第13話 六年前の木枠
翌朝、バレールの倉庫は、開けた瞬間からくしゃみの出そうな空気だった。
木屑と古布と乾いた油の匂いが、長い年月の層になって積もっている。壁際には折れた脚立、外された扉板、祭り飾りの骨組み、用途を忘れられた箱が天井近くまで重なっていた。
「言っとくが、宝の山じゃないぞ」
バレールが鍵を放り上げて受け止める。
「だいたいは、捨てそびれた木の墓場だ」
「墓場なら静かに探せばいい?」
ヤスミンが袖をまくると、パゾスが胸を張った。
「いや、こういう場所は掛け声が大事だ。古き板よ、真実を見せよ」
「黙って板をどけて」
エドリラが即座に切り捨て、積まれた木枠の端へ肩を入れる。ハッサンも上着を脱いで畳み、図面筒の代わりに軍手のような古布を手へ巻いた。役所の男が埃まみれになる絵は似合わないのに、その手つきだけは妙に迷いがない。
木枠を引き出すたび、埃が細い雲になって立つ。古い案内札の残骸、祭礼看板の裏板、店じまいした染め物屋の見出し。どれも町の時間を吸って重くなっていた。
「これは違う」
バレールが一枚ずつ確かめる。
「これは四年前の菓子屋。こっちは水路改修の時の仮札。こっちは……いや、ただの棚板だな」
パゾスは役に立たない口上を続けた。
「ほら見ろ、棚板にだって人生がある」
「今は人生より釘穴」
ヴィウンタがしゃがんだまま言う。彼女は控え帳を膝に置き、見つかった木枠の大きさと釘間隔を淡々と書き留めていた。
昼近くになったころ、エドリラが奥の壁際から低く声を上げた。
「これ、見て」
運び出されたのは、半分だけ焦げ跡のある木枠だった。表の板は剥がされているが、裏側の中央に、削り取られた文字の筋が残っている。
バレールがしゃがみ込む。
「板ごと無理に剥がしてる。急いだ跡だな」
ヤスミンは木枠へ手を置いた。
ざらついた木肌の下で、薄く、けれど確かに赤い引きつれが指先を刺した。長い時間のあいだ木へ染みこんで、ほとんど消えかけた痛みだった。
彼女は息を止める。
削られた跡を追うと、残っているのは文字ではなく、文字がいた場所の癖だけだ。それでも、流れは分かった。矢印の始まりと終わりが、表へ出ていた向きと逆を向いている。
「……逆だ」
「何が」
ハッサンがすぐ隣へ来る。
ヤスミンは木枠の右上を指した。
「表に出てた矢印は、こっちへ逃がす形だった。でも元は反対。高台へ上げる向きじゃなくて、水路から離す向きに引いてある」
ハッサンは父の設計図を広げた。折れ目だらけの紙のうえで、六年前の避難路が細く走っている。
彼の指が一か所で止まった。
「この木枠の寸法なら、立っていたのは東の角だ」
「うん」
「そして父の図面でも、そこは北へ逃がすのが正しい」
ヤスミンは頬の内側を噛んだ。
六年前の自分が見た違和感は、思い違いではなかった。
たまたまではなかった。
怖がって、言い切れなかっただけで、本当に札は差し替えられていたのだ。
「事故は、雨だけじゃなかった」
彼女の声がかすれた。
バレールが木枠の裏をひっくり返す。角の近くに、小さな焼き印が残っていた。普段なら見逃すほどの薄さだが、木地へ深く入った印は消えない。
「発注印だ」
彼は埃を指で払った。
そこに残っていたのは、よく見覚えのある商印だった。
輪の中に三本線。その下に、小さく家名。
ラージン商会。
ハッサンが息を呑む音がした。
現在、水路補修で何度も名が挙がっている外注先と、同じ印だった。
倉庫の中がしんとする。さっきまでうるさかったパゾスでさえ、口を閉じた。
六年前の濁流の夜と、いま旧市街の店や娘たちを追い詰めている線が、木屑だらけの床の上で一本につながった。
ヤスミンは木枠から手を離せなかった。
罪悪感が消えたわけではない。けれど、その重さの形が変わっていくのが分かった。
自分が黙ったせいだけで起きたことではなかった。誰かが最初から、流れを曲げていた。
「持ち帰ろう」
ハッサンが低く言う。
「これは、今の不正と切り離せない」
バレールがうなずく。
「木枠なら、表の板を消しても残る。釘穴も削り跡も、嘘をつきにくい」
倉庫の戸を開けると、昼の光が埃を白く透かした。外の風は乾いているのに、ヤスミンには水の匂いがした。
六年前の夜から、ようやく一本、現実の証拠がこちらへ戻ってきた気がした。




