↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者が帰る町で、母が「次の満月は、私を呼ばないで」と言った  作者: 綴木 灯


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/5

また帰る夜

母を呼ばなかった満月のあと、美緒は二度、町の外で月が丸くなるのを見た。


一度目は、研修先の寮の窓からだった。


食堂で夕飯を食べたあと、歯を磨こうとして廊下へ出た時、窓の向こうに大きな月が見えた。


町にいた頃なら、その時間にはもう帰り灯を出していた。


美緒はしばらく窓の前に立っていた。


それから歯を磨いた。


二度目は、研修先から寮へ戻る途中だった。


次の日に提出する課題のことで頭がいっぱいで、駅を出てからようやく月に気づいた。


「あ」


それだけ言って、歩き続けた。


研修のあいだには、市民劇場の衣装修繕も見学した。


古い舞台衣装の裾を一度縫い間違えて、全部ほどいてやり直した。


指には細い傷が増えた。


寮の朝食の卵は毎回固かった。


同じ部屋の子は、寝言で仕事の返事をした。


研修は終わった。


研修が終わって少しして、美緒は町へ帰った。


大きな鞄を玄関へ置き、洗濯物を回し、冷蔵庫の中身を確認した。


しばらく空けた家は、自分の家なのに少しだけ他人の匂いがした。


それも二日で戻った。


満月の日、美緒は仕事帰りに鯖を買った。


今度は棚へ戻さなかった。


◇


味噌汁の味を見て、美緒は少しだけ味噌を足した。


足してから、やめた。


ほんの少し湯を入れる。


「分かんなくなってきた」


一人で言って笑った。


食卓には二人分の箸を置いた。


鯖の味噌煮。


小松菜のおひたし。


味噌汁。


玄関の戸棚を開ける。


帰り灯はいつもの場所にある。


前にしまった時と同じ、小さなガラスのランプ。


美緒は持ち上げた。


「今日は、呼ぶ」


今度は言葉が途中で止まらなかった。


外へ出る。


近所の家にも灯りが見える。


美緒は帰り灯に火をつけた。


小さな炎がガラスの中で揺れる。


「佳代」


一度、名前を呼ぶ。


それから言った。


「お母さん。帰っておいで」


何も光らない。


風も止まらない。


美緒は一度まばたきをした。


誰もいない。


もう一度。


まだいない。


少しだけ胸が速くなる。


三回、佳代は帰っていない。


今夜も帰らないと決めてもおかしくない。


そう思った時、


「寒い」


声がした。


美緒は顔を上げた。


佳代が立っていた。


「……おかえり」


「ただいま」


佳代は靴を脱ぎながら、美緒の顔を見た。


それから、眉を寄せた。


「髪切った?」


美緒は笑った。


「そこ?」


「何よ」


「もっとあるでしょ」


「何が」


佳代は本当に分かっていない顔をしていた。


美緒はその顔を見て、少しだけ笑えなくなった。


◇


佳代は台所へ向かう途中で、玄関の大きな鞄に気づいた。


「それ何」


「荷物」


「見れば分かる」


「昨日帰ってきたから、まだ片付いてない」


「どこから?」


美緒は一瞬、答え方に迷った。


「研修」


佳代が止まった。


「研修?」


「うん」


「もう行ったの?」


「行ったよ」


「いつから?」


「もう終わった」


佳代が、美緒の顔を見た。


「……何が?」


「研修」


「終わった?」


「うん」


「だって」


佳代は少し言葉を探した。


「この前、まだ行く前だったでしょう」


「お母さんにとってはね」


美緒が言うと、佳代は黙った。


「こっちは四か月くらい経ってる」


「四か月?」


「うん」


佳代の目が、もう一度玄関の鞄へ向いた。


それから美緒へ戻る。


「満月は?」


美緒は少しだけ息を止めた。


「三回来た」


「三回?」


「前に呼ばなかった夜で一回。そのあと研修先で二回」


佳代は何も言わなかった。


「お母さんは、一回も帰ってない」


美緒が付け足した。


「……そう」


佳代の声が低くなった。


美緒は先に台所へ行った。


「ご飯できてるよ」


「うん」


佳代はすぐには動かなかった。


◇


味噌汁を一口飲んで、佳代が言った。


「薄い」


美緒は箸を止めた。


「は?」


「ちょっと薄い」


「前、濃いって言ったじゃん」


「だからって薄くしすぎる?」


「めんどくさ」


「誰が」


「死んでも味にうるさい人」


佳代が笑った。


美緒も笑った。


美緒は味噌汁を飲んだ。


確かに少し薄い。


「直樹は?」


佳代が聞いた。


「今日は来ない」


「そう」


鯖を食べる。


佳代がまた口を開いた。


「三回って」


「まだ言う?」


「言うわよ」


「お母さんが一回空けてみたいって言ったんじゃん」


「一回でしょう」


「一回は家にいた。あとの二回は町にいなかったんだから仕方ないじゃん」


「分かってるけど」


佳代は箸を置いた。


「私、今知ったのよ」


美緒は黙った。


「最初の一回は、家にいたんでしょう」


「うん」


「呼べばよかったのに」


「お母さんが言う?」


「言う」


美緒は少し笑った。


佳代は笑わなかった。


「寂しかった?」


「寂しかったよ」


「……そう」


「最初の夜は特に」


佳代は箸の先を見た。


「私も寂しかったって言えたらいいのに」


美緒は母を見た。


「でも、私は今知ったから」


美緒は何も言わなかった。


佳代が小さく息を吐いた。


「ずるい」


「何が」


「分かんない」


今度は美緒が笑った。


「それ便利ね」


「誰に教わったと思ってるの」


佳代も少し笑った。


◇


食事の途中で、佳代が美緒の右手を取った。


「何これ」


人差し指の横に、細い傷が残っている。


「仕事」


「前はなかった」


「そりゃ、その間にできた傷だから」


「それ言うの禁止」


「何で」


「腹立つから」


美緒は笑った。


「舞台衣装の見学行った時にやった」


「舞台衣装?」


「前、行くか迷ってたやつ」


「そんな話した?」


「してない」


「あっそ」


声が少しだけ冷たくなった。


美緒は気づいたが、知らないふりをした。


「古いドレスの裾、直させてもらったんだけど」


「見学なのに?」


「簡単なのは触っていいって。で、私、一回縫う場所間違えて」


「何してるの」


「佐伯さんにも同じ顔された」


「佐伯さんって誰」


「向こうの人」


「見学の日にいた人?」


「うん。研修先にも何回か来てた」


「どんな人」


「厳しい」


「それだけ?」


「質問多い」


「知らない名前が急に出てきたんだから聞くでしょう」


「これからいっぱい出るよ」


美緒は言った。


佳代が止まった。


ほんの少しだけだった。


「……そう」


美緒は続けた。


「佐伯さん、そこ縫ったら舞台で裂けるって全部ほどかせてきてさ」


「正しいじゃない」


「お母さん絶対そっち側だと思った」


「当たり前でしょう」


「二時間かかったんだけど」


「二時間で済んでよかったじゃない」


「ほら」


「何が」


美緒は笑った。


佳代も笑った。


それから美緒は、寮の朝食の卵が毎回固すぎた話をした。


同じ部屋の子が寝言で仕事の返事をしていた話をした。


研修先のミシンが一台だけ妙に癖が強かった話をした。


佳代は、一つずつ質問した。


誰。


どこ。


何で。


それからどうしたの。


美緒は答えた。


話す順番はばらばらだった。


紺色のノートは、食卓の端に置いたままだった。


佳代が一度、そちらを見た。


「今月の報告は?」


「その間の分、全部は無理」


「全部聞くけど」


「今日はこっちから話す」


「何それ」


「いっぱいあるの」


佳代は少し不満そうな顔をして、でも笑った。


「じゃあ次」


美緒は少し考えた。


「寮のカレーが甘すぎた」


「それ前も言わなかった?」


「言ってない。お母さんその時いなかったから」


「……それ禁止って言ったでしょう」


「言ってないよ」


「今言った」


また笑った。


◇


美緒が食器を洗い、佳代が隣で皿を拭いた。


「布巾、ちゃんと畳んでよ」


美緒が言うと、佳代が振り返った。


「前、畳むと腹立つって言わなかった?」


「今は畳んで」


「勝手ね」


「お母さんに言われたくない」


佳代は布巾を四角く畳んだ。


きれいすぎる。


「髪、いつ切ったの」


「研修中」


「誰と行った?」


「一人」


「写真ないの?」


「何の」


「切る前」


「あるけど」


「見せて」


美緒はスマートフォンを出した。


写真を探す。


研修先で撮った写真が大量に並んでいる。


佳代が横から覗き込んだ。


「あ、これ佐伯さん?」


「そう」


「もっと年上かと思った」


「失礼」


「この子は?」


「同じ寮の子」


「名前は?」


「質問多い」


「知らないことが増えてるんだから仕方ないでしょう」


美緒は笑った。


◇


夜明け前、美緒と佳代は玄関に立った。


帰り灯の炎は小さくなっている。


佳代が美緒の髪を触った。


「短いのも悪くない」


「今さら」


「最初に気づいたでしょう」


「そこしか気づかなかったじゃん」


「知らないことがいきなり増えたら、順番あるのよ」


「何それ」


二人で少し笑った。


外が薄く明るくなっている。


佳代が口を開いた。


「美緒」


「何」


少し間があった。


「……またね」


美緒は佳代を見た。


佳代は次の言葉を探しているように見えた。


美緒も待った。


でも、佳代は何も足さなかった。


「うん」


美緒は言った。


「またね」


佳代が笑った。


次に瞬きをした時、玄関には美緒一人だけが立っていた。


帰り灯の火が消えている。


美緒はそれを持ち上げた。


戸棚を開ける。


いつもの場所へ戻す。


ガラスは、まだ少し温かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。