第27話 赤い糸を書き直す
拍手が少しずつ落ち着いていくあいだ、ハッサンは舞台の中央で言葉を探していた。
いつもの彼なら、探す前に並べる。
順番を決め、余計な熱を削り、誤読の余地を潰す。けれど今の彼は、そういう手順だけでは足りない場所へ立っている。
広場じゅうが、それを黙って見ていた。
トゥオヴィが横から小さく囁く。
「司会に助け舟は要るか」
「要らない」
ハッサンは短く答えた。
それから、ヤスミンのほうを向く。
「俺は、手順に隠れる癖がある」
広場の何人かが、思わず息を漏らした。本人がそこから始めるとは思っていなかったのだろう。
ハッサンは続ける。
「正しい順番で進めればいい。証拠が揃うまで待てばいい。感情で先走るな。ずっとそう考えてきた」
ヤスミンは黙って聞いていた。
否定しない。先回りして救わない。ただ、相手が自分の言葉で立つのを待つ。その待ち方が、いまの彼女にはできた。
「もちろん、それが必要な場面はある」
ハッサンの声は静かだ。
「だが俺は、ときどき必要以上にそこへ隠れた。順番を守るふりをして、本気で何かを選ぶことを後ろへ回した」
前列のパゾスが、珍しく茶化さずに聞いている。ヴィウンタも腕を組んだまままばたきが少ない。工房の皆も、役所の者も、観客も、みな同じ方向を向いていた。
「ヤスミンの言葉は、何度も町を救った」
ハッサンははっきり言った。
「橋の前で足を止める文。食堂の客を戻した札。幸福論の切られた意味を返した板。俺が図面で説明できることを、人が暮らしとして受け取れる形へ直してきた」
その一語一語が、仕事の評価としてまっすぐだった。
恋の告白めいた甘さではない。相手の仕事と判断を、同じ高さで信じる言葉だった。
だからこそ、ヤスミンの胸へ深く入った。
「俺は、それに何度も助けられた」
ハッサンは息をつく。
「町も。俺自身も」
広場の空気が、さっきまでとは別の静けさへ変わる。理屈の続きを待つ静けさではない。何か大事な一文が来る前の静けさだった。
「これから先」
彼は言った。
「君が言葉を整えるなら、俺はその言葉が届く場所を守る」
そこで、一度だけ言葉が切れた。
だが、逃げなかった。
「案内板でも、通りでも、役所の紙でも、舞台でもいい。君が人の暮らしに合う言葉を書くなら、俺はそれが削られないように働く」
職業上の誓いだった。
同時に、それだけでは済まない響きも、誰にでも分かった。
広場の後ろで、誰かが小さく「うわ」と言った。トゥオヴィが声を飲み込みきれず、肩を震わせる。パゾスはもう口元を押さえている。
ヤスミンは一拍遅れて、ようやく笑った。
「……それ、ずるい言い方」
広場に、ほっとしたような笑いが広がる。
ヤスミンはハッサンへ向き直った。
「仕事の話みたいな顔をして、ちゃんと大事なこと混ぜてくる」
「仕事の話でもある」
「そこがずるいって言ってるの」
言いながらも、彼女の声はやわらかかった。
舞台の上で、彼の言葉の中に見えていた細い赤い引きつれが、今はなかった。言いたくないことを無理に差し込んだときの、あの嫌なねじれがない。あるのは、遠回りしてきた線がようやく同じ板の上へ乗った感じだった。
ヤスミンは拍手の残響の中で、ゆっくり口を開く。
「私も、あなたのやり方に何度も助けられた」
今度は広場が、ちゃんと黙って聞く。
「嫌なくらい堅いし、気の利いた言い方もしないし、私が腹を立てる順番でしか動かないときもあった」
後ろでエドリラが吹き出し、老夫婦まで肩を揺らした。
「でも、逃げなかった」
ヤスミンの視線はまっすぐだった。
「見たくない紙からも、面倒な筋からも、私の言葉からも、ちゃんと逃げなかった。あの堅さがあったから、今日ここまで来られた」
彼女は少しだけ肩をすくめる。
「だから、その……届く場所を守るっていうなら、私はそこで書く。たぶん、ずっと」
台詞のように上手くはなかった。
だが、それで充分だった。
トゥオヴィが両手を広げる。
「皆さん、いま聞きましたね!」
たまらず司会の声へ戻ったせいで、広場が一斉に笑った。拍手がもう一度巻き起こり、口笛が飛び、誰かが「次は看板だ!」と叫ぶ。パゾスは「共同経営だな」と勝手なことを言い、ヴィウンタが「名称の整理が先です」と真顔で返した。エドリラの老主人は「祝い鍋を増やすぞ」と張り切り、老婦人が「その前に役所をきちんと締めな」とたしなめる。
ベクシは舞台袖で、疲れ切った顔のまま、それでも少しだけ口元を緩めていた。ヨハネットは呆れ半分の顔をしながらも止めない。ミスラフは紙束を抱えたまま、小さく咳払いして視線を逸らす。
混乱のあとに来たその騒がしさは、悪いものではなかった。
怒りだけで終わらない。
泣くだけでも終わらない。
暮らしの続く町らしい、遠慮のない賑やかさだった。
ハッサンは拍手の中で、ヤスミンへごく小さく言う。
「あとで、正式な文にしてもいい」
「何を」
「今の約束を」
ヤスミンは笑いをこらえきれなかった。
「やっぱりそこ、そういう人だね」
だが嫌ではなかった。
むしろ、その言い方ごと引き受けたいと思った。
夏至祭の舞台の上で、ずっとねじれていた線が、ようやく書き直された。
赤い糸なんて、最初から綺麗に伸びているものじゃない。
間違った手で引かれ、変な場所で結ばれ、いくつも削られそうになりながら、それでも選び直していくものなのだと、ヤスミンは初めて思えた。




