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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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第28話 新しい看板の文

 夏至祭から四日後、旧市街にはまた朝の音が戻っていた。


 戻った、といっても、何事もなかった顔ではない。板を外した跡が残る壁もあるし、調査の封が貼られた役所箱が通りを横切ることもある。だが、止まりかけていた暮らしが、もう一度ちゃんと前へ動き始めていた。


 エドリラの食堂では、鍋が以前より早い刻から火にかかるようになった。あの日の舞台以来、客が妙に気を遣って食べに来る。老主人は「応援で食うな、腹が減ったら来い」と文句を言うのに、追加の豆煮を出す手は止まらない。老婦人は入口の横へ、ヤスミンが書いた新しい小札を掛けた。


 ――今日も湯気で居場所が分かります。


 茶屋ではカミが、舞台で泣いた人間の噂を楽しそうに集めていた。


 「役所の若いのまで泣いてたよ」


 「見たの?」


 「見た。泣いたあとで格好つけてたから、二回おいしかった」


 そんな調子で茶を注ぎ、来る客来る客へ余計な話を足していく。けれど噂の芯だけは外さない。どの文書が保全され、どの押印経路が調べ直され、どこで補修工事がやり直しになったか。町の人間が知るべきことを、茶碗の湯気に紛れこませてちゃんと回していた。


 工房にも依頼が戻ってきた。


 迷子札三件。店先札四件。芝居小屋の口上札が一件。市場の値札板がまとめて二十枚。長机の上はまた紙と板で埋まり、パゾスは「ようやく本業だ」と騒ぎ、ヴィウンタは「本業中に騒がないでください」といつもどおり切って捨てる。バレールは新しい木枠を組みながら「次は釘穴まで見せる札にしろ」とぶつぶつ言い、エドリラは差し入れの鍋を置いて「文句があるなら食べながら言いな」と帰っていく。


 忙しさと笑いが、同じ机へ戻ってきた。


 役所側も、静かに済ませる気はなくなっていた。


 ヨハネットは法務係の部屋へ紙束を山のように積み、連日、人を座らせては記録の照合をしているらしい。ミスラフは文書庫へ戻ったが、今までより鍵の扱いが厳しくなったとぼやいていた。それでも声色は前より軽い。必要な紙が、今度はちゃんと必要な場所へ出ていくからだろう。


 ベクシは処分待ちの身になった。


 ただし、黙って切られる側のままではなかった。回付経路と差し込み指示について、記録と食い違わない範囲で証言を続けていると聞く。カミは「やっと人の顔で話すようになった」と評し、パゾスは「だいぶ遅いが、遅すぎるよりはましだ」と珍しく厳しめだった。


 ロフタンの名は、もう町の噂だけではなくなっている。広場の騒ぎをきっかけに、上層の調査官まで来た。結論が出るにはまだ時間がかかるだろう。だが少なくとも、“祭りの熱で既定方針にしてしまう”筋は潰えた。


 その日の午後、ことば屋つばめの奥庭では、新しい板が二枚、作業台へ並べられていた。


 白く下塗りされた、まだ何も書かれていない板。


 一本は工房用。


 もう一本は、旧市街西区の再整備掲示板の試作だった。


 ヤスミンは筆をくわえたまま首を傾げる。


 「工房の看板、少し変えようかと思って」


 「前のままでも通る」


 ハッサンが寸法取りをしながら言う。


 「通るけど、今のままだと“恋文と迷子札と芝居札の店”で止まる気がする」


 「間違ってはいない」


 「間違ってはいないけど、足りない」


 ヤスミンは筆先を洗い、板の前で腕を組んだ。


 「看板と、暮らしの文と、たまに役所のほうの堅い紙も直す。そういう感じがほしい」


 「長い」


 「言うと思った」


 ハッサンは板へ糸を張り、中心線を引く。


 その手つきは前より少しだけ柔らかい。正確さはそのままなのに、板の前で人が考える時間をちゃんと見込んでいる線だった。


 「共同掲示板のほうはどうする」


 彼が問う。


 「“旧市街西区案内”じゃつまらない」


 「つまらなくても必要な場合がある」


 「でも今回は、必要なことをつまらなく書かないって決めたでしょ」


 返されて、ハッサンは一瞬だけ黙った。


 それから、ごくわずかに負けを認める顔になる。


 「……そのとおりだ」


 ヤスミンは笑う。


 このやりとりがもう自然になっていることが、少し可笑しかった。前なら衝突で終わった。いまは違う。言い返しの先に、じゃあどうするかが残る。


 奥庭へ、パゾスが顔だけ出した。


 「名前が決まらないなら、“すごくいい看板予定地”でどうだ」


 「却下」


 「却下です」


 声が重なり、パゾスは「仲がいいな」と笑って引っこんだ。すぐその向こうでヴィウンタが「作業の邪魔です」と冷たく言う声がして、また工房らしい騒がしさが戻る。


 ヤスミンは白い板を見つめた。


 何も書かれていない面には、不思議な明るさがある。まだ決まっていないからこそ、これから先の文を受け取れる余白がある。


 六年前には、その余白を恐れていた。


 違和感を口にした先で、何が起こるか分からなかったから。


 けれど今は違う。分からないままでも、一緒に考え、書き、直していける相手と場所がある。


 「最初の一文字だけ、先に入れてもいい?」


 ヤスミンが言う。


 ハッサンは糸を外し、板の余白を見た。


 「まだ文案が固まっていない」


 「一文字だけなら、あとでどうにでもつながる」


 少し考えてから、彼は頷いた。


 「なら、位置はここだ」


 鉛筆で、ごく小さな印をつける。


 ヤスミンはその印の前へ立ち、筆へ墨を含ませた。白い板の上で、黒い先端だけが静かに光る。


 工房の中からは、紙を裁つ音。通りからは、鍋のふたの音。遠くで橋を渡る荷車の軋み。どれも、最初の朝から変わらずそこにあった音だ。


 ヤスミンは筆を下ろした。


 白い板へ、最初の一文字を書く。


 その横で、ハッサンが迷いなく寸法を書き込む。


 言葉と手順。


 暮らしと設計。


 重ならないと思っていた線が、いまは同じ板の上で、ごく自然に並んでいる。


 名前はまだ決まらない。


 看板の文も、これから何度か直すだろう。


 それでいいのだと、ヤスミンは思った。


 削られそうになった言葉を取り戻したあとに来るのは、完成ではない。書き続けられる未来だ。


 白い板の上で乾いていく最初の一文字は、その未来がもう始まっていることを、静かに示していた。



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