リオノーラの過去 狼が来たぞ
常識や、身分による立場、それによる振る舞い、人の気持ちの機微、善悪の価値観、恋や憧れ、恐怖や、……孤独。
おおよそまともと言われる人として必要な常識は、母と暮らしているうちに身につけはしていたが、母の死以降に身につけたものは全部本からの知識だった。
暗記するほど読んだものは村で売って、新しい本を仕入れてもらう。
雑貨屋のおばさんは仲良くしてくれるけれど、彼女は死んだ母のことも知っている古馴染みだからこその態度。
その他の村の人たちは、私を見ても遠巻きだ。私もそれが当たり前だと思っている。
村で時々見かける冒険者なんかが興味深そうに声をかけてくるときがあるけれど、私が村人ではなく境界の森に住んでいる、と一言言うと、奇異の目で見てすぐに去っていった。
どれもこれも、まるで魔物を見るような目で。
あなたたち冒険者なんだから、人と魔物の違いなんて一目で分かるでしょうに。失礼しちゃう。
母仕込みの薬は、変わらずに生活の足しになってくれる。
今日は少し高値で売れて、余裕を持って仕入れてくれていた本を買えた。
薬を買い取った分の金が本代になって返ってくるという循環。雑貨屋のおばさんはしっかりしている。
分厚い本が三冊も。
鼻歌を歌いながら、境界の森の中、家路をたどる。
一緒に買ったバターと小麦粉と牛乳。
今朝狩った鶏肉を入れてシチューを作ろう。
明日の朝には柔らかいパンも作ろう。クッキーもたくさん作って、読書のお供にしよう。
すぐに食べてなくなっちゃいそう。
仕方ない、傷薬をもう少し量産しておいて、次も早めに村へ売りに行くつもりでいよう。
やることはたくさんあって、毎日不満はない。
私は一人でも、十分生きていけた。
もうすぐ、十四歳になるかという歳だった。
三冊あった分厚い本の一つは、他国の寓話や逸話をまとめた物語がいくつも入ったものだった。
おとぎ話に近いかな?
十綴られたお話の中の約半分に狼が出てきたので、内容の偏り具合にちょっと悪意を感じてしまわなくもない。
狼を悪者にしてしまいたくなる気持ちは、家畜を飼っていたら分からなくもない、らしい。
狼は賢く、群れの家族を大事にし、あまりにも狩りが上手い。
獲物として家畜を狙われた酪農家はたまったもんじゃないだろう。
ちなみに境界の森の中に、狼はほとんどいない。
群れを出てきた若い一匹狼なんかが時々いるらしいけれど、魔物とわざわざ戦う羽目になる手間を避けて、他所へ行ってしまうのが普通だそうだ。
狼や熊やら、人も家畜も襲う動物は、この国では比較的魔物の少ない南の方に生息しているのが当たり前。
だから、この物語たちの中に出てくるみたいに仔山羊たちを丸呑みしちゃう狼も、可愛らしい女の子とお婆さんを丸呑みしちゃう狼もこの森にはいない。
最後のお話は、傷付いた狼を怖々手当てした女の子が別の日に森で迷子になったのを、その狼がひっそり助けてあげるお話だった。
この本の編纂をした人、狼にどんな思い入れがあるんだろう?
とりあえず、最後は心温まるお話だったので満足です。
読み終えた本を本棚に並べて、今日はもう寝る準備。
いくら魔女の魔物忌避の力が働いていても、夜更かしをしていい理由にはなりません。
魔道具のランプの寿命も有限ですし。
たくさん作った傷薬の出来を確認して、多めに蒸留した消毒液の状態も確認してから、ベッドに入った。
明日はまた村に薬を売りに行って、少し食料を買って帰ってきたら、次の本を読み始めよう。
ここ数ヶ月、いつもなら一匹や二匹くらい魔物が迷い込んで来ている季節なのに珍しくそれがなく、魔石と素材を売って得られる収入がない。
森でなにか起こってるのかな?
たとえそうだとしても、私にはどうこうするだけの力はないから、何もできないんだけど。
明日も特に変わらない日が来る。
もちろん、それで何も不満はない。
ランプの明かりを消して、目を閉じた。
朝食に柔らかいパンを作って焼き、昨日の残りのシチューと一緒に食べた。
出来のいい順番に傷薬を並べ、家に残しておく分をより分ける。売る分を厳選して鞄に詰め、出来上がった消毒液も鞄に詰めた。
村でこれらを売って、村で全部消費されているとも思えない。もしかしたら雑貨屋のおばさんは、もっと大きな街なんかに私の薬を持っていったりしている?
そちらで自分の薬がどれだけの値段で売られているか。わざわざ街に持っていって売るなら、もしかしたら高く売れるのかもしれないけれど、たくさんのお金にそんなに興味はない。
お金持ちになりすぎたら、それが災いになるのは本の中ではよくあるお話だ。
私は私が不自由なく生活していけるだけのお金があればそれでいい。
綺麗な宝石も、華美なドレスも興味がない。
しいて言うなら、特級の薬が作れたときに入れる凝った細工のガラスの小瓶が欲しいくらい?
大きな街に行けば買えるのかな?
買うとしたらいくらくらい?
それが本数冊を買うよりもずっと高い、なんてことになったら本末転倒なんだけど。
売るもの以外に、いつも持ち歩く救急用品、雑貨屋のおばさんの子どもにあげるクッキー、お財布。すっかり村へ行く準備を整えて、忘れ物がないことを確認して、さあ行こうかと意気込んだ。
ちりっと、肌に触る違和感があって外へのドアを振り返り見る。
誰かがこの家の周辺に入ってきた。
そう分かる。
これは、この魔女が住む家にかけられた人避けのまじないの中心である私に直接伝わる知らせだ。
外の世界との関わりを極力避けた母が残したまじないの一つ。
通常、この家に外の者が訪れることはできない。
認識阻害、目的地到達阻害、視界阻害、そんな「たどり着けない」という呪いがたっぷりかかっている。
その呪いを越えて、この家があると認識できるもの、この家にたどり着くことができるもの、それは私(もしくは母)に直接招かれた者、もしくは、……傷を負って手当てを必要としている者か、理由あって切実に薬を必要とする者だけ。
慌てて外へ飛び出そうとドアに手をかけて、自分の浅はかな行動を悔いた。
いくら傷を負って手当てを必要としている者でも、訳あって切実に薬を欲している者でも、それが善良な者だとは限らない。
私が取るべき行動はそれを確かめるまでの間、一旦身を潜めることだったに違いない。
自分がドアを開けようとした勢いと同じく、外からドアを開ける勢いがあった。
息を呑む。
声も出ない。
開いたドアの向こうに立っていた、朝の光を背に受けた、……狼。
見事な金色の毛並みも血に汚れた、戦いをくぐり抜けてきたばかりの狼のような気迫を纏った、戦士。
私を見て、驚きに見開かれた片方の青空色の瞳だけが、逆光の影の中でギラリと光って見えた。
あ、私なんて丸呑みだ。
頭からバリバリ食べられちゃって終わりだ。
そう理解したとき。
ガクンと目の前で、狼のような戦士の身体は崩れ落ちた。
「え?! あ?! 嘘?! ひゃぁあっ?!」
私に向かって容赦なく倒れ込んできた彼の身体を、必死で支えた。
「ちょっ、大丈夫ですか?! ねぇ?!」
そのまま、支えきれなくて床に座り込む。
返事はない。
完全に、彼に意識はない。
抱きとめただけで、私の手に、腕に、胸に、服に血汚れ土汚れがべったりとついた。
膝の上に乗せた彼の顔、左のまぶたの上はパックリと裂けてジュクジュクした創面が見えている。
そして背中、壊れた鎧の下に折られた矢が刺さったまま。
これは間違いなく、一刻を争うという状況だ。
途端に頭の中が冷静になる。
この、傷だらけの狼のような戦士の人柄がどんなものか、なぜこんなにも傷を負ったのか、彼自身の善悪はどちらか、何もわからない。
彼を手当てして、目を覚ましたら、途端に殺されてしまうようなこともあるかもしれない。
それでも、私は動いていた。
壊れかけの鎧を脱がせ、鞄から取り出した応急用品から、まずはハサミを取り出して、彼の服を切る。
鍛えられた筋肉のついた背に深々と刺さった鏃。
まずはこれからどうにかしないと、肉が締まって摘出できなくなる。医者じゃない私が行える処置のギリギリ限界だ。
鞄の中に入れていた、売り物にするはずだった消毒液の蓋を開ける。
彼が完全に意識を失っていることは、幸いだ。
「痛むよ。……頑張って、狼さん」
返事がないのは分かっていながら、私は自分ができる限りの手当てを始めた。
リオ
血まみれの狼さん




