また帰る夜
母を呼ばなかった満月のあと、美緒は二度、町の外で月が丸くなるのを見た。
一度目は、研修先の寮の窓からだった。
食堂で夕飯を食べたあと、歯を磨こうとして廊下へ出た時、窓の向こうに大きな月が見えた。
町にいた頃なら、その時間にはもう帰り灯を出していた。
美緒はしばらく窓の前に立っていた。
それから歯を磨いた。
二度目は、研修先から寮へ戻る途中だった。
次の日に提出する課題のことで頭がいっぱいで、駅を出てからようやく月に気づいた。
「あ」
それだけ言って、歩き続けた。
研修のあいだには、市民劇場の衣装修繕も見学した。
古い舞台衣装の裾を一度縫い間違えて、全部ほどいてやり直した。
指には細い傷が増えた。
寮の朝食の卵は毎回固かった。
同じ部屋の子は、寝言で仕事の返事をした。
研修は終わった。
研修が終わって少しして、美緒は町へ帰った。
大きな鞄を玄関へ置き、洗濯物を回し、冷蔵庫の中身を確認した。
しばらく空けた家は、自分の家なのに少しだけ他人の匂いがした。
それも二日で戻った。
満月の日、美緒は仕事帰りに鯖を買った。
今度は棚へ戻さなかった。
◇
味噌汁の味を見て、美緒は少しだけ味噌を足した。
足してから、やめた。
ほんの少し湯を入れる。
「分かんなくなってきた」
一人で言って笑った。
食卓には二人分の箸を置いた。
鯖の味噌煮。
小松菜のおひたし。
味噌汁。
玄関の戸棚を開ける。
帰り灯はいつもの場所にある。
前にしまった時と同じ、小さなガラスのランプ。
美緒は持ち上げた。
「今日は、呼ぶ」
今度は言葉が途中で止まらなかった。
外へ出る。
近所の家にも灯りが見える。
美緒は帰り灯に火をつけた。
小さな炎がガラスの中で揺れる。
「佳代」
一度、名前を呼ぶ。
それから言った。
「お母さん。帰っておいで」
何も光らない。
風も止まらない。
美緒は一度まばたきをした。
誰もいない。
もう一度。
まだいない。
少しだけ胸が速くなる。
三回、佳代は帰っていない。
今夜も帰らないと決めてもおかしくない。
そう思った時、
「寒い」
声がした。
美緒は顔を上げた。
佳代が立っていた。
「……おかえり」
「ただいま」
佳代は靴を脱ぎながら、美緒の顔を見た。
それから、眉を寄せた。
「髪切った?」
美緒は笑った。
「そこ?」
「何よ」
「もっとあるでしょ」
「何が」
佳代は本当に分かっていない顔をしていた。
美緒はその顔を見て、少しだけ笑えなくなった。
◇
佳代は台所へ向かう途中で、玄関の大きな鞄に気づいた。
「それ何」
「荷物」
「見れば分かる」
「昨日帰ってきたから、まだ片付いてない」
「どこから?」
美緒は一瞬、答え方に迷った。
「研修」
佳代が止まった。
「研修?」
「うん」
「もう行ったの?」
「行ったよ」
「いつから?」
「もう終わった」
佳代が、美緒の顔を見た。
「……何が?」
「研修」
「終わった?」
「うん」
「だって」
佳代は少し言葉を探した。
「この前、まだ行く前だったでしょう」
「お母さんにとってはね」
美緒が言うと、佳代は黙った。
「こっちは四か月くらい経ってる」
「四か月?」
「うん」
佳代の目が、もう一度玄関の鞄へ向いた。
それから美緒へ戻る。
「満月は?」
美緒は少しだけ息を止めた。
「三回来た」
「三回?」
「前に呼ばなかった夜で一回。そのあと研修先で二回」
佳代は何も言わなかった。
「お母さんは、一回も帰ってない」
美緒が付け足した。
「……そう」
佳代の声が低くなった。
美緒は先に台所へ行った。
「ご飯できてるよ」
「うん」
佳代はすぐには動かなかった。
◇
味噌汁を一口飲んで、佳代が言った。
「薄い」
美緒は箸を止めた。
「は?」
「ちょっと薄い」
「前、濃いって言ったじゃん」
「だからって薄くしすぎる?」
「めんどくさ」
「誰が」
「死んでも味にうるさい人」
佳代が笑った。
美緒も笑った。
美緒は味噌汁を飲んだ。
確かに少し薄い。
「直樹は?」
佳代が聞いた。
「今日は来ない」
「そう」
鯖を食べる。
佳代がまた口を開いた。
「三回って」
「まだ言う?」
「言うわよ」
「お母さんが一回空けてみたいって言ったんじゃん」
「一回でしょう」
「一回は家にいた。あとの二回は町にいなかったんだから仕方ないじゃん」
「分かってるけど」
佳代は箸を置いた。
「私、今知ったのよ」
美緒は黙った。
「最初の一回は、家にいたんでしょう」
「うん」
「呼べばよかったのに」
「お母さんが言う?」
「言う」
美緒は少し笑った。
佳代は笑わなかった。
「寂しかった?」
「寂しかったよ」
「……そう」
「最初の夜は特に」
佳代は箸の先を見た。
「私も寂しかったって言えたらいいのに」
美緒は母を見た。
「でも、私は今知ったから」
美緒は何も言わなかった。
佳代が小さく息を吐いた。
「ずるい」
「何が」
「分かんない」
今度は美緒が笑った。
「それ便利ね」
「誰に教わったと思ってるの」
佳代も少し笑った。
◇
食事の途中で、佳代が美緒の右手を取った。
「何これ」
人差し指の横に、細い傷が残っている。
「仕事」
「前はなかった」
「そりゃ、その間にできた傷だから」
「それ言うの禁止」
「何で」
「腹立つから」
美緒は笑った。
「舞台衣装の見学行った時にやった」
「舞台衣装?」
「前、行くか迷ってたやつ」
「そんな話した?」
「してない」
「あっそ」
声が少しだけ冷たくなった。
美緒は気づいたが、知らないふりをした。
「古いドレスの裾、直させてもらったんだけど」
「見学なのに?」
「簡単なのは触っていいって。で、私、一回縫う場所間違えて」
「何してるの」
「佐伯さんにも同じ顔された」
「佐伯さんって誰」
「向こうの人」
「見学の日にいた人?」
「うん。研修先にも何回か来てた」
「どんな人」
「厳しい」
「それだけ?」
「質問多い」
「知らない名前が急に出てきたんだから聞くでしょう」
「これからいっぱい出るよ」
美緒は言った。
佳代が止まった。
ほんの少しだけだった。
「……そう」
美緒は続けた。
「佐伯さん、そこ縫ったら舞台で裂けるって全部ほどかせてきてさ」
「正しいじゃない」
「お母さん絶対そっち側だと思った」
「当たり前でしょう」
「二時間かかったんだけど」
「二時間で済んでよかったじゃない」
「ほら」
「何が」
美緒は笑った。
佳代も笑った。
それから美緒は、寮の朝食の卵が毎回固すぎた話をした。
同じ部屋の子が寝言で仕事の返事をしていた話をした。
研修先のミシンが一台だけ妙に癖が強かった話をした。
佳代は、一つずつ質問した。
誰。
どこ。
何で。
それからどうしたの。
美緒は答えた。
話す順番はばらばらだった。
紺色のノートは、食卓の端に置いたままだった。
佳代が一度、そちらを見た。
「今月の報告は?」
「その間の分、全部は無理」
「全部聞くけど」
「今日はこっちから話す」
「何それ」
「いっぱいあるの」
佳代は少し不満そうな顔をして、でも笑った。
「じゃあ次」
美緒は少し考えた。
「寮のカレーが甘すぎた」
「それ前も言わなかった?」
「言ってない。お母さんその時いなかったから」
「……それ禁止って言ったでしょう」
「言ってないよ」
「今言った」
また笑った。
◇
美緒が食器を洗い、佳代が隣で皿を拭いた。
「布巾、ちゃんと畳んでよ」
美緒が言うと、佳代が振り返った。
「前、畳むと腹立つって言わなかった?」
「今は畳んで」
「勝手ね」
「お母さんに言われたくない」
佳代は布巾を四角く畳んだ。
きれいすぎる。
「髪、いつ切ったの」
「研修中」
「誰と行った?」
「一人」
「写真ないの?」
「何の」
「切る前」
「あるけど」
「見せて」
美緒はスマートフォンを出した。
写真を探す。
研修先で撮った写真が大量に並んでいる。
佳代が横から覗き込んだ。
「あ、これ佐伯さん?」
「そう」
「もっと年上かと思った」
「失礼」
「この子は?」
「同じ寮の子」
「名前は?」
「質問多い」
「知らないことが増えてるんだから仕方ないでしょう」
美緒は笑った。
◇
夜明け前、美緒と佳代は玄関に立った。
帰り灯の炎は小さくなっている。
佳代が美緒の髪を触った。
「短いのも悪くない」
「今さら」
「最初に気づいたでしょう」
「そこしか気づかなかったじゃん」
「知らないことがいきなり増えたら、順番あるのよ」
「何それ」
二人で少し笑った。
外が薄く明るくなっている。
佳代が口を開いた。
「美緒」
「何」
少し間があった。
「……またね」
美緒は佳代を見た。
佳代は次の言葉を探しているように見えた。
美緒も待った。
でも、佳代は何も足さなかった。
「うん」
美緒は言った。
「またね」
佳代が笑った。
次に瞬きをした時、玄関には美緒一人だけが立っていた。
帰り灯の火が消えている。
美緒はそれを持ち上げた。
戸棚を開ける。
いつもの場所へ戻す。
ガラスは、まだ少し温かかった。




