焼き菓子の香りが漂う夜
「いい匂い、してた?」
「廊下を越えて、俺の部屋まで来てたけど? ああ、廊下の窓開いてたからか!! こんなの、夜勤してる兵たちには拷問だろ?」
「そんなに? 腹ペコさんは君だけじゃないの?」
「腹減ってなくても、これはダメだってば」
笑いながら、オーブンから焼き上がったクッキーとパウンドケーキを取り出した。
少年の目が釘付けになったのも、また楽しかった。
「さっき夕方出てった軍が帰ってきたのが見えた。今頃申し送り中かな? きっとみんな、腹の虫鳴かせてるよ」
ということは、アステライトも帰ってきたということだろう。
彼が率いて出て行った兵の数はそこまで多くなかった。
少数精鋭というやつだ。
このパウンドケーキを切り分けて届けたら、一切れずつ帰ってきたばかりの兵たち皆に当たる程度にはあるかもしれない。
でも、迷惑かな?
「喜ぶと思うよ」
少年に内心を見抜かれた?! と思ったけれど、どうやら考えを口に出してしまっていたようだった。
「でも、おれも食べたい……」
「知ってる? 人にあげるのにパウンドケーキの端っこってあげないものなの。でも端っこが一番美味しくて、そして切ったら必ず二つあるんです。冷えてぎゅっと締まったものも美味しいけど、焼きたてはまた違った味わいなの」
赤い目がキラキラ輝いたのを確かに見た。
切り分けたパウンドケーキの端っこと、自分の分にしようと思っていた一切れを、少年の分として皿に乗せた。クッキーも忘れずに。
「美味い…っ!!」
熱々のパウンドケーキを頬張っている少年を見ると嬉しくって、自分が食べなくても十二分に満足だった。
「あ…、しまった。そもそも私、こんな格好じゃ兵の前になんて行けない……」
この前と同じ、すっかり寝衣なうえに肩掛けという人前に出るにはあんまりにもあんまりな姿だ。
「おれがお使いしてあげるよ。なんて言伝する?」
「言伝…? んん、お疲れ様です?」
「分かった、言っとく」
「ありがとう。ではお駄賃にクッキーをもう一枚」
「やったぜ」
まだ熱いクッキーは、すぐに少年の口の中に消えた。
クッキーを数枚だけ取り分けて、残りもパウンドケーキと同じ、この厨房にちょうどあった食材の持ち運び用の小さな籠に入れて、少年に託す。
「申し送りってまだまだ時間かかるんだよね?」
「普通はね。魔物の種類について話し合ったり、出現場所からの動向を見たり、次の行動傾向と効果的な武器と戦闘方法とかを次の部隊に引き継いだり、色々」
「わぁ、詳しいんだね。凄い」
思わず感心して褒めると、少年はちょっと照れた様子だった。
「まぁね。ゆくゆくはおれも戦うんだから、ちゃんと分かってなくちゃ」
ということは、この少年は城の下男というよりは戦士見習いや兵士見習いとしてここにいるのだろうと推測した。
「じゃあやっぱり、そんな皆さんのお腹に足しになるなら作ってよかった」
きっと、アステライトも食べてくれるだろう。
このあと部屋に戻ってくるまで待っていても、疲れているところにまた疲れる話をするのは気が引ける。
今日は諦めよう。
また明日の朝、話ができるか聞いてみよう。
「おやすみなさい。それ、よろしくね」
「任された。また今度もなにか作ったらおれにもちょうだいね?」
「うん。取り分けとく」
少年は空っぽになった皿をきれいに洗い、焼き菓子の入った籠を大事そうに胸に抱えると、おやすみを言って手を振って厨房から去っていった。
美味しく食べてくれると嬉しいな。
自分が持って帰る分のクッキーを布に包んで、厨房の片付けがちゃんと出来ているかを確認してから、ランプを持って部屋へと歩き出した。
一つだけ、クッキーを口に放り込む。
うん、美味しく出来ている。
堅牢な作りの城の中から、窓の外へ目をやる。
眼下の暗闇をランプの明かりが一つ、元気に駆け抜ける速さで移動していた。
きっとあの少年だろう。
焼き菓子を美味しく食べてくれたのは嬉しかったけれど、子どもの夜更かしはあまり感心しませんよ? それとも遅くまで起きていたい理由でもあるんだろうか?
あのころの歳の戦士見習いたちも、夜勤があるとか?
ううん、それはちょっと酷じゃないかな? 健やかな成長に睡眠は大事ですよ?
そういえば、アステライトはあれから少しでも休めたんだろうか?
昼間に見た彼には確かに疲れが見えた。
そして、夕方にまた精鋭を率いて出軍。
……さすがに心配になる。
アステライトに私の心配は必要ないかもしれないけれど、何度も、あの人がボロボロになったところを見た。
だからこそ、心配するなと言われても無理な話だ。
立場を伴った激務は、肉体的にも、精神的にもアステライトをボロボロにしてしまう。
そんな彼を真に癒せるのは、彼の『想い人』だけなんだろう。
どんな人なんだろうか?
あの人にそれほどまで想われて、結ばれないなんてどんな理由があったのだろうか?
これは興味?
……それとも嫉妬?
私が辺境伯夫人になったことを、その人が勘違いしてしまわないように最大限、協力することも話さないと。
嫉妬なんて、できると思えない。
どうせ、最初から勝ち目はないんだから。
アステライトは、……ステラは、私のことを。
「リオ」
部屋までもう少しという暗闇の廊下の先から、声がした。
低く低く、絶対的な捕食者である獣が唸った声のようだった。
私をそう呼ぶのは、今ではもうアステライトしかいない。
「アステライト様…?」
だから名前を呼び返すと、ランプの明かりをわずかに受けて、アステライトの青空色の瞳がギラリと暗い光を帯びて揺らめいたように見えた。
「こんな夜更けに…、どこへ行っていた…?」
問いかけるというよりも、問い詰めるような鋭さがあった。
厨房まで行っていた、と素直に告げていいものか悩んで、口に出しかけた言葉を飲み込んだ。
「部屋で眠りについたと報告を受けていたのに、……なぜ抜け出すような真似を?」
あなたを待っていて、暗い気持ちのまま眠りたくなかったからと言えばよかったのだろうか?
それも、言えなかった。
言ったところでなんになるのだろうと思ってしまった。
何も答えられずにいると、アステライトはゆっくりとこちらへ歩を進めてきた。
足音が聞こえない。
なのに、重さの気配だけを感じる。
気がついたら、一歩も動けず、指の一本も動かせず、声も出せずに少し開いただけの口が微かにわななくだけだった。
暗闇の中、迫ってくる青い瞳の鋭さに射抜かれて、身動きが取れない。
圧倒的なものに威圧される、というのはこういうことかと初めて知った。
完全に固まってしまった私の身体に、髪を梳いて頭に、アステライトの大きな手が回される。
「また、……俺を置いていくのか?」
至近距離で覗き込んでくる、青い瞳の中に炎が燃えているようだった。
「…ち、…が……」
必死に否定の言葉を紡ごうとした。
だが、震えた声がアステライトに届く前に、唇は唇で塞がれていた。
肉厚の舌が口内に入り込んで、蹂躙をはじめる。
この口づけは、駄目だ。
昨晩も散々味わわされた、思考が溶けるような、一方的で、強引で、でも優しくて気持ちのいい蕩けるような口づけ。
ぐいと乱暴に身体を抱き寄せられて、簡単に足が床から浮いた。
「アス…テ、ラ、…トさま…っ」
「……ステラと、呼んでくれ、……リオ」
ズルリと口の中から舌が抜き去られ、同時にそう乞われた。
舌先が、まだお互いの舌に触れているような近さで。
目を閉じて、首を横に振る。
それは、……もう居ない人の名前だから。
「お願いです…、私のことは、リオノーラとお呼びくださいませ……」
もう居ない魔女の少女ではなく、本来の、そして公爵令嬢となり、あなたの隣に立つ辺境伯夫人としての名を。
ぎちり、と、優しく身体を抱いていてくれたアステライトの手が片方、背中の後ろで拳を握った音が確かにした。
そのまま、抱き運ばれていく。
彼が向かったのは、私の部屋でも夫婦の寝室でもなく、アステライトの私室の方だ。
ひゅっと、息を吸った喉が鳴った。
また、昨日の夜のように、私は。
「アステライト様…っ」
思わずガシリとアステライトの胸のシャツに強く掴まったが、なんの抵抗にも、制止にもならない。
「あんたは俺の妻だ、……リオノーラ」
そう告げられて、名前を呼ばれて、恐怖に近い感情の中で、私は確かに歓喜した。
ああ、また彼に抱かれるのか。
……こんな私を、抱いてくれるのか。
そして、また明け方まで。
私は気を失うまで。
気を失ってもなお。
アステライトは眠ることなく、私を抱き続けた。
リオノーラ
夜食ドロボウの少年
アステライト




