地図の用途・呼んだ、呼んでない
寝転んだ私の身体の上に覆いかぶさるような体勢。
うつぶせに寝転んだ私の身体にふんわりと乗る身体。
それでもアステライトの大きな身体に押し潰されて、私はすぐにぺしゃりとまた地図の上に戻る。
「みゃぐんっ」
もちろん全体重がかかったわけではない。
とても気を遣われた、のしかかり。
でも、あっという間に全く身動きが取れなくなった。
「地図の上でなにをしてたんだ? ……各町からの出身者数か?」
私の後ろから地図を見下ろす、アステライトの話す声に乗る息が、耳に、首元にかかる。
背中に密着した、彼も寝衣なんだろう、薄い布越しの体温や、たくましい筋肉の硬さなんかを感じてゾクゾクと身体の奥底が震えた。
冷えた身体に染み込むような熱。
それを感じたのはいつぶりだ?
日数として数えれば結構前。
だけどそんなことを言ったら、たった一度、最後にと諦めて肌を重ねたのはもう二年近く前になるし、男女の関係でなくお互いの熱を感じ合ったのはもっと前だ。
一月にも満たない数日前の感覚を、まるで遠い日々から心待ちにしていたかのような渇求で感じ取る。
この熱を、アステライトの匂いを、声を、距離なんてない距離で感じたいと渇望していた自分を知らしめられるようだった。
彼の寝台の上で、一人目覚めた朝の寂しさ。
戦線に行ってしまった彼の安否に、怯えて無事を祈るしかできない一人寝の夜の寂しさ。
それを吹き飛ばすみたいに、こみ上げる嬉しさ。
今こうして触れ合っている。
そばにいる。
私の口からアステライトの大きな手が離れていき、握ったままだったペンを奪おうとそっと手に触れてくる。
指に絡む指、大きな手のひら。
「いつからこんな格好で作業してたの? 手も冷たい。そりゃ、くしゃみも出るよ」
ペンを奪われ、それを目で追う。
振り向ききれないほど近くに、アステライトの髪が、頬があった。
「地図を欲しがった理由はこれか。……なるほどな。この状態で砦と小城とダンジョンの位置、あと拠点にしたことのある位置を書き込めば一目でそのあたりの地理把握の粗さが見える。過去の軍行の足取りを重ね合わせたら、探索の薄い場所が明確で、その地域の近くに住んでいる兵士に話を聞けたなら一気に地理情報が得られる、と。境界の森の中で踏み入れていない個所も吹きだまりの発見も早そうだ。未発見のダンジョンさえ、見つけられるかもな」
すぐさま地図の活用方法を理解して、感心したと言わんばかりの明るい声を聞かせてくれるアステライト。
なんだかむず痒い気分になってしまうのを押し込めた。
「これらはまだ兵士たちのみの情報からですので、近々使用人たちの名簿も一新し、そちらの分も書き込むつもりです。色違いのインクで……」
「使用人たちもか?」
「はい」
うなずく私の髪に、アステライトの息がかかっている気がする。
こそばゆい感触に気を取られないようにしながら、説明を続けた。
「戦士になりたくて志願し城へ来た者と、使用人になりたくて城に来たものとでは大きく幼少期の環境や経験が違うでしょう。それは住んでいた地域の状況から影響したと思われます。そして、そこにやはり差は生まれ、知り得る情報は違うものだと思っております」
アステライトがゆっくりと地図の細やかな道をなぞる。
「川、小道、地形、生息植物、動物、出やすい魔物、各地域に出向いてから把握するより、少しでも事前に知っているとやはり違う。過信は駄目だが、情報はあって損はない」
「はい。各町、地域に赴くときも、やはり一人でも地元の者が居れば対応は違うものとなります。これは領内よりも領外のほうが顕著かと」
「ああ、そうだろうな」
アステライトはじっと地図を見つめて、ところどころ考えがあるように指を滑らせていく。
口を閉ざして、背後に感じる狼辺境伯の、戦士アステライトの真剣な気配に息を呑む気持ちだった。
「さすがだ、リオノーラ。それに、あの兵たちの名簿のことも。砦や小城、地方に詰めている者たちにも同じようにしたい」
あ、今、褒められたんだろうか?
嬉しくなってしまって、胸の奥が騒いだ。
それを悟られないようにと思いながら、地図に触れているアステライトの大きな手に視線を注ぎ続けた。
「では、すでにやり方をよく把握した文官たちの中から派遣するといいと思います。私の名をお使いになるのでしたらいくらでもどうぞ」
「万が一にも潜んでいる間者のあぶり出しのためにか。……そうだな『辺境伯夫人からの施し』と銘打って、リオノーラの名を借りよう。だが、私財はもう出さないでくれ。俺が出す」
それはアステライトの私財から? それとも軍費から?
結婚式のときに言ったとおり、私のわがままのために大事な領民の血税を使う気にはなれない。
城内のものには私の私財ですべてを払ったのだから、同じように、領内に点在する砦や小城、ウォルフィンリード軍に所属する全兵士に、私からと、等しく施されるものとなって構わないのに。
……気を遣われてしまったんだろうか?
「出せますよ? まだ売ってない、月の雫以外の宝石もありますし」
ありがたいことに、ビオラがエルトフォード家から持ってきてくれた宝飾品はどれもこれも良い値で売れるものばかりだった。
やがてウォルフィンリードを去るのに、また持って帰るわけにもいかないだろう。
手放すことは惜しくないし、役に立つだけ立たせることができるのだから、ろくに着飾りもしない私の身を飾るよりよっぽど……。
「だーかーらーっ!!」
苛立ちの声と共に、身体にかかっている重さが増した。
のしっ、とアステライトの重みの圧迫感に潰れる。
「ぴぎゃっ?!」
「リオノーラに私財をこれ以上使わせる気はない!!」
「でも……」
「でも、は、いらん!! ほら、そろそろ今日はもう終わって寝よう。手も足もこんなに冷たくなっ…て……」
チラリとアステライトが私の足のほうへ視線を送って、なぜか止まった。
ネグリジェタイプの寝衣姿。もちろん素足。
そんななりで床に広げた地図の上に寝転んでいた。はしたないと言われても言い返す言葉はない。
今はアステライトに上に乗られて身動きが取れない。
かろうじて足首から先は動かせるけれど、ほかはどうしようもなく、アステライトが上に乗っているから裾がどうなっているかを見ることもできない。
アステライトはちょっと動いて、ネグリジェの裾をそっと直してくれてから黙ってうつむいてしまった。
結局どんなことになっていたかはあんまり分からなかった。
恥ずかしくは思うけれど、そもそも私が自由にできる自室に勝手に入ってきたのはアステライトなのだから、責められるのも怒られるのも理不尽じゃないかな?
「なにか御用ですか? いつお越しになったのですか? ノックの音も気づきませんでした。足音も気づかなかったし」
口を尖らせ、文句を言ってやる。
「ん? ノックは確かにしなかったが、ドアを開けたのは気づかなかったか?」
「ノックくらいしてください!!」
「どうして? このウォルフィンリードで、俺の城で、俺が訪れるのを遠慮しなきゃいけない場所なんてないぞ? それがたとえ妻の部屋でもだ。……衣装部屋と水場だったら、もちろん気を遣うがな」
「うぐぅ…っ」
そういえばエルトフォード城でも、ソーラス兄様も同じようなものだった。
もちろん、兄様が私の部屋に先触れなしで乗り込んできたことは一度もないけれど。
「な、リオノーラ、そろそろ寝よう?」
優しく優しく、耳元で囁かれる。
ビクリと反射的に肩が震えた。
時刻も遅いから睡眠を促されている?
……寝よう、って……、……一緒に?
いやいや、まさか。そんなわけがない。
自惚れも大概にしなきゃ
「アステライト様はどうぞ寝室へ行ってくださいませ。私はこれをキリのいいところまで終わらせてからにします」
プイとそっぽ向く。
日中鼻血を吹くような疲れ方をしているんだ。私なんて放っておいて、さっさと寝たらいいのに。
「駄目だ。冷えてくしゃみまでしてるのに、今日はもう終わってくれ」
「大丈夫です。誰かさんが上に乗ってくださったから温まりました!! ……いい加減どいてください!! 動けないぃっ!!」
奪われて地図の端っこに置かれたペンに手を伸ばそうとしても届かない。
もぞもぞ動こうとしても動ききれない。
硬くてたくましくて熱い身体が背後にぴったりくっついている。
そのおかげで、暖はしっかり取らせてもらった。
ただ、お尻のところに当たっている、柔らかいような硬いようなものはなんだろうと思う。
「待っ…っ!! もぞもぞしないでくれ!! それと、ペンはもう駄目。今日はもう駄目。そんなこと言うなら、強制的に連れて行く」
連れて行くってどこへ?
「そんな…、ひゃあ?!」
起き上がるのも軽々と、私を抱き上げるのも軽々と、アステライトは立ち上がって私をその胸に抱いた。
そして、この私の部屋のリビングから内鍵を開けて隣の夫婦の寝室へ。
夫婦の寝室ってこんなふうなんだ、と内装に感心した。
そこにある大きなベッドに見向きもせずに、また続きのドアを開けて、アステライトの自室のリビングへと通り抜ける。
ドアが閉められ、アステライトは私を抱いたまま、さも当然のように寝室に向かい、彼の大きな寝台の上に私を下ろした。
そして、流れるように身を寄せられる。
優しい抱擁と、頬が触れ合うほどの密着さ加減。
背に回された、この身を支える大きな手の感触。
「なぁ、リオ、二人だけのとき、この部屋にいるときだけでいい。この前みたいに、俺を『ステラ』と呼んでくれ」
優しい声で懇願される。
……この前みたいに、とは?
「呼んでない!!」
ただひたすら驚いて、叫ぶように否定した。
「……え?」
「呼ばない、呼んでない。あなたをその名で、二度と」
呼ぶ気はない。
呼ぶとしたら心の中でだけで、その名で呼びかけようなんて絶対にしないと決めている。
だって、それは、……存在しない、愛した人の名前で。
嘘と偽りでその片目と身分さえ私に隠した人。
身分という垣根がなかったからこそ親切にしてくれた人。
森に暮らす魔女のリオを心配してくれた人。
決して狼辺境伯アステライトと同じ人ではない。
「なにを言って……? いっぱい呼んでくれただろ? 俺の目が無事で良かったって、この瞳の色が好きだって話してくれながら」
アステライトが言った言葉が理解できなくて、数瞬、真顔で考えた。
そして、跳ねるように反応した。
「なにそれ?! いっぱい?! それになんでバレて…っ?! 目が無事だったのは確かに良かったけど…っ」
「他の人は嫌だけど、俺ならいいんだろ? 口づけをする相手は」
「そんなこと…っ」
言っていないと否定したかったのに、優しく重なった唇から逃れられなかった。
肉厚の舌が、舌に絡む。
頭の芯が蕩けるような感覚を味わう。
「覚えてないのか? 俺の手は気持ちいいって言ってくれたろう? たくさん、ステラと呼んでくれながら」
唇が離れて、アステライトの大きくて優しくて器用で無骨な手が、身体を丁寧に撫でていく。
もう覚えたと言いたげに、私の身体の線をなぞっていく。
「ん、あ…っ、そんなの、知らない…っ!!」
寝衣の薄布越しに撫でられる、焦れったさと恥ずかしさで息が上がる。
どうしよう、恥ずかしすぎる。
よく考えれば、今まで全部、勢いがすごかったというか、言葉を交わすような冷静さなんか無しで行為に及んでいたものばかり。
壊れものを扱うような優しさでゆっくりと触れる手。
私が反応を見せる場所を探して、私が反応したならばそれを見逃すまいと至近距離で見つめる、大好きな青空色のアステライトの瞳。
鼓動がおかしいくらいに早鐘を打っている。
あなたの名を呼びながら、私、そんなことを言ったの?
……なんてことを言ったの?!
「なんてこった……。酒のせいか? 本当に覚えてないのか?」
「お酒……? お酒は苦手です」
成人してから何度か挑戦してみたが、あの苦味なんかがどうしても好きになれず、どんなものもほとんど舐めるだけで断念した。
だからお酒なんて飲むわけないんだけど?
「ホントに覚えてないのか……。くそ…っ、しかたねぇ」
アステライトの残念そうな悪態を聞いて、少しほっとした。
なにか納得してくれたようだ。
これならもうこれ以上のことはきっとせずに終わるに違いな……。
「リオが気持ちいいって言ってくれたこと、思い出すまでするから」
「え」
「大丈夫。ちゃんと溶けちゃうまで、優しくするから」
「違…っ、違う…っ、しないのが普通なんじゃ…っ?!」
白い結婚の約束は?!
身を引いて逃げ出そうとしたけれど、大きな手はしっかり私を抱き支えていて離さない。
「やっぱり覚えてる?」
「なにを?!」
アステライトは眉を寄せて、少し表情を歪めた。
「あー…、リオノーラは俺のなんだ?」
「妻ですけど……」
名ばかりの。
アステライトは目を細めて、私の寝衣の裾から手を忍び込ませ、足に触れた。
ビクリと身が跳ねる。
「アステライト様…っ」
「いつ『ステラ』と呼んでくれても構わないからな?」
ぶんぶんと必死で頭を振る。
それさえ楽しげに、アステライトはにやりと笑った。
リオノーラ
アステライト




