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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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第21話 刷り物の夜

 同じ夜、クリストフの印刷所では、木の歯車が休まず鳴っていた。


 表の通りが祭りの支度で浮き足立つほど、裏の印刷所は静かな戦場になる。壁際には刷り上がった紙を乾かす縄が何本も渡され、まだ湿り気の残る紙が、白い魚の腹みたいに灯りを返していた。インク壺の縁は黒く艶を帯び、床には裁ち落とした紙端が雪のように散っている。


 クリストフは刷り機の脇へ半身を差し込み、版のずれを目で追っていた。


 「次、幸福論覚書の二枚目。余白、右を一分だけ詰める」


 「詰めるのはいいけど、見出しが窮屈になるよ」


 パゾスが、乾いたばかりの一枚を掲げる。


 ヤスミンはその紙を受け取り、灯りへ透かした。上段に原文抜粋、下段に注記。言いたいことは正しい。だが、読む順番が少しだけ固い。


 「下の注記、二行目を切ろう」


 「そこ、大事じゃないか?」


 クリストフが振り向く。


 「大事。でも最初に読ませるのはそこじゃない」


 ヤスミンは紙の上を指でたどった。


 「先に“旧市街の住居を減らして新水路の見栄えを整える”って書いてある部分を見せる。何をしようとした文章か、そこが一目で分からないと、注記だけ残っても意味が伝わらない」


 ヴィウンタがすぐ控え紙へ赤鉛筆を入れる。


 「では見出しの下を一行空けます。最初の一段を独立させる」


 「うん。それで読み始めた人が、途中でやめても要点が残る」


 クリストフは短く息を吐き、版木を差し替えた。


 「文字を書く人はだいたい、全部読んでくれる前提で並べたがる」


 「全部読んでほしい気持ちは分かるけどね」


 ヤスミンは苦笑する。


 「通りで立ち読みする人は、そういう親切に付き合ってくれない」


 隅の机では、ミスラフが押印記録の写しを整えていた。公印の形、押された日付、回付先。似た紙が続くからこそ、見出しの付け方を間違えると、読む側の目はすぐ逃げる。


 「こちらも同じです」


 ミスラフが言う。


 「押印履歴だけでは、町の人には退屈に見える。だから上に“誰がいつ許可したか”と書き添えます」


 「いい」


 ヤスミンは頷いた。


 「それと、食堂の営業許可控えの束は、最初に老夫婦の店名が見えるようにして。人は数字より、知ってる店から先に理解する」


 カミが茶盆を抱えて入ってくる。湯気の立つ茶碗の他に、小皿へ塩気の強い焼き菓子が山になっていた。


 「甘いのばっかりだと眠くなるからね」


 「助かる」


 ヴィウンタが珍しくすぐ手を伸ばす。目の下にうっすら影ができているのに、紙をそろえる指だけは乱れない。


 パゾスは焼き菓子を一枚くわえたまま、住民の短文を札の形へ写していた。


 「“鍋の匂いがなくなるのは困る”」


 彼は声に出して読み、首をかしげる。


 「そのままでもいいが、もっと近くなる気がする」


 「“この鍋の匂いで夜が来る”のほうを食堂前へ置く」


 ヤスミンが答える。


 「じゃあ元の文は?」


 「配布用。二枚目に残す。看板は足を止める文、刷り物は理由を繋ぐ文」


 「ははあ。役割分担か」


 パゾスは素直に感心してから、別の紙へ向き直った。


 「“この橋の向こうに家がある”は、もう決まりだな」


 「それは坂の途中。北橋だと帰宅の文ばかり並んで重くなる」


 「じゃあ北橋は」


 バレールが板へ金具を打ちながら口を挟む。


 「“朝一番の橋で父さんを待つ”か」


 ヤスミンは頷いた。


 「待つ相手がいる文は、朝のほうが効く」


 印刷所の空気は忙しいのに、誰かの言葉が浮くことはなかった。一枚の紙へ載せる順番、板へ書く字の太さ、金具を打つ位置、束を分ける紐の色まで、全部が一つの目的へ向いている。刷り機の回転音が、今夜だけは心臓の音に近く聞こえた。


 ハッサンは最初、部屋の中央で図面筒を抱えたまま、その仕事の流れを見ていた。


 彼は机の上の文字列を、制度と証拠の並びとしては理解している。だがヤスミンたちは、それだけでは扱っていない。誰がどの順で読み、どこで目を止め、どこで腹を立て、どこで自分の暮らしと結びつけるかまで考えている。


 クリストフが刷り上がりを差し出す。


 「図面差分の説明、これでいいか」


 ハッサンは受け取って目を走らせた。


 「悪くない。ただ、“補修優先度の変更”だと分かりにくい。削った、のほうが伝わる」


 ヤスミンがすぐ顔を上げた。


 「そう。そこ」


 ハッサンは少しだけ眉を動かす。


 「制度上は“変更”だが、暮らしに起きたことは“削った”だ」


 自分で言ってから、その言い方がヤスミンに近いのを悟ったのか、彼は少し黙った。


 ヤスミンは笑った。


 「いいじゃない。今の、すごく分かる」


 その笑いに気負いはなかった。ただ、ちゃんと同じ景色を見た相手へ返す、軽い承認だった。


 ハッサンは紙へ視線を落としたまま言う。


 「……君は、紙の上で人の歩く順番を作っているんだな」


 刷り機の音がひとつきしむ。


 ヤスミンは問い返さなかった。言い換えを求めなくても、意味が分かったからだ。


 「あなたは、人が歩いても崩れない道を作ろうとしてる」


 そう返すと、ハッサンはようやくこちらを見た。


 目が合うのは一瞬だった。


 けれど、その一瞬で十分だった。言葉の置き方が違うから、ずっと重ならないと思っていた。実際は、同じ町を別の面から支えようとしていただけなのかもしれない。そう思うと、胸の奥の固い部分が、ほんの少しだけほどけた。


 カミがにやっとする。


 「はいはい、分かり合ったなら手を動かす。恋めいた沈黙は日の高いうちにやりな」


 「恋めいてない」


 ヤスミンが即座に返すと、パゾスが噴き出した。


 「その返しの早さがもう怪しいんだよ」


 「パゾス、住民札を落とすよ」


 ヴィウンタのひと言で、彼は慌てて紙束を抱え直した。


 夜はじわじわと深くなる。幸福論覚書の抜粋が三十枚、営業許可控えの説明札が十五枚、縁談登録札の不正例が十二枚、設計図差分の簡略版が二十枚。紙は増えるたび、ただの束ではなく、町の人へ返すための声になっていった。


 ヤスミンは最後の一束へ見出しを書き入れる。


 ――読まれる前に決められたことは、まだ終わっていない。


 乾ききらない墨が、灯りの下でわずかに光る。


 そのとき、戸が勢いよく開いた。


 冷たい夜気と一緒に、エドリラが飛び込んでくる。頬が赤く、肩で息をしていた。


 「役所側も動き始めた!」


 全員の手が止まる。


 エドリラは戸を閉めもせず、早口で続けた。


 「広場まわりの見回りが予定より早い。整備局の連中がもう二手に分かれてる。たぶん、朝の札を先に潰しにくる」


 ハッサンが図面筒を掴んだ。


 「どこだ」


 「北橋と坂道。先に押さえるならそこ」


 ヤスミンは机の上の束を一瞥し、迷わなかった。


 「乾いた分から持ち出す。全部じゃなくていい。北橋用、坂道用、広場手前用。順番どおりに」


 クリストフが刷りたての紙を縄から外す。


 ヴィウンタは束の色札を差し替え、バレールは板の紐を肩へ掛けた。カミは茶碗を下げる代わりに空いた籠を持ってくる。


 夜はまだ明けていない。


 けれどもう、守りながら待つ時間ではなかった。


 刷り物の夜が、町へ出ていく朝へ変わる。



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