第10話 消えた営業許可
翌朝、エドリラは昨日よりひどい勢いで工房へ飛び込んできた。
「大変だよ、食堂が止められる!」
椅子を引く音まで途中だった。ヤスミンは筆を置くより先に戸口へ出る。ハッサンも後ろからついてきた。
食堂の前には、すでに近所の人が何人か集まっていた。老主人は戸口の脇で青ざめ、老婦人は掲示板を見上げたまま立ち尽くしている。
そこへ貼られていた営業許可掲示は、昨日までのものと違っていた。
『営業停止 許可番号照合不能のため、本日より業務を禁ずる』
文だけ見れば役所の掲示だ。だがヤスミンには、末尾の「禁ずる」のところへ急いで差し込んだような赤い引きつれが見えた。乾きの浅い墨ではない。もっと嫌な、無理やり決めた跡だ。
「違う」
彼女はすぐ言った。
「これ、昨夜のうちに替えられてる」
老婦人が振り向く。
「うち、何もしてないよ。番号の札だって昨日まで――」
「落ち着いてください」
ハッサンは壁から掲示を外さず、まず番号欄だけを見た。次に腰の文書筒から控えを書き写した小帳を取り出し、素早く照合する。
「この番号、別店舗のものだ」
「別店舗?」
「染め物屋の許可番号です。西二路の角にある」
ヤスミンは思わず壁を見上げた。たしかに番号だけが奇妙に浮いていた。文面の型は食堂向けなのに、その数字列だけ板の上へ居座っていない。
「つまり、入れ替えたの」
「そういうことになる」
老主人の膝が少し折れた。エドリラがとっさに肘を支える。
「じゃあ止められないんだね」
「正しい控えがあれば、その場で争える」
ハッサンはそう言っても、口調を強めなかった。争える、と言うのは、そのための紙が必要だという意味でもあるからだ。
「ヴィウンタを呼ぶ」
ヤスミンが言うより先に、エドリラが「行ってくる」と駆け出した。
近所の者たちがざわめく中、パゾスが遅れて現れ、掲示を見た瞬間に顔から軽さが消えた。
「昨日、灯が戻ったから、今朝これか」
「ええ。嫌がらせにしては手間が細かい」
ハッサンは壁の釘の打ち直し跡を確かめた。
「夜中に一度外して、番号欄だけ差し替えている。元の掲示をそのまま持っていった可能性が高い」
「元のがないと、食堂側は証明できない」
ヤスミンが言う。
「だから持っていった」
数刻もせず、ヴィウンタが帳箱を抱えて到着した。息は上がっていたが、口調はいつもと同じだ。
「食堂の受注控え、納品控え、筆耕控え、写し帳の順に持ってきました」
「全部?」
「必要そうだったので」
必要そう、で全部持ってくるのがヴィウンタだった。
彼女は戸口の台へ帳面を広げ、ページを迷いなくめくる。受注日、書式、許可番号、掲示位置。指先が一度だけ止まる。
「ありました。こちらが正しい写しです」
差し出された紙には、昨日まで壁に掛かっていた番号が記され、役所の押印位置も一致していた。ハッサンはそれを見てすぐ、壁の掲示と並べる。
「桁が二つ入れ替えられているだけだ」
「二つだけ?」
老婦人が呆然とした顔で言う。
「そんな少しで、店を閉めさせられるのかい」
ハッサンは短くうなずいた。
「少しだからこそ、誰かが気づく前に効く」
その言葉で、ヤスミンの背中が冷えた。
橋の案内板。縁談登録札。営業許可掲示。
全部、いきなり奪うやり方ではない。ほんの少し進路をずらし、ほんの少し名を入れ替え、ほんの少し番号を狂わせる。それだけで、人は自分の場所からこぼれ落ちる。
「少しずつ権利を削ってる」
ヤスミンがつぶやく。
ハッサンが視線を上げた。
「同じ方向で揃いすぎている」
老夫婦の食堂だけでは終わらなかった。
ヴィウンタが帳箱の底から別の紙束を出す。
「今朝、ついでに近隣の小店の控えも確認しました。菓子屋、蝋燭屋、繕い屋。三軒とも、ここ数日のうちに掲示の訂正が入っています」
「訂正?」
「許可の種類、営業時間、扱い品目。どれも“すぐには閉まらないけれど、客が減る”方向です」
パゾスが低く舌打ちした。
「芝居小屋へ来る客だけ増やしたいって顔じゃないな。町の小さい店を順番に弱らせてる」
「空いたところを、あとでまとめて拾う気かもしれない」
ハッサンが言う。
誰が。何のために。まだ名は確定しない。けれど手口の癖だけは、はっきりしてきた。
ヤスミンは壁の掲示へもう一度触れた。赤い引きつれの先には、昨夜のあの影がいる気がした。
「今日の営業は」
老主人が恐る恐る問う。
ハッサンはヴィウンタの写しを受け取り、その場で簡易の確認札を書きつけた。
『原掲示の控え照合中 営業継続可』
役所印の代わりに、自分の身分章を押す。
「正式な差し止めではありません。私の責任で、今日の営業は続けてください」
老婦人が両手で口を押さえた。
「ほんとかい」
「はい。ただし壁の掲示は外さない。証拠になる」
ヤスミンが横から言う。
「営業の札は別に出す。昨日の板もそのまま使おう」
食堂が開き直る支度を始めるのを見届けてから、ハッサンは少し離れた水路脇へ移った。朝の光が紙の端を白くしている。
「局の内部帳簿を見る」
「危なくない?」
ヤスミンが問う。
「危なくない見方では足りない」
彼は昨日よりさらに低い声で言った。
「許可番号の移し替えは、外だけではできない。控えの流れ、再発行の記録、押印管理……どこかで内側の手が入っている」
「協力してくれる人はいるの」
「一人だけ当てがある。文書庫番のミスラフだ。規則で動く男だが、記録の歪みは嫌う」
「それで足りる?」
「足りなくてもやる」
答えたあと、ハッサンはわずかに苦い顔をした。自分が今から渡る橋の細さを、ちゃんと分かっている顔だった。
ヤスミンは何か言おうとして、やめた。
止めればいいわけでもない。背中を押すのも違う。だからただ、昨日の板の文を思い出しながら言う。
「戻ってきてよ」
ハッサンはそれにすぐ返事をしなかった。
けれど数拍おいて、「そのつもりだ」とだけ言い、局の方角へ歩き出した。
水路の光が、靴先で細く揺れた。




