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看板職人ヤスミンは赤い糸を書き換える  作者: 乾為天女


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第12話 豪雨の夜の記憶

 雨は、一粒目が落ちた時点でもう過去を連れてくる。


 工房へ戻る途中、ヤスミンは軒先へ駆け込んだ。春の終わりの通り雨にしては粒が大きい。石畳を打つ音が、あっという間に重なる。水路の匂いが強くなり、夜の空気が一気に六年前へ似た。


 あの夜も、最初はこんな音だった。


 母は納品帰りだった。小さな札を数枚と、帳場の見出し板を包んで、いつもの近道を通った。ヤスミンは工房の戸口で待っていた。空が怪しいから早く帰ってきて、と言うつもりでいたのに、その前に雨脚が跳ね上がった。


 通りの角に、新しい避難札が出ていたのを覚えている。


 『高台へ避難』


 そう書いてあった。けれど矢印の向きだけが妙だった。ふだん水が寄る側へ、人を流す角度になっていた。ヤスミンは札の前で一度立ち止まり、胸の奥がざわついた。今思えば、あれも赤い引きつれだったのだと思う。だが当時の自分は、見えた違和感を言葉にできなかった。


 たまたまかもしれない。


 自分の思い違いかもしれない。


 大人に言って笑われたらどうしよう。


 迷っているうちに、雨は坂を川へ変えた。


 母が戻らなかったと知ったのは、夜半を過ぎてからだ。濁水へ落ちた荷板が、翌朝、水路の曲がり角で見つかった。母の荷袋はもっと下流で回収された。中の札はほとんど溶けていたのに、一本だけ筆が残っていた。


 ――気をつけて帰ってきてください。


 誰かに頼まれて書いた文だった。


 書いた言葉が残って、書いた人が戻らないことがある。


 そのことを知った夜から、ヤスミンは紙や板を見るたび、少しだけ怖くなった。


 軒先で膝を抱くように腕を組んでいると、頭上から湯気の匂いがした。


 「はい」


 差し出されたのは茶碗だった。カミが、いつのまにか隣へ立っている。


 「話さなくていいよ。飲むだけでいい」


 ヤスミンは礼も言えないまま受け取った。熱が掌へ広がる。


 カミはすぐ隣へ座らず、半歩離れて同じ雨を見た。茶屋でいつもそうするように、相手の沈黙を急かさない距離だ。


 しばらくして、ヤスミンはぽつりと口を開いた。


 「私、見たことあったんだ」


 カミは振り向かない。


 「何を」


 「おかしい札。六年前。避難の向きが変だって、思った。でも、言い切れなかった」


 雨脚がさらに強くなる。石畳を打つ音が、あの日の水音へ近づく。


 「言ってたら、違ってたかなって、ずっと思ってる」


 カミは茶碗の縁を親指でなぞった。


 「違ってたかもしれないし、違わなかったかもしれない」


 慰めにならない言葉だ。けれど、だからこそヤスミンは続きを聞けた。


 「でもね。今、その“かもしれない”に噛まれたままでいると、次の札も見逃す」


 ヤスミンは雨の向こうを見た。水路へ流れ込む雨筋が、細い糸みたいに見える。


 「分かってる。分かってるけど、怖いんだよ。書かれたもので、人が動いて、人が死ぬのが」


 声が震えた。泣くつもりはなかったのに、涙がひとつだけ先に落ちた。


 「書かれたものに、もう殺されたくない」


 それは誰に聞かせるでもない、自分の底へ向けた言葉だった。


 カミはそこで初めて、わずかに顔を向けた。


 「なら、見る目を持ってる人が黙らないことだね」


 優しくはあった。だが甘くはなかった。


 ヤスミンは目を閉じる。母の荷袋。溶けた札。言い切れなかった子どもの自分。全部が雨の匂いといっしょに胸を通っていく。


 やがて雨脚が少し弱まったころ、戸口の向こうから重い足音がした。濡れた肩を払いつつ入ってきたのはバレールだった。木工場帰りらしく、袖へ木屑が張りついている。


 「おう、二人して雨宿りか」


 「そう」


 ヤスミンは目元をこすって立ち上がった。バレールは何か言いかけて、そのまま飲み込み、代わりに工房の奥を見回す。


 「そういや、雨見てて思い出したんだが」


 彼は顎へ手をやった。


 「六年前の豪雨のあと、壊れた案内札の木枠を、何枚か倉庫へ放り込んだはずだ。処分待ちの古材の山に、まだ残ってるかもしれん」


 ヤスミンの手が止まる。


 「木枠」


 「表は削れてても、裏の釘穴や削り跡は残る。どこで差し替えたかぐらいは分かるかもな」


 カミが茶碗を置く音がした。


 ヤスミンはバレールを見た。胸の奥で、さっきまで濁っていたものが少しだけ形を取り始める。


 六年前の夜は、もう戻らない。けれど、残っているものはあるかもしれない。


 札そのものではなくても、札を支えた木枠が。


 ハッサンの父の図面と、あの夜の避難札と、今起きている差し替えをつなぐものが。


 「明日、倉庫行く」


 声は自分で思うよりはっきり出た。


 バレールがうなずく。


 「埃だらけになるぞ」


 「今さら」


 ヤスミンがそう返すと、カミが小さく笑った。


 雨はまだ降っていたが、さっきまでとは音が違って聞こえた。打ちつけるだけの雨ではなく、洗い出すための雨みたいに。


 ヤスミンは茶碗の残りを飲み干した。熱はもう、ちゃんと喉を通った。



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