佳代は少しだけ目を細めた。


「ただいま」

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