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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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20/28

第20話 一晩だけの段取り戦

 夏至祭の前夜、旧市街は祭りの浮き足と、こちら側の張りつめた気配を同時に抱えていた。


 表通りでは屋台の骨組みが立ち、灯り紐の試し火がともり、子どもたちが明日の飾りを盗み見しようとして追い払われている。だが一本裏へ入れば、ことば屋つばめ、クリストフの印刷所、カミの茶屋、文書庫の裏口、エドリラの配達路が、見えない糸でつながり始めていた。


 その真ん中に立っていたのは、ヤスミンだった。


 長机の上に簡図を広げ、板札の見本を立て、時刻ごとの札を小さな石で押さえる。誰が何をどこへ運び、どの順で置き、どこで合流し、何を袖へ上げるか。迷っている暇はないから、迷う前に決める。


 「第一橋は夜明け前。ここは役所側が一番先に見回るから、暗いうちに置く」


 ヤスミンが言うと、エドリラがすぐ印を動かした。


 「私とバレールで行く。荷車は使わない。車輪の音で気づかれる」


 「うん。木枠の説明札も一緒に」


 「了解」


 「市場通りは朝の仕込み前。食堂の控えと営業許可の写しを先に出す。老夫婦の店は人が足を止めやすいから、そこが起点になる」


 パゾスが板切れの束を抱えながら口を挟む。


 「そこへ俺の短文札も混ぜる。“この鍋の匂いで夜が来る”は食堂前でいいな?」


 「いい。でも字は大きく。説明より先に目へ入るように」


 「任せろ。泣かせる板にする」


 「泣かせるより読ませて」


 ヴィウンタが横から冷静に言い、刷り物の束へ番号札を付けていく。幸福論覚書の抜粋一式。営業許可の正しい写し。認証墨の不正例。旧設計図と現行図面の差分。どの束も、見出しと順番が一目で分かるよう整えられていた。


 「文書庫分はこの順番です」


 彼女は紙の束を軽く叩く。


 「先に生活への影響、次に制度上の誤り、最後に利益の流れ。途中で一枚だけ抜かれても、全体の意味が崩れない並びへしてあります」


 ミスラフがその横で封じ紐を確認する。


 「押印履歴の原本は私が持つ。写しは二組。片方を失っても、もう片方で説明できる」


 ハッサンは少し離れた机で、図面の差分を最後まで清書していた。細い定規を当てる手が一度も止まらない。赤線は削られた補修箇所。黒線は本来の流れ。注記は最小限だが、広場の後方からでも分かるよう、線の太さと余白が計算されている。


 ヤスミンはその図面の仕上がりを見ると、すぐ次の指示を出した。


 「広場用の大判は一枚。途中掲示用は三枚。北の橋、中央の坂、広場手前。図だけで意味が通る版を優先して」


 「もうできてる」


 ハッサンは言った。


 彼が差し出した紙を見て、ヤスミンは一瞬だけ眉を上げた。頼んだ以上だった。


 「……早いね」


 「言われる前から、必要だと思った」


 短い返答だったが、そこに余計な飾りはない。けれど、迷わず同じ方向を見ていることだけは分かる言い方だった。


 ヤスミンは頷き、紙を受け取る。


 「じゃあ北橋はその版で。設置位置は柱の右じゃなくて左。朝の日が当たって、線が飛ぶから」


 「分かった」


 即答。


 そのやり取りを、パゾスがにやにやしながら見ていたが、ヴィウンタの視線にぶつかって肩をすくめた。


 カミは茶屋から大鍋を持ち込み、眠気覚ましの濃い茶を皆の手へ順に渡した。


 「段取りで倒れたら、元も子もないよ」


 「ありがとう」


 ヤスミンは茶碗を受け取るが、立ったまま一口だけで次の紙を見る。


 「トゥオヴィ、舞台袖の導線、もう一回」


 呼ばれたトゥオヴィが、台本を脇へ挟んで前へ出る。


 「正面階段は観客側から丸見え。証拠束を上げるなら東の袖口。そこは楽人の出入りと被るが、俺が一曲ぶん稼げば間に合う。役所側の控えは西袖に寄るはずだ」


 「ヨハネットは?」


 ヤスミンが問うと、ミスラフが答えた。


 「明朝、文書確認の名目で広場へ入る。公的立場で文書の整合性を認められる数少ない人だ。遅れさせない」


 ヤスミンは地図の端へ小さく印を書いた。役所の中にも、まだ切り捨てきられていない手がある。そこも組み込まないと駄目だ。


 エドリラが戸口から顔を出す。


 「住民の短文、まだ増やせるよ。配達の途中で拾ってくる」


 「お願い」


 「条件ある?」


 「一人で読める長さ。嘘っぽくない言葉。きれいごとより、暮らしの癖があるやつ」


 エドリラはにやっとした。


 「得意」


 飛び出していく背中を見送りながら、ヤスミンは地図の印をまたひとつ動かす。


 工房の中だけで回っていない。印刷所も茶屋も配達路も文書庫も、今夜だけは一枚の板の裏側みたいに噛み合っている。その中心で、皆の手が止まらないよう順番を決めるのが、自分の役目だ。


 昔のヤスミンなら、勢いで最初に飛び出していたかもしれない。だが今夜は違う。誰がどこで躓くか、どの文がどの場所で効くか、どの一分が全体を崩すかを先に考える。そのことに、自分で少し驚いていた。


 パゾスが、板札の試し書きを振ってみせる。


 「見ろ。“橋の向こうに帰る家がある”」


 字は派手すぎず、けれど足を止める太さだった。


 ヤスミンは目だけで確認する。


 「いい。広場手前じゃなく、坂の途中へ」


 「なぜ?」


 「帰り道を思い出させる文だから。広場へ着く前に読ませたい」


 パゾスは口笛を鳴らしかけてやめた。


 「なるほどなあ。そういう置き方まで見てるのか」


 ハッサンが図面から顔を上げた。


 「君は、言葉の設計をしているんだな」


 静かな一言だった。


 ヤスミンは一瞬だけ手を止める。褒められ慣れていない場所へ、まっすぐ届く言い方だった。


 「あなたは人の流れの設計をしてる」


 返すと、ハッサンの口元がほんのわずかにゆるんだ。


 それ以上のやり取りはなかった。けれど、もう十分だった。


 夜が更けるにつれ、役割はさらに細かく分かれていく。クリストフが印刷所から最初の刷り上がりを運びこみ、ヴィウンタが束ごとに札を差し込む。カミが茶を入れ替え、バレールが板の裏へ金具を打ち、トゥオヴィが台本の間を読み上げの呼吸で刻み、ミスラフが封印の位置を確かめる。誰かが迷えば、ヤスミンが簡図の上で指を動かし、次の一歩を決めた。


 夜半を回るころ、エドリラが新しい短文をいくつも持ち帰った。


 「染め物屋のおばさん。“水路の風で布が乾く”」


 「使う。水路脇へ」


 「鍛冶屋の弟。“朝一番の橋で父さんを待つ”」


 「北橋の手前」


 「洗濯場の婆さん。“ここで喋るから、一日が始まる”」


 カミが笑う。


 「それは茶屋の隣だね」


 言葉が集まるたび、町そのものが少しずつ姿を取り戻していく気がした。


 明け方が近づき、空の色が墨を溶いたみたいに薄くなってきたころ、最後の確認が始まる。


 ヤスミンは簡図の上の石をすべて見渡した。橋、坂、食堂、登録所、広場、舞台袖。時刻の札。運搬役。証拠束。どれも動く場所が決まっている。


 「これで行く」


 彼女が言う。


 誰も異論を出さない。


 ハッサンが図面筒を閉じ、立ち上がった。


 「最初の配置、俺はどこへ入る」


 問い方が、もう昨日までと違う。自分の判断を押すのではなく、采配へ入る者の問いだった。


 ヤスミンは迷わず答えた。


 「北橋。設置後、文書庫の束と合流して広場へ。途中で役所側の動きが見えたら、無理に止めない。先に届けて」


 「了解」


 短く、きっぱり。


 その返事を聞いた瞬間、ヤスミンは胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。重ならないと思った線が、少なくとも今夜は、ちゃんと同じ方角を向いている。


 戸を開けると、夜明け前の空気が冷たく流れこんだ。


 祭りの日の朝が、始まろうとしていた。



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