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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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22/28

第22話 看板が町を埋める朝

 夏至祭の朝は、いつもの朝より少しだけ早く始まる。


 まだ陽が壁の上まで届かないうちから、パン屋は窯をあたため、魚屋は氷布を広げ、屋台の若い衆は眠い顔で柱を立てる。旧市街の通りには、祭りの日だけのせわしなさが、湯気や足音に混じって流れていた。


 その流れの中へ、別のものが次々立ち上がっていく。


 北橋のたもとには、新しい案内札。


 矢印は正しく、避難路は実際の地形と合っている。下には簡潔な注記が添えられていた。


 ――六年前の旧案内ではなく、現在使うべき道はこちら。


 柱の左側へ掛けられたその札は、朝日を受けても線が飛ばない。ヤスミンの言ったとおりの場所だった。


 市場通りの入口では、エドリラとバレールが食堂前の板を立てていた。仮札ではない。老夫婦の店名と、正しい営業許可の控えの見出しが、並んで見えるよう作られている。その横へ、パゾスの大きな字が掛かった。


 ――この鍋の匂いで夜が来る。


 仕込みに来た魚屋の女房が、籠を下げたまま足を止める。


 「なんだい、朝から泣かせる気かい」


 老夫婦の妻が戸を開け、目を丸くした。


 「うちの許可控えまで出してるのかい」


 「隠す必要、もうないからね」


 ヤスミンが答えると、老夫婦の夫が紙の一行目を見たまま、低く言った。


 「……やっと、見てもらえるか」


 その声は嬉しいより先に、長く堪えていたものがほどける音に近かった。


 水路脇には、布を干す場所の前へ短文札。


 ――水路の風で布が乾く。


 茶屋の脇には。


 ――ここで喋るから、一日が始まる。


 坂の途中には。


 ――橋の向こうに帰る家がある。


 縁談登録所近くには、認証墨の不正例が見出しつきで並ぶ。


 ――本人が承知していない名で後見札は出せない。


 ――赤い認証墨は、恐れを隠すために使ってはいけない。


 さらに中央広場へ向かう道筋の壁には、幸福論覚書の原文抜粋が、短い注記つきで掲げられていた。


 ――旧市街の住居を減らし、新水路の見栄えを優先する。


 ――暮らしの数を減らして、眺めを整える。


 通りを歩く人々は、最初はただ珍しがって足を止める。だが二枚、三枚と読むうちに、顔つきが変わっていった。


 「食堂の客足が減ったの、橋の札のせいだったのか」


 「縁談の札も変だったんだよ。うちの姪が泣いてた」


 「危険区域って言ってたのに、危ないのは新水路側の補修削り?」


 「これ、別々の話じゃなかったのか」


 問いが問いを呼ぶ。今までそれぞれの家で、別々の不運だと思っていたことが、同じ線の上へ並び始める。


 カミの茶屋では、早くも朝茶を飲む客たちが刷り物を回し読みしていた。


 「ここ見な」


 カミが指さす。


 「旧設計図だと、ここの補修が先だったんだよ。それが削られてる」


 「じゃあ危ないのを旧市街のせいにしてたってことか」


 「そういうこと」


 相手は茶碗を持ったまま、顔をしかめる。


 「祭りの日にやることかね」


 「祭りの日だから読むんだよ」


 カミはさらりと言った。


 「誰かの暮らしを勝手に片づけるなら、町じゅうのいる日に返さないと」


 中央広場へ近づくほど、壁も柱も短文と控えで埋まっていった。紙だけではない。板札、矢印札、見出し札。文字の大きさも違う。急いで読む人、立ち止まる人、遠目で眺める人。どの人にも何かひとつは届くように、置き方が変えられている。


 ヤスミンは通りの真ん中に立ち、流れを見た。


 人が立ち止まる位置。次の一枚へ動く視線。紙の前で顔を寄せる二人連れ。読めない子どもへ大人が読み聞かせる声。全部、昨夜考えたとおりではない。けれど、町が自分の足で読みにきている。そのことだけで十分だった。


 「ヤスミン」


 ハッサンが背後から来る。図面筒を肩に掛け、袖をまくったままの姿は、役人というより朝から土を見てきた現場の男に近い。


 「北橋、無事に置けた」


 「見た。よかった」


 「役所側が一度外しかけたが、住民に先に読まれた。もう表立っては触れない」


 ヤスミンは息をついた。


 「じゃあ、勝手に消されたら余計目立つね」


 「そのとおりだ」


 その会話の向こうで、ひときわ鋭い声が上がった。


 「誰の許可でこれを!」


 監査官ベクシだった。


 彼は広場へ続く坂の途中で、幸福論覚書の抜粋札と設計図差分の簡略版を交互に見て、目に見えて顔色を失っていた。整えられた髪も襟元もいつもどおりなのに、視線だけが落ち着かない。


 補佐が耳元で何か囁く。


 「剥がしますか」


 「馬鹿を言うな」


 ベクシは低く吐き捨てた。


 「今ここで触れば、読んでくれと言ってるようなものだ」


 彼の視線は通りの先を流れる人の数へ向いた。もう遅い、とその顔が言っていた。点でしかなかった違和感が、朝のうちに一本の話へ変わっている。役所の内部で揉み消せる段階を越えたのだ。


 ヤスミンは少し離れた場所から、その表情を見た。


 勝ち誇る気持ちはなかった。ただ、向こうもやっと同じ景色を見たのだと思った。食堂の鍋、橋の矢印、縁談の認証墨、削られた補修、幸福論覚書。その全部が町の中でつながる景色を。


 通りのあちこちで、人々が言い始めている。


 「全部つながってたのか」


 そのひと言は、昨日までのざわめきと違った。疑いではなく、理解の声だった。


 ベクシはその声を聞いた瞬間、補佐へ向かって短く命じた。


 「広場を見張れ。私は局へ戻る」


 「次長へですか」


 「他に誰がいる」


 彼は踵を返し、整備局の方角へ早足で去っていく。背筋はまだ伸びているが、歩幅だけが崩れていた。


 ハッサンがその背を見て言った。


 「切り離される前に、上へ泣きつく」


 「間に合うと思ってるのかな」


 ヤスミンが問う。


 「思っているというより、そうするしかない」


 ハッサンの声は静かだった。


 「数字だけで町を動かせると思った人間は、数字で見捨てられる瞬間がある」


 広場の方では、舞台の幕布が朝の風に揺れていた。


 そこへ向かう通りの壁という壁が、もう町の声で埋まり始めている。


 夏至祭の朝は、祭りの朝の顔をしたまま、別の意味で熱を帯びはじめていた。



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