表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/28

第26話 町じゅうの前で

 ヤスミンが舞台へ出たとき、広場は不思議なくらい静かだった。


 さっきまで飛んでいた怒号が、風の向きでも変わったみたいに収まっている。誰もが次の言葉を待っていた。怒りを煽る声か、泣かせる声か、あるいは役所を罵る声か。そんな予想を、ぜんぶいったん止める静けさだった。


 ヤスミンは台の前へ立ち、両手の札を見下ろした。


 紙の端が少しだけ汗ばんでいる。


 それでも逃げたくはなかった。


 「私は、誰かをやりこめるためにここへ来たんじゃありません」


 最初にそう言うと、広場の空気がさらに澄んだ。


 「勝ったとか負けたとか、上手く言い負かしたとか、そういう話をしたいんじゃない」


 彼女は顔を上げる。


 「ただ、削られた言葉を、そのまま流したくなかっただけです」


 遠くで屋台の鍋が鳴った。いつもなら気にならない小さな音が、今日だけは支えのように聞こえる。


 「六年前、私は一度、それをやりました」


 ざわめきが戻りかけ、すぐ止まる。


 ヤスミンは続けた。


 「母が亡くなる前、私は変だと思った札を見ました。変だって、ちゃんと言えたはずでした。でも私は、まだ証拠もないし、自分の思い込みかもしれないしって、飲み込んだ」


 広場の前列で、年配の女が手を胸に当てる。


 「飲み込んだまま時間が過ぎて、あとで残ったのは、もしあのとき言っていたらっていう気持ちでした。正しかったかどうかじゃないんです。言えたのに、言わなかった。そのことが、ずっと喉に引っかかってた」


 広場のどこかで、息を止めて聞いていた人がゆっくり吐く音がした。六年前の後悔が、いまこの場で初めて他人の耳へ届いたのだと、ヤスミンはその静けさで知った。


 ヤスミンは自分でも驚くくらい、よどまずに話していた。


 六年前のことを口にすると、もっと苦しくなると思っていた。けれど今は違う。苦しい記憶を見せつけるために立っているのではなく、その先で同じことを繰り返さないために立っているからだ。


 「だから今度は、見送らないと決めました」


 彼女は一枚目の札を掲げた。


 「橋の案内板。これはただの板じゃありません。帰る道です。仕事へ行く道です。鍋を運ぶ道です。子どもが転ばず歩く道です」


 次の札。


 「営業許可の掲示。これはただの紙じゃありません。店を開けていい朝だって分かる合図です。椀を洗って、火を入れて、今日は誰が来るかなって待てる理由です」


 次。


 「縁談登録札。これも、ただの札じゃありません。誰と暮らすかを、自分の口で決められるっていう線です。そこへ勝手な名前を差し込まれたら、人生ごと書き換えられる」


 赤い認証墨の写しが、陽の下で鈍く光る。


 「幸福論覚書だってそうです。もともとは、人を追い出すための言葉じゃなかった。暮らしを削るなって書いてあった。その言葉の一番大事なところが切られて、明るい二文字だけが旗みたいに振られた」


 ヤスミンはそこで、ひとつ息を吸った。


 広場のあちこちに知った顔がある。エドリラの食堂の老夫婦。カミの茶屋の常連。橋向こうの洗濯女。市場の魚屋。芝居小屋の裏方たち。みんな、紙の前で止まったことのある人たちだった。


 「私、文字を書く仕事をしています」


 声が自然に前へ出る。


 「恋文も書くし、迷子札も書くし、看板も書く。うまく言えない人の代わりに、相手へ届く形を探す仕事です」


 彼女は自分の指先を見た。


 「だから分かるんです。言葉って、紙の上に乗った瞬間から、誰かの暮らしに触るんです。やさしくもなるし、乱暴にもなる。守りもするし、追い立てもする」


 静かなまま、広場が聞いている。


 「書かれたものが、ぜんぶ正しいわけじゃない。押印があるからって、暮らしまで正しいわけじゃない。でも、だからって“紙なんてどうでもいい”にはならないんです。どうでもよくないから、ここまで傷ついた」


 その一文に、何人もの顔が揺れた。


 紙のせいで客が減った。


 札のせいで泣いた。


 板のせいで帰り道が曲げられた。


 それを知っている人ばかりだった。


 ヤスミンは胸の前の札束から、住民の短文札を取り出した。どれも、工房で集め、夜のあいだに書き写したものだ。長くない。だが、制度の説明だけでは届かない場所へ届く言葉たちだった。


 「ここからは、私の言葉じゃありません」


 彼女は最初の一枚を読む。


 「この鍋の匂いで夜が来る」


 前列のどこかで、すすり泣きが洩れた。


 次。


 「橋の向こうに帰る家がある」


 今度は市場側の男が、目を伏せた。


 次。


 「水路の風で洗濯物の乾きが分かる」


 洗濯女たちが頷く。


 次。


 「ここで育った子が、明日も笑えるように」


 その札を読んだとき、広場の静けさがやわらかく変わったのが分かった。


 怒りだけではない。


 悔しさだけでもない。


 ここで暮らしたい、という気持ちが、ひとつの大きな息みたいに広がっていく。


 ヤスミンは最後の札を下ろした。


 「私は、この町を昔のままに閉じ込めたいわけじゃありません」


 彼女ははっきり言った。


 「直すなら直せばいい。危ないところは直せばいい。でも、そのときに、鍋の匂いも、洗濯場も、帰る道も、誰かの名前の入った札も、一緒に削らないでほしい」


 声が少しだけ震えた。


 だが、引かなかった。


 「暮らしって、数字だけじゃ計れません。けれど、計れないから切っていいものでもない。ここで生きてる人の分だけ、ちゃんと重さがあります」


 しん、とした広場の真ん中で、その言葉が落ちる。


 次の瞬間、最初に音を立てたのは、食堂の老主人だった。


 大きな、ためらいのない拍手。


 その隣で老婦人が泣きながら叩き、茶屋の常連が続き、市場の男たちが手を打つ。やがて広場全体へ広がり、音は波のようになった。屋台の影でも、橋の手前でも、誰も遠慮しない拍手だった。


 泣いている人がいる。


 頷いている人がいる。


 怒った顔のまま叩いている人もいる。


 それでよかった。悲しいだけでも、綺麗なだけでもない。この町の拍手だった。


 板張りの舞台が足裏で細かく震え、その震えが胸の奥の固いところまで届いてくる。


 ヤスミンは一瞬、視界が揺れた。


 そのとき、横へ誰かが並ぶ気配がした。


 見るまでもなく分かる歩幅だった。


 ハッサンが、彼女の隣へ立っていた。


 拍手の中で、彼は何も急がなかった。


 ただ、逃げずに並んだ。


 それだけで、ヤスミンの胸の奥に残っていた六年前の冷たい塊が、少しだけ別の形へ動き始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ