母が帰る夜
鍋を火から下ろす前に、美緒は味噌をほんの少しだけ足した。
母は薄い味噌汁が嫌いだった。
死んでからも、その好みは変わらない。
「これで文句ないでしょ」
誰もいない台所で言ってから、美緒は自分で笑った。
窓の外はもう暗い。向かいの屋根の上に、丸い月が乗っている。
満月の夜だけは、夕飯を二人分作る。
美緒の母、佳代が死んでから一年半。最初の数か月は、二人分という量をうまく作れなかった。煮物が四人家族の頃の量になったり、逆に一人分しか炊かなかったりした。
今では慣れた。
慣れたということを佳代が知ったら、少し怒りそうだと思う。
食卓には、鯖の味噌煮と、小松菜のおひたしと、湯気の立つ味噌汁。箸は向かいにも置いた。
その横に、小さな紺色のノートがある。
表紙の端は丸く擦れていた。
開けば、今月母に話したかったことが、日付もなく並んでいる。
――店長がまた針山を探していた。自分の肘の下にあった。
――直樹、今月は来ない。
――駅前のパン屋、とうとう閉まった。
――研修の返事。
最後の一行にはまだ丸も線もついていない。
美緒はそこを指で隠すようにしてノートを閉じた。
玄関には、小さなガラスの灯りを置いてある。
この町では、それを帰り灯と呼ぶ。
古いものでも高価なものでもない。去年、美緒が一度落として割った時には、商店街の雑貨屋で新しいものを買った。
ただ満月の夜、それを玄関に置いて火をともす時だけ、普通のランプではなくなる。
スマートフォンを見る。
二十時六分。
直樹からは、夕方に短いメッセージが来ていた。
《悪い。今日やっぱり無理。母さんによろしく》
美緒は《自分で言えば》と返し、そのあとに猫が殴っているスタンプをつけた。
既読はついていない。
「よろしく、で済ませるんだから」
母に言えば、たぶん同じことを言う。
美緒は玄関を開けた。
夜気が思ったより冷たい。
隣の家の玄関にも灯りが見えた。少し離れたところでは、誰かが笑いながら名前を呼んでいる。
この町では、満月の夜だけ、死んだ人が家に帰る。
美緒は帰り灯に火をつけた。
小さな炎が、ガラスの内側で揺れる。
一年半、ほとんど毎月やっている。
それでも名前を呼ぶ前には、ほんの少しだけ喉が乾いた。
来なかったらどうしよう、と思う。
佳代には帰らない自由もある。
それを知っているからこそ、毎回少しだけ怖い。
「佳代」
美緒は言った。
それから、家の中でだけ使う呼び方に戻した。
「お母さん。帰っておいで」
灯りが強くなったわけではない。
風が止んだわけでもない。
何かが光ったり、鐘が鳴ったりもしない。
ただ一度まばたきをして、目を開ける。
すると玄関の外に、母が立っていた。
「遅い」
第一声がそれだった。
美緒は笑った。
「六分じゃん」
「六分あったら味噌汁冷めるでしょうが」
「はいはい。おかえり」
「ただいま」
佳代は靴を脱ぎながら、美緒の肩を軽く叩いた。
指の重さがちゃんとある。
夜気をまとった手が少し冷たい。
「ちょっと」
佳代が、美緒の袖をつまんだ。
「なに」
「ここ、ほつれてる」
「仕事終わりなんだから仕方ないでしょ」
「人の服直して、自分の袖ほつれさせて帰ってくる仕立て屋がある?」
「仕立て屋じゃない。まだ下っ端」
「下っ端ならなおさら直しなさい」
死んで一年半になる人に、帰宅して十秒で服装を叱られる。
美緒はこの十秒が好きだった。
「ご飯にしよ」
「直樹は?」
やっぱり来た。
「今月は無理だって」
「また?」
佳代は眉を寄せた。
「この前もいなかったじゃない」
「この前って」
「ほら、先週」
美緒は一瞬だけ黙った。
それから、なるべく何でもないように言った。
「先週じゃないよ。先月」
佳代も一瞬だけ黙った。
「ああ」
すぐに笑う。
「そうだった」
それ以上は何も言わない。
美緒も言わなかった。
佳代はもう鯖へ箸を伸ばしている。
「直樹、仕事?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「聞いてない」
「聞きなさいよ、兄妹でしょう」
「お母さんが聞けばいいじゃん」
「来ない人にどうやって聞くの」
「電話」
「私、電話持ってないんだけど」
佳代が真顔で言うので、美緒は吹き出した。
死者にスマートフォンを契約できるのか、美緒は知らない。
たぶんできない。
できても、月に一晩しか使わない回線はもったいない。
「その顔、直樹にも見せたかった」
「来ない方が悪い」
そう言いながら、佳代は空いた椅子を一度だけ見た。
すぐに鯖へ箸を伸ばす。
「ん」
「何」
「味濃い」
「うそ」
「ちょっとだけ」
「先月薄いって言ったじゃん」
「だからって足しすぎる?」
「めんどくさ」
「誰が」
「死んでも味にうるさい人」
佳代が笑った。
美緒も笑った。
笑った拍子に、いつものように、死んでいるという事実が少しだけ遠くなった。
なくなるわけではない。
佳代は夜明けには消える。
そのことを二人とも知っている。
だからこそ、夜の途中ではあまり数えない。
食事が半分ほど進んだところで、美緒は紺色のノートを開いた。
「はい、今月の報告」
「学校の連絡帳みたい」
「聞きたいくせに」
「そりゃ聞きたいわよ」
美緒は最初の項目を読んだ。
「店長が針山探してた」
「また?」
「肘の下にあった」
「この前は?」
「頭の上」
「どういうこと?」
「知らない」
佳代は声を上げて笑った。
その笑い方は、生きていた頃と何も変わらない。
次に駅前のパン屋が閉まった話をした。
佳代は「あそこのクリームパン好きだったのに」と本気で残念がった。
「買っておけばよかったね」
美緒が言うと、佳代は少し考えてから、
「この前、買えた?」
と聞いた。
「閉まったの三日前」
「じゃあ無理か」
「お母さんにはね」
言ってから、美緒は少しだけ後悔した。
佳代は気にした様子を見せなかった。
「美緒は食べた?」
「閉店の日に一個」
「ずるい」
「生きてる人の特権」
「嫌な特権ね」
「おいしかった」
「もっと嫌」
佳代は箸の先で美緒の皿をつついた。
それくらいで済んだ。
美緒は少し安心して、次の行へ指を動かした。
そこに書かれた文字を見て、いったんノートを閉じる。
「何」
「別に」
「今、絶対何か飛ばした」
「飛ばしてない」
「美緒」
「その言い方やめて。二十歳なんだけど」
「二十歳でも美緒は美緒でしょう」
佳代は味噌汁を飲んだ。
逃げられそうにない。
美緒は箸を置いた。
「研修、行くことにした」
佳代の顔が明るくなった。
「ほんと?」
「うん」
「よかったじゃない。あんた行きたがってたでしょう」
「まあね」
「いつから?」
美緒は水を一口飲んだ。
「三か月くらい先」
佳代が瞬きをした。
「もっと早い枠もあるって言ってなかった?」
覚えていた。
美緒は少し驚いた。
前に話したのは、何度か前の満月だ。
「来月からの枠もあったけど、そっちはやめた」
「そうなの」
「うん。後ろでも内容はほとんど同じだって」
「じゃあ」
佳代は、ほとんど反射みたいに言った。
「次の満月は、まだいるのね」
その声に、美緒は笑った。
「いるよ」
佳代も笑った。
ほんの一瞬。
それから笑みが止まった。
箸を持った手も止まった。
「……お母さん?」
「うん」
「何」
「いや」
佳代は視線を鯖へ落とした。
「後ろの枠の方が都合よかったの?」
「どっちでもよかった」
美緒は言った。
本当だった。
工房の先輩にも、大きな差はないと言われた。
「だったら、次の満月までは家にいた方がいいかなって」
佳代は何も言わない。
美緒は少しだけ言葉を足した。
「次の満月、まだ一緒にご飯食べられるし」
「……そっか」
「何、その反応」
「ううん」
「行くの反対だった?」
「違う」
佳代はすぐに言った。
「行ってほしいよ。美緒が行きたかったんだから」
「じゃあ何」
佳代は答えなかった。
さっきまでよく動いていた箸が、皿の上で妙に静かだった。
美緒は少しむっとして、味噌汁を飲んだ。
やっぱり少し濃い。
母の言うことは腹が立つくらい当たっている。
「ねえ」
佳代が言った。
「何」
「私、今、ほっとした」
「何に?」
「美緒が次の満月もここにいるって聞いて」
美緒は眉を寄せた。
「会えるんだから、普通じゃない?」
「うん」
佳代は小さく頷いた。
「私も会いたいから」
「じゃあいいじゃん」
「……そうなんだけど」
佳代は困ったように笑った。
それ以上うまい言葉が出てこないらしい。
美緒は少し苛立って、ノートを指で叩いた。
「お母さん、直樹が来ないと怒るじゃん」
「怒ってない。寂しいの」
「同じようなもんでしょ」
「違います」
即答してから、佳代は少し黙った。
「……でも、来てほしいのは本当」
「私にも?」
「もちろん」
「じゃあ私が次の満月もいるの、よかったじゃん」
佳代は答えず、食卓の端の紺色のノートを見た。
「そのノートも、毎月増えてるわね」
「まあね」
「私に話すこと」
「うん」
「聞くの、私も楽しい」
佳代はすぐ言った。
だからこそ、次の言葉までに時間がかかった。
「美緒」
「何」
「次の満月は、私を呼ばないで」
美緒は、聞き間違えたと思った。
外ではまだ誰かが笑っている。
冷蔵庫が低く唸っている。
帰り灯は玄関で燃えている。
いつもの夜と何も変わっていないのに、その一言だけが、食卓の置き場所を間違えたみたいに馴染まなかった。
「……何で」
「一回だけ」
「何で」
佳代はすぐには答えなかった。
「さっきの、自分でちょっと嫌だったから」
「何が」
「ほっとしたのが」
「だから何で」
「分かんない」
「分かんないのに、呼ばないでって言うの?」
「うん」
「意味分かんない」
「私も、そんなに分かってない」
それは、美緒がいちばん聞きたくなかった答えだった。
母が理由を持っているなら、怒ればいい。
間違っている理由なら、言い返せばいい。
分からないまま頼まれると、どこへ怒ればいいのか分からない。
「嫌」
美緒は言った。
佳代は頷いた。
「うん」
「約束しないから」
「うん」
「次の満月、普通に呼ぶかもしれない」
「うん」
「じゃあ言わないでよ」
「それは無理」
「何で」
「言いたかったから」
あまりにも勝手で、美緒は腹が立った。
でも、その勝手さはよく知っているものだった。
佳代は生きていた頃から、自分で迷って、自分で口にして、相手まで迷わせるところがある。
「最低」
「知ってる」
「知らないでしょ」
「じゃあ今日知った」
美緒は笑わなかった。
佳代も笑わなかった。
それでも、食卓を片付ける頃には、二人で同じ皿を運んだ。
佳代は洗い物をしようとして、美緒に止められた。
「帰ってきた人に洗わせない」
「毎月何もしないのも居心地悪いのよ」
「じゃあ拭いて」
布巾を渡す。
佳代は素直に受け取った。
こんな夜の終わりに、さっきの話だけが嘘みたいだった。
けれど消えてはいない。
時計の針が進むたび、夜明けが近づく。
空が少し薄くなる前、美緒と佳代は玄関に立った。
帰り灯の炎は、最初より小さくなっていた。
「美緒」
「何」
「味噌汁、次はもう少し薄く」
「次って言うじゃん」
佳代が黙った。
美緒は勝ったと思った。
ほんの少しだけ。
「そうね」
佳代は笑った。
「言っちゃった」
「じゃあ次の満月ね」
美緒が言う。
佳代は返事をしなかった。
ただ美緒の髪を一度撫でた。
子供の頃より、母の手は低い位置にある気がした。
美緒が大きくなっただけだ。
次に瞬きをした時、そこにはもう誰もいなかった。
帰り灯だけが、玄関の床を淡く照らしていた。
美緒はしばらくその場に立っていた。
それから食卓へ戻り、紺色のノートを開いた。
最後の行。
――研修の返事。
その下に、空いている一行がある。
美緒はペンを持った。
少し考えて、書いた。
――次の満月。お母さんを呼ぶか。
丸も、線もつけなかった。




