第24話 告白タイムの幕が上がる
中央広場の舞台は、昼を越えるころにはもう人の熱でできあがっていた。
屋台の煙が風に流れ、焼き菓子の匂いと香辛料の匂いが混ざる。子どもは飾り紐の下を走り、恋人どうしは祭りの装いを見せ合い、年寄りは椅子を持ち出して日陰を確保する。夏至祭は、毎年同じようでいて、同じ年がひとつもない。
今年の違いは、舞台へ来る前の道で、すでに多くの人が紙を読んでいることだった。
広場の端でも、まだ刷り物を手にした者たちが話している。
「見たか、橋の札」
「食堂の控えも本物らしい」
「後見札の話、うちの親戚にも関係あるかもしれん」
ざわめきは不穏なのに、散ってはいない。むしろ全員が、何かを待つように舞台へ目を向けている。
舞台袖では、その視線と正面から向き合う準備が進んでいた。
トゥオヴィが司会衣装の襟を整えながら、進行表を二枚持ち比べている。役所が渡してきた綺麗すぎる進行表と、昨夜ヤスミンたちが余白を書き足した進行表。表向きは似ている。だが、どこで息を置き、どこで人を招き、どこで時間を稼ぐかが、まるで違う。
「最初の子ども踊りのあと、魚屋の親方を入れる」
彼は小声で確認する。
「そのあと縫い子の娘。感謝と仲直りで広場をあたためる。役所の“お知らせ”はその次に回せと言われても、俺がもう一人入れる」
「一曲ぶん、稼げる?」
ヤスミンが問う。
「稼ぐ。司会は口で飯を食ってるんだ」
トゥオヴィは唇の端を上げたが、喉をさする指には緊張が出ていた。
東の袖口では、ミスラフとヨハネットが証拠文書の順番を最後まで合わせている。封じ紐を解く位置、見せる順、差し出す相手の役割。公文書は、正しい順番で出さなければ、ただの紙束へ戻ってしまう。
「押印履歴は私が読む」
ヨハネットが言う。
「文書の整合性を問われたら、法務係として答える。曖昧な表現は使わない」
「助かる」
ミスラフは束を抱え直した。
「私は回付先の流れを補います。六年前の発注印もここへ差し込みます」
西の袖では、ハッサンが大判図面を広げていた。板へ貼った簡略版ではなく、舞台用の本図面だ。黒線、赤線、削られた補修、変更された動線。観客の後ろからでも見えるよう、線の太さと余白が調整されている。
ヤスミンはその横で、住民の短文札を一枚ずつ揃えた。
鍋の匂い。
橋の向こうの家。
水路の風。
ここで喋る一日。
紙は軽い。けれど、今はどの公文書より重く感じた。制度や設計の話だけでは届かない場所へ、この短い言葉たちが届く。だから最後に読むのは自分だと、もう腹は決まっている。
それでも、指先は少し冷たかった。
ハッサンが気づき、何も言わずに自分の水筒を差し出す。
「ありがとう」
受け取ると、中身は冷えた水ではなく、ほんの少しだけ温い茶だった。喉に落ちる温度がやさしくて、張りつめていた肩が少し下がる。
「手、震えてる?」
ヤスミンが小さく訊く。
ハッサンは一度だけ自分の指を見た。
「少し」
「そっか」
「君は」
「少し」
言い合って、二人ともわずかに笑った。袖の外では太鼓の低い音が鳴りはじめ、胸の鼓動まで同じ拍に引かれていく。
大丈夫だと励ますより、その程度の正直さのほうが今は効いた。
舞台の表では、楽人が音を合わせ始めている。最初の笛の高い音に、広場のざわめきが少し静まる。役所側の控えに立つ職員たちは、表向き平静だが、目だけがせわしない。進行表を握りしめたまま、何度も袖をのぞく者もいる。
そのひとりがトゥオヴィへ近づいた。
「行政発表の順番、繰り上げで」
広報課の男が言う。
「上からの指示です」
トゥオヴィはにっこり笑った。
「祭りの司会順は、もう町会と合わせてありますよ」
「しかし」
「しかしも何も、最初の二組を飛ばしたら、毎年見に来る年寄りに俺が刺される」
軽口の形で、きっぱり断る。
相手がさらに何か言いかけたとき、広場から歓声が上がった。子どもの踊り手たちが入ってきたのだ。鈴の音が転がり、客の視線が前へ向く。その隙にトゥオヴィは袖の者へ片目をつぶり、表へ出た。
「皆さん、お待たせしました!」
声が広場いっぱいに飛ぶ。
場を掴む声だった。大きいだけではない。笑っている人にも、端で腕を組んでいる人にも、同じ長さで届く声だ。
「今年も夏至祭の昼が来ました。灯りがともるまではまだ少しありますが、その前に、笑いたい人も謝りたい人も、誰かへ一言ある人も、ちゃんと舞台をあけておきますからね」
最初の口上から、昨夜決めた一文が入っている。
――誰かへ一言ある人も、ちゃんと舞台をあけておく。
広場の何人かが、通りの札を思い出した顔をした。
子どもの踊りが終わり、魚屋の親方が亡兄への言葉を口にすると、前列の老婆が目頭を押さえた。次に出た縫い子の娘は、喧嘩中の姉へ向かって「先に謝るのは悔しいけど」と言い、広場に笑いを起こしてからちゃんと泣かせた。
空気はあたたまる。役所側にとっては、早く行政発表を差し込みたいところだろう。だがトゥオヴィは、間を絶妙に外さない。
「さて、ここで一曲――と言いたいところですが、どうしても今日、先に言わせてほしいという人がもう一人」
彼は舞台の縁へ出て、客席を見回した。
「町で暮らすってことに、関わる話です」
役所側の控えで、小さなざわめきが走る。
その隙に、東の袖口からミスラフとヨハネットが動いた。紙束を抱え、台に置く。西の袖ではハッサンが大判図面を立て、留め具を掛ける。観客からは、何かいつもと違うものが舞台へ上がったのが見える。
広場のざわめきが、今度は期待と警戒の入り混じった静けさへ変わった。
ヤスミンは袖の影で深く息を吸う。
紙の端が指に当たる。ざらついた手ざわりが、やけにはっきり伝わる。母を亡くした日のこと。六年前、飲みこんでしまった違和感。食堂の鍋の匂い。泣いていた娘の手。橋の前で立ち止まった客たち。全部が一度に胸へ集まってきた。
でも、押し潰されはしなかった。
いまここに来るまでに、誰の手が何を支えたかを知っているからだ。パゾスの軽口、ヴィウンタの仕分け、クリストフの刷り、カミの茶、エドリラの足、ミスラフの記録、ヨハネットの公的な声、トゥオヴィの進行、ハッサンの図面。
ひとりの勢いで立つのではない。
町の言葉が、背中を押している。
トゥオヴィが舞台の中央で、いつもの笑いを少しだけ引っ込めた顔になる。
「次は、町のこれからに関わる大事な話です」
その宣言が、広場の真ん中へ落ちた。
笑い声が消える。
屋台の鍋の音まで遠くなった気がした。
幕はもう上がっている。
あとは誰も、見なかったことにはできない。




