地図を広げて
リオノーラ視点
就寝の準備はもう終えて、寝衣で部屋に一人。
だからこそ、自室の床に譲り受けた、まるで絨毯ほどはあろうかという大きな地図を広げて、その上にうつ伏せに寝転んでペンを持つ。
片手に今日まとめ終わった兵士たちの名簿の、さらに簡略化したものの写し。
それと地図を照らし合わせながら、小さな字で書き込んでいく。
ウォルフィンリード城城下町から始めて、書き込みを間違わないように確かめて、数を入れる。
丁寧に町の位置、村の位置を確かめて、また名簿と見比べて数を書き込む。
独立した家や、村とまで呼べない集落の位置も確認して、印と数字を入れる。
そうこれは、軍に所属する兵士たちがどの町、村、集落、地域の出身かを一目で把握するための地図だ。
またじっと名簿を読んで間違いがないことを確認してから書き込む。
その場所から来ている兵士の人数だ。
こうしておけば、その地域の地理に明るい兵士がどれだけいるか一目で分かる。
そして、どの地域の出身者が少なく、その地域との関わりが薄いかが分かる。
砦の位置、小城の位置、ダンジョンの位置とそこに出来上がる冒険集落の位置と規模。
それを当てはめれば、もっと色々なものが見えてくる。
出来上がればもちろんアステライトに見せる。
これをどうするかは、彼に決めてもらう。
私がやっているのは義務でもなんでもない。ただの、できるからというだけのまとめだ。
地図での分布確認。
母に教えてもらって最初に作ったものは、境界の森の家の周りに生息する薬草の分布図だった。
エルトフォード公爵家に令嬢として迎えなおされてから気づいた。
同じような分布図は、兄様が使うエルトフォード公爵家の策謀室にもあった。
戦士兵士たちの出身地、使用人たちの出身地には明確な書き込みがあり、数年ごとに更新されて、何枚も積み重ねてあった。
これもそれと同じようなもの。
ただし、エルトフォード公爵家と比べて、ウォルフィンリード辺境伯領の兵士たちの数があまりにも違う。
その分、地形理解の差も出るだろう。
丁寧に情報を書き加えながら、考える。
たとえばエルトフォードとウォルフィンリードがいがみ合いでもしたら。
私が作ったこの地図は両家にとって凄まじい情報源となるだろう。
そして、エルトフォード公爵領の地図の内容を頭の中に入れている私自身も。
アステライトとソーラス兄様がいがみ合う?
そんな恐ろしいことになってほしくない。
片や国内最大級の軍、そして強者揃いの兵士戦士を保持し率いる、戦の申し子と呼ばれる当主。
片や次代の宰相と囁かれる知恵者で、一言一行で世の情報を操る魅惑の策略家である当主。
武と知恵。
軍事戦と情報戦。
どちらが強いか証明するとか決着が着くとかいう前に、そもそも国が割れることになる。
国を支える最大の二大勢力がぶつかり合うなどあってはならず、間違いなく王家が血相変えて止めにくる事態だ。
止められなかったら大変なことになるのは、幼子でも分かるだろう。
手を止めて、ぺしゃりと地図の上に突っ伏した。
乾いたばかりのインクの匂いが、顔の下、地図から香る。
間違っても、私がその原因になってはいけない。
もとよりソーラス兄様とアステライトの仲はそれほど悪くなかったのだから、私という異物が入ったことで悪い方へ転がることだけは絶対にあってはならない。
二人の関係性の、迷惑になってはいけない。
『迷惑なんかじゃない、リオノーラ』
アステライトが言ってくれた言葉を思い出して、うつ伏せのままほんの少し顔を横に向けた。
ぼんやりと、夫婦の寝室へと続くドアを見つめる。
こちらからの内鍵はかけられたまま。
夫婦の寝室を使ったことは一度もない。
『きっとこれからも、使うことはないはず……』
ゆっくりとまばたきをして、ゆっくりと深い息を吐く。
『リオノーラが不安に思っていることは、全部解消する』
いったい、どの不安を?
全部って、そんなことできるわけがない。
考えれば考えるだけ溢れてくる不安と、私という迷惑でしかない存在を自分でもどう扱っていいか分からないのに、それをアステライトに解決してもらおうなんて思わない。
『リオノーラの無事は、安全は、必ず守る』
そう言わせてしまったことが、すでに証明だ。
私は守られなければいけない立場なのだ。
一人ではなにも解決できない、迷惑な存在。
強くて立派な狼辺境伯アステライト様に、相変わらず子供扱いされて、心配されて、庇護を受けなければいけないような。
だからといってそれを甘んじて受け入れて大人しくだけしているなんてできなくて、なにかできないかと無駄な努力をしようとしている。
全部、自分のための自己満足。
誰かのためになっていると思い込んで、わがままを通しているだけ。
そしてそのわがままに、多くの人を巻き込んでいる。
悪循環でしかない。
ずっと一人でいたから、それが当たり前だったから、自分の存在が誰かの迷惑になるのはとても嫌だ。
それなら、一人に戻るほうがいい。
……でも、兄様が寂しがってしまうのは嫌だ。
だから、やっぱり全部を投げ出してただのリオに戻ることはできないんだなと、思考がいつもどおり一巡するだけだった。
『だから、どこにも行かないでくれ、ここにいてくれ。……俺の、妻として』
はいと答えた。
答えるしかなかった。
だって、事実「白い結婚」をして、私とアステライトはもう夫婦だし、彼の妻であることは間違いない。
ソーラス兄様が帰ってくるまで、このウォルフィンリード城以外にいられる場所なんてない。
ここから出たら、迷惑になる。
ソーラス兄様の。
王太子殿下の。
エルトフォード公爵家みんなの。
……アステライトの。
『ああ、消えてなくなりたい……』
そしたら、全部解決するのに。
煩わしい私が消えたら、スッキリするのに。
それでも今日はアステライトと少し、とても自然に話ができた。
嬉しかった。
こんな日が続けばいいのに、と思う。
彼が軍行から無事帰ってきて、心底ほっとした。
ボロボロにもなっていないその姿を見て、何度も安堵を覚える。
似合っていますかと頑張って聞いてみた、アステライトの色味のウォルフィンリード流の服。
褒めてくれるとかはやっぱりなかったなぁ。
今までも一度も、私の容姿のことをなにか言ったことはなかったもんなぁ。
かろうじて、父様の髪色を継いだのだなと言ってくれた程度だ。
『……想い人さんにしか、興味がないんだろうなぁ……』
きっと想い人さんは、アステライトに綺麗だって褒めてもらえるんだろうな。
「……羨ましいなぁ」
ぼそりと呟いた声が、独りの部屋に虚しく響いた。
諦めると決めたのに、意志薄弱。
なにかの間違いで今まで身体の関係があったけれど、もう二度とそんなことは起こるまい。
そう確かに思えるほど、今日のアステライトは落ち着いて見えた。
結婚式の後や、その翌日の鬼気迫る切羽詰まった悲壮感が消えたのは、ちゃんとお昼寝をして、冷静さを取り戻したからだろう。
溜まりに溜まっていた疲労が緩和されて、思考も正常化されたんだ。
それなら、アステライトが、……ステラが、間違った行動を取るわけなんてない。
私とのことは、疲れと再会の驚きに混乱したうえでの気の迷いだったに違いない。
うん、納得だ。
さて、作業に戻ろう。
自己満足のわがままの、ろくでもない行動でも、やると決めて実行したのならやり遂げて終えなければ迷惑どころじゃない。
私に内政のことをよく教えてくれた父様や兄様、果ては母様にだって見下げ果てられてしまうのは、嫌だから。
部屋の中にペンを走らせる音だけが響く。
何度も名簿を見返して、間違いがないように地図に書き込む。
ようやく半分ほど終わっただろうか?
さすが、数が多い。
「兵士たちの分が終わったら、次は使用人たちのほうも手を入れたいな……。新しい寝具はやっぱりみんな欲しいだろうし。それから砦や小城のほうにも、手を…、…っくしゅん!!」
くしゃみが出て、口元を押さえる。
どうやら冷えてしまったようだ。
今日はもうここまでにして、早くベッドに入ったほうがいいかも……。
くしゃみで閉じていた目を開くと、使っているインクのふたを片手で器用に閉める大きな手が視界に入った。
息を呑んで、目を見開く。
「さすがに、その格好ははしたなくないか? リオノーラ?」
笑いを含んで、降ってくる声。
足音なんてしなかった。
気配もしなかった。
ドアが開閉する音も聞いていない。
それなのに、地図の上に寝転ぶ私のそばに、ほとんど真上に、身を屈めたアステライトがいた。
「ひゃぁ…っんむぐ!!」
「叫ばない。驚かせて悪かった」
叫びかけた私の口を、アステライトの大きな手が塞いだ。
リオノーラ
アステライト




