リオノーラの過去 宰相ナノシィラ・ペイジフィール
「おっと、失礼いたしました。幻を見ていたようだ。私ももう歳ですかな? 若き日の憧れの人と、こんなにもうら若きご令嬢を見間違えるなどと」
まるで人当たり良く、彼は微笑んだ。
その一見物腰柔らかな笑顔に騙される人は簡単に騙されるだろう。
それほどまでに温厚で、優しげで、紳士的な態度。
そして、好意的な口調と、昔を懐かしむような寂しさと楽しさが含まれた内容。
父の名を出されて、憧れの人、などと告げられれば、多少なりとも親愛の情が湧いてもおかしくない。
普段であればくらりと気持ちが好意に傾いただろう。
でも、ここは蛇の巣の中のど真ん中で、私は同じく蛇にはなれない、どちらかというと餌になりそうな小動物に他ならない。
「政治の世界は笑っている者こそ警戒しなければいけないよ」と、エルトフォード公爵家内政の仕事を教わっている中で、何気なく父様が諭してくれた言葉を思い出した。
私がたいした反応も見せず、表情一つ変えなかったから、宰相はにやりと笑った。
「私はナノシィラ・ペイジフィール。お名前をうかがっても? ご令嬢」
家格だけを見れば公爵家のほうが上だが、役職を持っていない私自身は、城内ではナノシィラよりも立場は下だ。
名前を尋ねられてからようやく、口を開くことができる。
「宰相閣下にご挨拶いたします。リオノーラ・エルトフォードと申します」
ドレスを摘んで、丁寧にカーテシーを見せる。
「なんと、ソーラス殿の噂の妹御か。やはり、やはり」
ナノシィラは大袈裟に驚いて明るい表情でぱっと感情を表現して見せたが、礼を取る合間に見えた彼の目に、ゾワリと身の内が凍えた。
榛色という温かな色味の瞳のはずなのに、私を見ていたナノシィラの目には、優しさの奥に、征服者が支配を目論む、値踏みするようなものが含まれていた。
だがそれを、微塵も表に出してこない。
礼から身を正した私に、ナノシィラは柔らかな口調で会話を続けてきた。
「私はね、貴女の御父上が宰相職を退いた後、この重席を任されてね」
ということは、私が生まれたときから宰相の地位にいるということだ。約二十年近く、宰相として国のために王の側に居る者。
緊張で身が強張る。
下手なこと一つ言えない。
私のような小娘など、言葉尻一つ取って瞬く間に手のひらで転がしてしまうだろう。
「そう緊張してくれるな、リオノーラ嬢。私はシフィアフラ様によく世話になってね。学園も共に通ったのだよ? 私は二つ下だが、彼は憧れでね。お亡くなりになって残念だ。お身体の具合が良くなられたら、昔話をしにお会いしたいと思っていたのだが」
国王陛下が葬儀に参列するにあたり、宰相までが王城を離れるわけにはいかず、ペイジフィール侯爵家当主ナノシィラからは丁寧なお悔やみの手紙が届いていた。
ソーラス兄様が目を通していた、一等豪奢な葬送の手紙がそれだった。
「その節は、私ども残された者にも温かなお言葉をいただきまして恐縮に存じます。ありがとうございます」
「いや、なに。なにか私にできることがあれば、何でも頼っていただきたい。ソーラス殿にもご遠慮なくと何度も言っておるのです」
親切な言葉の中に嘘は含まれていないと思うのに、どうしても感じてしまう奇妙な怖気。
ぶるりと身が震えかかるのを、必死で堪えた。
「リオノーラ嬢はお幾つであったかな?」
「昨年、デビュタントを済ませました。もう少しで十九を迎えます」
「なんと。昨年のデビュタントの時期、私は外交に出ていたので式典には列席叶いませんでした。ふむ、なんとも残念だ。ぜひ、夜会等でお会いしましたら、一曲お相手を」
「申し訳ございません。恥ずかしながら私めは宰相閣下のお相手ができるほどダンスが上手くはなく、もったいないお言葉ですが、辞退させていただきたく存じます」
ほんの少し頭を下げてお相手を断ると、ナノシィラは目を細めた。
私の髪が流れた様子に、目を奪われたようだった。
「そのようなところも、シフィアフラ様に似て……」
ナノシィラの手が伸びてきて、私の髪先に触れた。
ゾワリと、嫌悪が込み上げたことに驚いてしまった。
「……リオノーラ嬢は、ご婚約者はおられるのか?」
突然、ナノシィラはそう尋ねてきた。
「いいえ、今はどなたともご縁はありません」
「ふむ、王太子殿下がまだ妃を迎えられぬ手前、どこの家門も遠慮してのらりくらりとしている節もある。言ってはなんだが、ソーラス殿もそろそろ焦りを抱いていただきたく思う」
「ご心配おかけします」
「私の子が男ばかりでなければ間違いなくソーラス殿に嫁がせたのだがな。リオノーラ嬢がこれほどのご令嬢ならば引く手あまたであろう。……神殿にやった三男を還俗させて…」
小さな声で、ナノシィラがなにか良からぬことを画策し始めたのがひしひしと感じられた。
知性深い榛色の瞳が、征服者の視線をもってして、私を見る。
これ以上、宰相ナノシィラと話していては危険だと肌で感じ取った。
どうやって逃げよう?
どうやって去ろう?
考えを巡らせ終わる前に、声が飛んできた。
「リオノーラ」
ソーラス兄様の声に、私は堪えきれずに安堵の笑顔を浮かべ、声のした方へと振り返った。
「ソーラス兄様」
側へやってきたソーラス兄様は、優雅な手つきで宰相ナノシィラからどれだけか私を離し、自分の側へ並べてくれた。
「これはこれは宰相閣下、ご機嫌麗しゅう。妹の話し相手になってくれたようですね。ありがとう」
「いいえ、ソーラス殿。楽しい時間を与えていただいたのは私のほうですよ」
にこりと微笑み合う二人の高位貴族の当主という立場を持つ男。
たったこれだけのやりとりの間の、その笑顔の裏にどれだけの思考と企みが巡っているのか想像もつかない。
「ゆっくり話をと言いたいところだが、王太子殿下が既にお待ちでね。行かねばならぬ。貴方との時間は、出立のその時になろうな」
「そうなりますかな。外交官代表の任に当たられている間、頻繁に手紙でのやり取りは行いますが、お帰りになった際には是非ともゆっくりと膝を突き合わせて酒を酌み交わしたいものです。その時を楽しみにしておりますよ」
「ええ、是非とも。その時は、父の昔話をまた聞かせていただきたい」
「喜んで席を設けましょう。それでは、ソーラス殿、リオノーラ嬢、良き午後をお過ごしくださいませ」
「宰相閣下も」
「ありがとうございます」
ナノシィラはにこやかに微笑んでから、少し離れて控えていた護衛を引き連れて去っていった。
私は、ソーラス兄様にエスコートを受けながら歩き出し、心底ほっと息を吐き出していた。
廊下を抜け、王太子殿下の庭までもうすぐという距離に来て、ソーラス兄様はようやく、その表情を大きく崩した。
「面倒な者に見られてしまったものだ」
それが誰を指して言っているかなど、聞かなくても分かる。
「宰相閣下は、やはり兄様にとっては政敵ですか? なにか因縁が? 父様のことを何度も口にされていましたが」
小声で問いかけると、ソーラス兄様はその端正な面が歪むほど、眉間にしわが寄るほど眉を寄せた。
「政敵、ではないと言ってもいいが、厄介なのだ。……ナノシィラ殿は、シフィアフラ父様の狂信者だ」
「……え?」
思ってもいなかった答えに、目を見開いた。
「彼は、父様が学園に通われる歳の頃から知り合いであり、敬愛を向け続けておられた。私が女だったら、間違いなくどんな手段を取っても嫁にと乞われていただろう。そして、彼の子にもし娘がいたら、私の妻にと押し付けられていただろうな」
そうならなかったのは、ナノシィラ自身が血統を重んじる貴族の常識をちゃんと弁えているからだろう。
お家存続が危ぶまれるようなことは、するつもりがないのだ。
「リオノーラのデビュタントの時期には彼は王都にいなかったから良しとしていたのだが、ここで会うとは。いや、彼はわざと、分かって、お前の顔を見に来たのだろう」
だからあの場所にいたのかと合点がいった。
「普通はリオノーラはミオシス母様に似ている、と誰もが思うだろう。だが、シフィアフラ父様のうんと若い頃の姿を知っている者にしてみれば、驚くほど面影があるのだ。城にある絵姿を見ただろう?」
「はい、驚きました。私が髪を短く切って男装すれば、姿だけ、父様の真似が出来ると思います」
答える私を見るソーラス兄様の眼差しに乗る、冷静な考察を経ての確信と、その果てにある憂慮。
「……それを、現実に望む男が、あの宰相閣下だ」
ゾワッと震えた。
そうだとすれば、私の髪に触れたナノシィラの手は、若い女の髪に触って喜んだという理由ではないだろう。
この長い髪が、邪魔だと思って笑ったのだ。
彼は私を通して、若かりし日のシフィアフラ父様を見ていた。
まごうことなき憧れの人を。
亡くなった人を、青春の日々を。
青ざめた私を、ソーラス兄様は優しく抱き寄せながら、王太子殿下の待つ茶席へと歩ききった。
リオノーラ・エルトフォード
ナノシィラ・ペイジフィール
ソーラス・エルトフォード




