第11話 本気になんてならない
その夜、納品帰りのヤスミンは、水路沿いの石段で立ち止まった。
川面は夜風で細かく乱れ、対岸の灯りを砕いている。人通りはもう少なく、遠くで皿を重ねる音と、犬を呼ぶ声が混ざるくらいだ。
石段の下から、紙をめくる気配がした。
ハッサンだった。
膝の上へ広げているのは、役所の公文書ではない。罫も押印欄もない、古い設計図だった。何度も折られて白くなった筋があり、角は布で補ってある。彼はその一枚に顔を落とし、昼間よりずっと年若く見える表情をしていた。
ヤスミンは一瞬、声をかけるか迷った。だが、隠れて通り過ぎるのも変だと思い、石段を一段だけ下りた。
「そんなところで図面と話してると、変な人に見えるよ」
ハッサンは顔を上げた。驚いたらしいが、図面を隠しはしなかった。
「君こそ、こんな時間まで納品か」
「迷子札の追加。祭り前で子どもが増えるからって」
彼女は近くへ座らず、ひとつ空けて腰を下ろした。水路の匂いが昼より冷たい。
「それ、役所のじゃないよね」
ハッサンは少し黙ってから答えた。
「父の図面だ」
ヤスミンは目を向ける。紙の上には、旧市街の路地と水路が、今より細かく描かれていた。行き止まりに見える裏道まで、人の流れが線で結ばれている。
「ずいぶん丁寧に描く人だったんだね」
「人を動かすための図面ではなく、人がもともと動いている形を残そうとした人だった」
その言い方には、説明より先に敬意があった。
ハッサンは図面の端を指先で押さえた。
「父は昔、旧市街の再整備案をまとめていた。壊して広げるのではなく、残して流れを良くする案だ。水路脇の仕事場、坂の陰になる休み場、朝だけ混む路地――そういうものを切り捨てずに、直そうとした」
「いい図面に見える」
「だから潰された」
ヤスミンは隣を見た。
ハッサンの声は平らだったが、平らすぎるぶん痛かった。
「提出前の最終版で、図面の一部が切り貼りされた。避難路と排水路の接続が変えられ、旧市街の一角が“非効率区域”として外された。父は自分の名のまま出された図面で失敗したことになり、現場から外された」
「誰がやったの」
「証明できなかった」
証明できない。役所の話としては、それで終わりなのだろう。けれど家の中では終わらない。
ハッサンは小さく息を吐いた。
「父は最後まで、図面は人を守るためのものだと言っていた。私はその言葉を、半分だけ信じて育った」
「半分」
「紙は守ることもある。だが同じだけ、切り貼りされる」
水路の上を風が渡った。設計図の端がかすかに鳴る。
ヤスミンは黙って図面を見た。線の引き方に迷いが少ない。現場へ何度も足を運んだ人の線だと分かる。
「だから、感情に酔う言葉を信用しないの?」
ハッサンは苦く笑った。
「酔ったせいで見落とすことがある」
「でも、酔わないせいで拾えないものもあるよ」
「あるだろうな」
珍しく、即座に否定しなかった。
しばらく沈黙が落ちる。水の音だけが、二人のあいだを埋めた。
やがてハッサンが、自分でも言うべきか迷うように続ける。
「私は、何かに本気で寄りかかるのが苦手だ。図面でも、人でも、町でも。信じて寄せたぶんだけ、切られたときに手元が空く」
ヤスミンは返事を急がなかった。冗談で受けるには重いし、正面から慰めるには、彼はまだそこまで差し出していない。
「だから、本気になんてならない」
言った直後、ハッサンは自分の言葉に先に傷ついたみたいな顔をした。
たぶん、言うつもりではなかったのだろう。
ヤスミンはその横顔を見て、腹を立てるより先に、胸のどこかが冷えた。町にも、人にも、本気にならない。そう口にする人が、毎日あの図面を持ち歩いている。
矛盾している。けれど、その矛盾ごと抱えているから、こんな顔になるのだ。
「似合わない」
彼女は小さく言った。
「何がだ」
「本気にならない、って台詞。あんた、向いてないよ」
ハッサンは目を瞬いた。
ヤスミンは水路を見たまま続ける。
「本気じゃない人は、食堂の許可札にあんな顔しない。橋の位置ずれをあんなに書き込まない。嫌なら最初から、旧市街の仕事なんて紙だけ回して終わらせる」
ハッサンは答えなかった。だが図面を押さえる指だけ、少し強くなった。
「……君は、言いにくいことを言うのがうまいな」
「ことば屋だからね」
そう返しながらも、ヤスミンの胸には別のものが引っかかっていた。
六年前の豪雨の夜。濁流。避難札。母の濡れた荷袋。
感情に酔う言葉を信用しないという彼の声が、あの夜、自分が言い切れなかったことと重なる。
立ち上がると、衣の裾に石段の冷たさが残った。
「帰る」
「送ろうか」
「水路二つ分だけだし、平気」
それから少し考えて、ヤスミンは振り返った。
「でも、その図面は大事にしなよ。あんた、なくしたら、たぶん本気で困るから」
今度こそ、ハッサンはほんの少しだけ笑った。
「そうだな」
その笑い方を見た瞬間、ヤスミンは余計に胸がざわついた。優しいからではない。優しくし慣れていない人が、ようやく力を抜いた顔だったからだ。
帰り道、遠くで雷が鳴った。
乾いた夜気の底に、湿った匂いが混ざり始める。
ヤスミンは足を速めた。けれど水路沿いの石壁へ雨の匂いが当たった瞬間、六年前の夜が、不意に目の裏へ立ち上がった。




