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死者が帰る町で、母が「次の満月は、私を呼ばないで」と言った  作者: 綴木 灯


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1/5

母が帰る夜

鍋を火から下ろす前に、美緒は味噌をほんの少しだけ足した。


母は薄い味噌汁が嫌いだった。


死んでからも、その好みは変わらない。


「これで文句ないでしょ」


誰もいない台所で言ってから、美緒は自分で笑った。


窓の外はもう暗い。向かいの屋根の上に、丸い月が乗っている。


満月の夜だけは、夕飯を二人分作る。


美緒の母、佳代が死んでから一年半。最初の数か月は、二人分という量をうまく作れなかった。煮物が四人家族の頃の量になったり、逆に一人分しか炊かなかったりした。


今では慣れた。


慣れたということを佳代が知ったら、少し怒りそうだと思う。


食卓には、鯖の味噌煮と、小松菜のおひたしと、湯気の立つ味噌汁。箸は向かいにも置いた。


その横に、小さな紺色のノートがある。


表紙の端は丸く擦れていた。


開けば、今月母に話したかったことが、日付もなく並んでいる。


――店長がまた針山を探していた。自分の肘の下にあった。


――直樹、今月は来ない。


――駅前のパン屋、とうとう閉まった。


――研修の返事。


最後の一行にはまだ丸も線もついていない。


美緒はそこを指で隠すようにしてノートを閉じた。


玄関には、小さなガラスの灯りを置いてある。


この町では、それを帰り灯と呼ぶ。


古いものでも高価なものでもない。去年、美緒が一度落として割った時には、商店街の雑貨屋で新しいものを買った。


ただ満月の夜、それを玄関に置いて火をともす時だけ、普通のランプではなくなる。


スマートフォンを見る。


二十時六分。


直樹からは、夕方に短いメッセージが来ていた。


《悪い。今日やっぱり無理。母さんによろしく》


美緒は《自分で言えば》と返し、そのあとに猫が殴っているスタンプをつけた。


既読はついていない。


「よろしく、で済ませるんだから」


母に言えば、たぶん同じことを言う。


美緒は玄関を開けた。


夜気が思ったより冷たい。


隣の家の玄関にも灯りが見えた。少し離れたところでは、誰かが笑いながら名前を呼んでいる。


この町では、満月の夜だけ、死んだ人が家に帰る。


美緒は帰り灯に火をつけた。


小さな炎が、ガラスの内側で揺れる。


一年半、ほとんど毎月やっている。


それでも名前を呼ぶ前には、ほんの少しだけ喉が乾いた。


来なかったらどうしよう、と思う。


佳代には帰らない自由もある。


それを知っているからこそ、毎回少しだけ怖い。


「佳代」


美緒は言った。


それから、家の中でだけ使う呼び方に戻した。


「お母さん。帰っておいで」


灯りが強くなったわけではない。


風が止んだわけでもない。


何かが光ったり、鐘が鳴ったりもしない。


ただ一度まばたきをして、目を開ける。


すると玄関の外に、母が立っていた。


「遅い」


第一声がそれだった。


美緒は笑った。


「六分じゃん」


「六分あったら味噌汁冷めるでしょうが」


「はいはい。おかえり」


「ただいま」


佳代は靴を脱ぎながら、美緒の肩を軽く叩いた。


指の重さがちゃんとある。


夜気をまとった手が少し冷たい。


「ちょっと」


佳代が、美緒の袖をつまんだ。


「なに」


「ここ、ほつれてる」


「仕事終わりなんだから仕方ないでしょ」


「人の服直して、自分の袖ほつれさせて帰ってくる仕立て屋がある?」


「仕立て屋じゃない。まだ下っ端」


「下っ端ならなおさら直しなさい」


死んで一年半になる人に、帰宅して十秒で服装を叱られる。


美緒はこの十秒が好きだった。


「ご飯にしよ」


「直樹は?」


やっぱり来た。


「今月は無理だって」


「また?」


佳代は眉を寄せた。


「この前もいなかったじゃない」


「この前って」


「ほら、先週」


美緒は一瞬だけ黙った。


それから、なるべく何でもないように言った。


「先週じゃないよ。先月」


佳代も一瞬だけ黙った。


「ああ」


すぐに笑う。


「そうだった」


それ以上は何も言わない。


美緒も言わなかった。


佳代はもう鯖へ箸を伸ばしている。


「直樹、仕事?」


「たぶん」


「たぶんって何」


「聞いてない」


「聞きなさいよ、兄妹でしょう」


「お母さんが聞けばいいじゃん」


「来ない人にどうやって聞くの」


「電話」


「私、電話持ってないんだけど」


佳代が真顔で言うので、美緒は吹き出した。


死者にスマートフォンを契約できるのか、美緒は知らない。


たぶんできない。


できても、月に一晩しか使わない回線はもったいない。


「その顔、直樹にも見せたかった」


「来ない方が悪い」


そう言いながら、佳代は空いた椅子を一度だけ見た。


すぐに鯖へ箸を伸ばす。


「ん」


「何」


「味濃い」


「うそ」


「ちょっとだけ」


「先月薄いって言ったじゃん」


「だからって足しすぎる?」


「めんどくさ」


「誰が」


「死んでも味にうるさい人」


佳代が笑った。


美緒も笑った。


笑った拍子に、いつものように、死んでいるという事実が少しだけ遠くなった。


なくなるわけではない。


佳代は夜明けには消える。


そのことを二人とも知っている。


だからこそ、夜の途中ではあまり数えない。


食事が半分ほど進んだところで、美緒は紺色のノートを開いた。


「はい、今月の報告」


「学校の連絡帳みたい」


「聞きたいくせに」


「そりゃ聞きたいわよ」


美緒は最初の項目を読んだ。


「店長が針山探してた」


「また?」


「肘の下にあった」


「この前は?」


「頭の上」


「どういうこと?」


「知らない」


佳代は声を上げて笑った。


その笑い方は、生きていた頃と何も変わらない。


次に駅前のパン屋が閉まった話をした。


佳代は「あそこのクリームパン好きだったのに」と本気で残念がった。


「買っておけばよかったね」


美緒が言うと、佳代は少し考えてから、


「この前、買えた?」


と聞いた。


「閉まったの三日前」


「じゃあ無理か」


「お母さんにはね」


言ってから、美緒は少しだけ後悔した。


佳代は気にした様子を見せなかった。


「美緒は食べた?」


「閉店の日に一個」


「ずるい」


「生きてる人の特権」


「嫌な特権ね」


「おいしかった」


「もっと嫌」


佳代は箸の先で美緒の皿をつついた。


それくらいで済んだ。


美緒は少し安心して、次の行へ指を動かした。


そこに書かれた文字を見て、いったんノートを閉じる。


「何」


「別に」


「今、絶対何か飛ばした」


「飛ばしてない」


「美緒」


「その言い方やめて。二十歳なんだけど」


「二十歳でも美緒は美緒でしょう」


佳代は味噌汁を飲んだ。


逃げられそうにない。


美緒は箸を置いた。


「研修、行くことにした」


佳代の顔が明るくなった。


「ほんと?」


「うん」


「よかったじゃない。あんた行きたがってたでしょう」


「まあね」


「いつから?」


美緒は水を一口飲んだ。


「三か月くらい先」


佳代が瞬きをした。


「もっと早い枠もあるって言ってなかった?」


覚えていた。


美緒は少し驚いた。


前に話したのは、何度か前の満月だ。


「来月からの枠もあったけど、そっちはやめた」


「そうなの」


「うん。後ろでも内容はほとんど同じだって」


「じゃあ」


佳代は、ほとんど反射みたいに言った。


「次の満月は、まだいるのね」


その声に、美緒は笑った。


「いるよ」


佳代も笑った。


ほんの一瞬。


それから笑みが止まった。


箸を持った手も止まった。


「……お母さん?」


「うん」


「何」


「いや」


佳代は視線を鯖へ落とした。


「後ろの枠の方が都合よかったの?」


「どっちでもよかった」


美緒は言った。


本当だった。


工房の先輩にも、大きな差はないと言われた。


「だったら、次の満月までは家にいた方がいいかなって」


佳代は何も言わない。


美緒は少しだけ言葉を足した。


「次の満月、まだ一緒にご飯食べられるし」


「……そっか」


「何、その反応」


「ううん」


「行くの反対だった?」


「違う」


佳代はすぐに言った。


「行ってほしいよ。美緒が行きたかったんだから」


「じゃあ何」


佳代は答えなかった。


さっきまでよく動いていた箸が、皿の上で妙に静かだった。


美緒は少しむっとして、味噌汁を飲んだ。


やっぱり少し濃い。


母の言うことは腹が立つくらい当たっている。


「ねえ」


佳代が言った。


「何」


「私、今、ほっとした」


「何に?」


「美緒が次の満月もここにいるって聞いて」


美緒は眉を寄せた。


「会えるんだから、普通じゃない?」


「うん」


佳代は小さく頷いた。


「私も会いたいから」


「じゃあいいじゃん」


「……そうなんだけど」


佳代は困ったように笑った。


それ以上うまい言葉が出てこないらしい。


美緒は少し苛立って、ノートを指で叩いた。


「お母さん、直樹が来ないと怒るじゃん」


「怒ってない。寂しいの」


「同じようなもんでしょ」


「違います」


即答してから、佳代は少し黙った。


「……でも、来てほしいのは本当」


「私にも?」


「もちろん」


「じゃあ私が次の満月もいるの、よかったじゃん」


佳代は答えず、食卓の端の紺色のノートを見た。


「そのノートも、毎月増えてるわね」


「まあね」


「私に話すこと」


「うん」


「聞くの、私も楽しい」


佳代はすぐ言った。


だからこそ、次の言葉までに時間がかかった。


「美緒」


「何」


「次の満月は、私を呼ばないで」


美緒は、聞き間違えたと思った。


外ではまだ誰かが笑っている。


冷蔵庫が低く唸っている。


帰り灯は玄関で燃えている。


いつもの夜と何も変わっていないのに、その一言だけが、食卓の置き場所を間違えたみたいに馴染まなかった。


「……何で」


「一回だけ」


「何で」


佳代はすぐには答えなかった。


「さっきの、自分でちょっと嫌だったから」


「何が」


「ほっとしたのが」


「だから何で」


「分かんない」


「分かんないのに、呼ばないでって言うの?」


「うん」


「意味分かんない」


「私も、そんなに分かってない」


それは、美緒がいちばん聞きたくなかった答えだった。


母が理由を持っているなら、怒ればいい。


間違っている理由なら、言い返せばいい。


分からないまま頼まれると、どこへ怒ればいいのか分からない。


「嫌」


美緒は言った。


佳代は頷いた。


「うん」


「約束しないから」


「うん」


「次の満月、普通に呼ぶかもしれない」


「うん」


「じゃあ言わないでよ」


「それは無理」


「何で」


「言いたかったから」


あまりにも勝手で、美緒は腹が立った。


でも、その勝手さはよく知っているものだった。


佳代は生きていた頃から、自分で迷って、自分で口にして、相手まで迷わせるところがある。


「最低」


「知ってる」


「知らないでしょ」


「じゃあ今日知った」


美緒は笑わなかった。


佳代も笑わなかった。


それでも、食卓を片付ける頃には、二人で同じ皿を運んだ。


佳代は洗い物をしようとして、美緒に止められた。


「帰ってきた人に洗わせない」


「毎月何もしないのも居心地悪いのよ」


「じゃあ拭いて」


布巾を渡す。


佳代は素直に受け取った。


こんな夜の終わりに、さっきの話だけが嘘みたいだった。


けれど消えてはいない。


時計の針が進むたび、夜明けが近づく。


空が少し薄くなる前、美緒と佳代は玄関に立った。


帰り灯の炎は、最初より小さくなっていた。


「美緒」


「何」


「味噌汁、次はもう少し薄く」


「次って言うじゃん」


佳代が黙った。


美緒は勝ったと思った。


ほんの少しだけ。


「そうね」


佳代は笑った。


「言っちゃった」


「じゃあ次の満月ね」


美緒が言う。


佳代は返事をしなかった。


ただ美緒の髪を一度撫でた。


子供の頃より、母の手は低い位置にある気がした。


美緒が大きくなっただけだ。


次に瞬きをした時、そこにはもう誰もいなかった。


帰り灯だけが、玄関の床を淡く照らしていた。


美緒はしばらくその場に立っていた。


それから食卓へ戻り、紺色のノートを開いた。


最後の行。


――研修の返事。


その下に、空いている一行がある。


美緒はペンを持った。


少し考えて、書いた。


――次の満月。お母さんを呼ぶか。


丸も、線もつけなかった。

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