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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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第23話 数字しか見ていなかった男

 監査官ベクシが整備局へ戻ったとき、中庭の旗は風もないのに重たそうだった。


 朝から祭り対応で人の出入りは多い。けれど局舎の石段を上がる彼の足音だけが、妙にはっきり響く。坂道の札を見た瞬間から、胸の内で嫌な予感は固まっていた。あれだけ紙が出た以上、もはや一担当の失敗では済まない。誰かが線を引く。切る場所を決める。


 その切られる側が自分でない保証は、どこにもなかった。


 計画課の奥、磨かれた扉の向こうにいるのは、都市整備局次長ロフタンだった。


 細身の男で、髪にも袖にも塵ひとつない。机の上には祭り用の祝辞と、新水路沿いの観覧席配置図が整然と並び、窓辺の花瓶の花まで角度が揃っているように見える。人の住む町より、整えられた紙の並びを信用する男だと、ベクシは以前から感じていた。


 「失礼します」


 「聞いている」


 ロフタンは顔も上げずに言った。


 「旧市街で、また余計な紙が出たそうだな」


 “また”の一語に、ベクシは背中が冷えるのを覚えた。自分が今朝初めて見た混乱を、目の前の男はもう混乱と見ていない。予定のひとつが崩れた程度にしか扱っていない。


 「余計、では済みません」


 ベクシは声を抑えた。


 「幸福論覚書の抜粋、旧設計図との差分、営業許可の控え、後見札の不正例まで出ています。広場へ向かう人間のかなりの数が読んでいます」


 「なら広報課に、誤解を招く私的掲示だと流させろ」


 「それでは抑えきれません。設計図と押印記録まで舞台へ上がれば――」


 ようやくロフタンが顔を上げた。


 「舞台へ上がる前に止めるのがお前の役目だろう」


 声は怒鳴りもしない。だからこそ、言葉の冷たさがよく分かる。


 ベクシは一歩だけ前へ出た。


 「昨日までであれば、工房へ疑いを向ける形で時間を稼げました。しかし今日は違います。町の目が向いています。今ここで誰かを荒っぽく押さえれば、むしろ舞台に上げる理由を与えます」


 ロフタンは無表情のまま、書類の端を指で揃えた。


 「なら、お前一人の判断が浅かったという話だ」


 そのひと言で、線が引かれたのが分かった。


 ベクシは息をのむ。


 「……次長」


 「成果の見込みがあるから任せた」


 ロフタンは静かに言う。


 「旧市街の整理は、感傷に引きずられない人間でなければ進まない。お前は数字を見られる男だと思っていた」


 褒め言葉の形をした切り捨てだった。


 数字を見られる。つまり、削る家の数も、減る店の数も、紙の上で均して扱えるという意味だ。ベクシはその期待に応えたつもりだった。苦情は一件、二件と数え、工房の評判は上振れ分として扱い、食堂の売上減も祭り前の変動へ押し込めた。そうやって自分は、賢く立ち回っているのだと思っていた。


 だが目の前の男にとって、自分もまた一つの数字でしかない。


 都合が悪くなれば、切る。


 それだけだ。


 「私だけの判断ではありません」


 ベクシの声が、わずかに軋んだ。


 「新水路側の観覧動線優先、旧市街の退去勧告、補修先送り、祭りでの既成事実化……それらは」


 「言葉を選べ」


 ロフタンの視線が初めて鋭くなる。


 「お前は監査官だ。政策を作る立場ではない」


 そこで初めて、ベクシははっきり悟った。この男は、自分へ全部かぶせるつもりだと。


 扉の向こうで足音がした。補佐が入ってきて、広場の状況を小声で伝える。人だかりが増えていること。舞台周辺で、文書庫番のミスラフと、法務係のヨハネットが見えたこと。整備局の若い役人の中にも、通りの札を読んでいる者がいること。


 ロフタンの眉がわずかに動く。


 だが彼はすぐ元へ戻った。


 「祭りの終了まで黙っていろ」


 そう言って、祝辞の紙を手に取る。


 「その後で、工房の越権行為と文書持ち出しの件を整理する。分かったな」


 ベクシは返事ができなかった。


 工房のせいにする。文書持ち出し。越権行為。もう筋書きは決まっている。自分がここで従えば、一時は延命できるかもしれない。だが次に差し出されるのは、自分の署名だ。自分が見て見ぬふりをした数字の列だ。


 彼は一礼だけして部屋を出た。


 廊下へ出た途端、吐き気に似た息がこみ上げる。中庭の光が妙に白い。祭りの朝なのに、局舎の中だけ季節から切り離された箱のようだった。


 石段の下に、ハッサンが立っていた。


 壁にもたれていたわけではない。待っていたのだと一目で分かる立ち方だった。


 「うまくいかなかった顔だな」


 ベクシは顔をしかめる。


 「君はいつから、役所の出入口で人を待つような男になった」


 「必要なら、前からそうだ」


 ハッサンは近づきも離れもせず言った。


 「上は何と言った」


 ベクシは笑おうとして失敗した。


 「失敗したら現場のせい。昔から同じだ」


 「誰の名前が出た」


 沈黙。


 ハッサンは目をそらさない。


 ベクシはその目が嫌いだった。真面目すぎて、融通がきかない。だが同時に、誤魔化しが利かない相手だとも知っている。


 「今さら正義面か」


 ベクシは吐き捨てるように言う。


 「君は旧市街に肩入れしすぎた。感情で資料をつないだ。私はそれを止めただけだ」


 「違う」


 ハッサンは即座に返した。


 「君は見えていたものを、数字の端へ寄せた」


 胸の奥へ、痛いほどまっすぐ刺さる言い方だった。


 ベクシは目を閉じる。食堂の椀の音が減ったことも、橋の案内で客が流れたことも、縁談札で泣く娘がいたことも、報告を見れば分かっていた。ただ、そのひとつひとつへ“局全体への影響は軽微”と書き添えてきたのは自分だ。軽微。局の紙の上では便利な言葉だった。


 「……俺は」


 喉が乾く。


 「俺は、数字しか見ていなかった」


 言ってしまうと、ひどく情けなかった。


 ハッサンは責め立てなかった。ただ言う。


 「なら、今から見ろ。誰が削られたか」


 ベクシは壁の向こう、広場へ続く道を思い浮かべた。鍋の匂い。橋の向こうの家。布が乾く水路。今朝、札を読んで立ち止まった人の顔。あれは全部、数字の外側にあるものだ。だからといって、無かったことにはできない。


 「全部は話せない」


 ようやくベクシは言った。


 「……まだ、怖い」


 正直に口にしたのは初めてだった。


 ハッサンの表情は変わらない。


 「全部でなくていい。嘘を重ねるな」


 ベクシは唇を噛み、それから低く続けた。


 「祭りの行政発表を差し込んだのは、次長ロフタンの指示だ。広場で既定方針だと通せば、あとから住民説明はいくらでも形だけ作れると……そう言った」


 ハッサンの目が細くなる。


 「他には」


 「補修先送りの決裁印も、上から戻ってきた。私が起案したわけじゃない」


 「舞台で聞かれたら、そのとおり言えるか」


 ベクシはすぐには頷けなかった。


 だが、首を横にも振れない。


 「……少なくとも、私は否定しない」


 それが今の精一杯だった。


 ハッサンは短く息をついた。満足とも失望ともつかない吐き方だった。


 そのとき、広場の方角から走ってくる足音がした。トゥオヴィだった。司会衣装の上へまだ半纏を引っかけたまま、息を切らしている。


 「こんなところで説教してる場合か!」


 彼は二人の前で止まり、声を潜めた。


 「舞台が押し始めてる。役所側が進行表を早めたいってうるさい。もうすぐ始まるぞ」


 ハッサンはすぐ背を返した。


 ベクシはその背中を見送りかけ、結局、自分も足を動かした。


 切り捨てられる側のまま沈むか、いま見たものを口にするか。


 決める時間は、もうほとんど残っていなかった。



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