目覚め、見えるもの
現代
アステライト視点
……眠りから、覚めていく。
だけどまだ目を開けられない。
いまだ身を苛んでいる疲労は色濃い。
それでも、覚醒を促してくる目覚めの気配。
触れているものが柔らかくて暖かくて、腕の中にこのまま抱いて眠っていたいとひどく素直に思う。
誰かが誰かと会話している声が、目覚めかける意識の端で聞こえている。
一体何の会話だろう? 聞こえてくる声は慣れ親しんだ家令長シアンの声だと聞き取れる。
もう一人は?
ええと、俺はどこで眠ったんだっけ?
シアンの声が聞こえてくるなら、ここは戦場じゃない。
城の中の…? 自室じゃなくて…?
微睡み、追いつかない思考の中、ふわりと頭を撫でられた。
細い指が俺の髪を梳く。
驚いたけれど、撫でられたその感触の気持ちよ良さにこそ驚いた。
シアンと誰かの会話は続いている。
それなのに、細い指は俺の髪を撫で続けている。
小さくて柔らかくて温かい手の感触が、うっとりするほど気持ちいい。
このままもう一度深く眠りに落ちたいとさえ思う心地良さ。
そんな意思に反して、明瞭になっていく意識。
ああ、嫌だ。
眠ったら目覚めたくない。
目覚めているなら眠りたくない。
正直、辛い。
戦っている間のほうが、いらないことを考えなくて済むんだ。
どうしてそんな風に感じるようになったんだっけ?
……いや、違う。
今は前とはまた違う感情を持っていて。
「……これは、…大丈夫でしょう…、急ぎのものは……、次に……」
「奥様……、……以上で…、陽が……、そろそろ…」
聞き取れる会話が近くなる。
シアンの声と、耳に心地良い、優しい女性の声。
「そうですね、少し気温が下がりました。夜は雨が降るかもしれません。このままここで寝かせていると風邪を引いてしまうかも」
「ご当主様が風邪を引かれるなど、何年来という珍しい現象です」
「ウォルフィンリードの血脈は身体強化や治癒強化や病気に強いご様子ですか? それでも不摂生はいただけませんよ?」
「ごもっともです、奥様。歴代の方たちも過信ではなく確信で身体を平気で酷使される方が多く、歴代の奥様方は大変なご苦労をされておられました」
「どこの貴族の家でも男の方は…、まったく……」
呆れた声に乗る、優しい笑い。
そうやって、笑っていて欲しいと望んだ。
俺のそばで。
目を開いた。
彼女の膝の上から、抱きしめたまま見上げる。
陽の傾いた夕焼けの空を背に、揺れる艶やかな黒髪。
俺が目覚めたことに気づいて、黒い瞳の視線が落ちる。
「おはよう、よく眠れた?」
そう、微笑んで聞いてくれる。
俺の頭を撫でていた彼女の手がぱっと離れた。
どうやら、彼女は無意識に眠っていた俺の頭を撫でていたようだ。自分がやっていた行動に気づいて、申し訳なさそうな、恥ずかしそうな面持ちで、その小さな手をそっと後ろに隠した。
それが惜しくて。
リオが自分から離れようとする些細な挙動の一つにさえ、胸がざわついた。
「どこにも行かないでくれ!!」
「ひゃあ?!」
「リオ、頼む、ここにいてくれ。お願いだ…っ!!」
「え、あ、でも…?」
俺から身を引いて距離を取ろうとしかけたリオノーラを引き止めて、細い身体に回した腕に再び力を込めた。
「リオ…ッ」
いったいなにが原因で躊躇うことになるのかと、怒りのような疑問が湧き上がる。
そんな俺を見つめ返して。
「もうすぐ陽が落ちちゃうから、中に入らないと。あなたも風邪を引いてしまいます」
「……え?」
「ほら、風も出てきたし、そろそろ夜の支度時間だってニビアがさっき……、くしゅんっ」
リオノーラは小さくくしゃみをした。
その様子にハッとなる。
口元を押さえたリオノーラに手を伸ばして触れると、その手は冷えていて、思わず触れた彼女の頬まで冷たかった。
「分かった。中に入ろう」
慌てて身を起こして立ち上がる。
リオノーラは座したまま立ち上がろうとはしない。
その状態で彼女がシアンに差し出したのは、俺にも見慣れた内容の内政のことが書かれた書類だった。
「……なんだ? 急ぎのものか? 夕食の前に目を通すから、持ってきてくれ」
「いえ、ご当主様、こちらの采配と決裁はもう終わっております。ご確認いただくことは少のうございます」
「なに?」
驚いてシアンを見たあと、リオノーラへ視線を移す。
彼女はまだ座ったままだ。
「リオノーラがやってくれたのか?」
「……はい、今は重要度の低いものだけですが。軍関連のものは触っておりません。差し出がましいことでしたでしょうか?」
シアンがいくつかの書類を渡してくれたから、軽く目を通す。
そのどれもに不備はなく、簡潔に小さな指摘が書き込まれていた。
自分では気づきもしなかった使用人への心遣いが感じられる指摘だと思えた。
「……いや、…助かる。リオは…、……リオノーラはエルトフォード公爵家で内政を任されていたと聞いたが?」
「はい、亡き父と兄に指導を受けて」
生前何度も顔を合わせた亡くなった父の友人、エルトフォード前公爵、シフィアフラ殿。そして、あのソーラス殿のお墨付き。
寝ぼけた頭を殴られた気分になった。
ようやくリオと出会えたということに歓喜して混乱して、失うことに恐怖してばかりで、俺はリオノーラ・エルトフォードという女性のことを何も見ていなかった。
俺は確かに、リオのことを躍起になって探し出そうとするほどには想い焦がれていた。
でも、……目の前にいるのは確かにリオなのに、彼女は森で一人で暮らす魔女のリオではない。
リオノーラ・エルトフォード公爵令嬢。
家格だけならウォルフィンリードよりも上位の貴族令嬢。
そして、俺の妻になった女性。
話さなければいけないことがたくさんある。
ありすぎて何から話していいかまったく分からないほど、たくさん話し合わなければいけないことが。
たくさんの疑問と、たくさんの言い訳と、たくさんの告げなければいけない言葉がぐるぐるして、このままじゃ間違いなく、収拾がつかないほど一方的にリオノーラに詰め寄ってしまうだろう。
自分を落ち着かせるために、大きく息を吸った。
書類をシアンに返し、座ったままのリオノーラを見つめる。
「話をしよう、リオノーラ。ちゃんと、……ちゃんと」
「……はい」
お互いが神妙な面持ちになる。
「シアン、ネログラヴィも夕食の席に来るように支度を。今どこにいる? 部屋か? 訓練所か?」
「ネログラヴィ様は本日、側近たちと遠乗りに出ておられ、まだお帰りではございません。見立てではもうすぐかと。いくつかのダンジョンの位置を確認して戻る実地訓練が組み込まれた……」
「ああ、あれは今日だったのか。分かった。夕食は先に取るが、間に合いそうなら連れてきてくれ。リオノーラに紹介する」
「かしこまりました」
シアンが丁寧に礼を取る。
「確かに寒くなってきた。早く中に入ろう。夜支度をして、それから夕食を…、……リオノーラ?」
リオノーラが立ち上がろうとする気配が一向にない。
じっとその場に座ったままだ。
だから、立ち上がるために手を差し伸べ、エスコートの意志を示した。
「えっと、その、私はまだここにいます。アステライト様はどうぞ先に中へ」
「あんたを一人ここに残して行けと? 馬鹿を言うな。ニビアはどうした? まだなにかこの場所にいなきゃいけない用があるのか? だいぶ冷えてきた。このままじゃ間違いなくリオノーラのほうが風邪を引く」
もう一度、手を取れと差し出す。
リオノーラはひどく困った様子で、俺の手を取ろうとはしない。
一瞬、ゾワリと身の内側を嫌な感覚が走っていった。
白い結婚を望まれていた。
本当は、俺に触れるのも、触れられるのも嫌なんじゃ?
なら、今までの接触は何だったのか。
俺は、接触なんて微塵も望んでいないリオノーラにどれだけ無体なことを強いて……。
「ご当主様、よろしいでしょうか?」
「なんだ? シアン」
リオノーラから視線を外さないまま、恐れながらと声をかけてきたシアンに返す。
「奥様はご当主様が眠られてから目覚められるまで、あなた様を膝に抱いておられました」
「……うん?」
「お目覚めになられたときのご自身の格好を覚えておられますか? リオノーラ様の腰に抱きつき、その御御足を下に敷き、日が傾くまで眠っておられた」
「……、……」
シアンが言わんとしていることが理解できて、言葉は出なかった。
見下ろしたリオノーラが、首をすくめて逃げ出したそうに目を泳がせる。
だが、今、リオノーラは物理的に逃げ出すことなどできない。
なぜなら、何時間もこんな筋肉質の大男を膝に抱いて座り通していたのだ。きっと足が痺れてしまっていて、感覚なんて皆無。
手を取るのが嫌だとか、エスコートを受ける受けないだとかの問題じゃない。
立ち上がれない、ただそれだけ。
「すまん…っ!!」
詫びながら、半ば強制的にリオノーラを抱き上げた。
できるだけ足に触れないように注意を払いながら、そっと。
たったそれだけだったけれど、リオノーラは声にならない声で、痺れた足が感覚を取り戻そうとする痛みに苦悶した。
「本当にすまないっ!! 安心しろ、部屋まで運ぶ。足が治って、ちゃんと湯に浸かって温まってから夕食にしよう。話はその後に」
「は、い…っ」
どうにか返事をしてくれるのだが、可哀想に、痺れた足の痛みに耐える声は苦悶に満ちていて、なおかつ可愛かった。
こういうのは意地悪をしてしまいたくなるんだよな。大人げない子供心が湧き上がってしまって。
俺が手をそっとリオノーラの足に近づけたことに気づいて、彼女は引き結んでいた唇を慌てて開いた。
「触っちゃだめっ!! 触ったら怒るんだからっ!!」
咄嗟にその口から出てきたのはリオらしい口調だった。彼女はそれに気づいておらず、ただただ必死に俺の手を止めて、涙目で睨みつけてくる。
「あはっ、必死だ」
「ひどいっ」
声を上げて笑った俺を見て、リオノーラは自分の状況の情けなさにぎゅうと目を閉じた。
俺に抱き運ばれることに対して、リオノーラが拒絶するような反応はない。
心から安堵して、リオノーラを抱いたまま、城の中へと歩みを進めていった。
アステライト
リオノーラ
シアン




