アステライトの過去 四年前 誰の身にも起こり得ること
それからしばらくして、ようやく一段落がついた。
目下全ての用事も、仕事も、軍行も片付け、ほんの少しの時間をようやくの思いで得た。
逸る気持ちを抑えきれずに、リオのいる境界の森へ向かった。
何から話そう?
まずは、本当の名前から?
前途多難なのは、もう分かっている。理解している。
そもそも身分差がある。
俺が貴族だと分かったとして、リオは受け入れてくれるだろうか?
冒険者じゃないと明かして、家名も名乗って。
ああ、この目が無事なことも知らせなきゃ。
彼女の前で眼帯を取って見せたら、驚くだろうか? 怒るだろうか?
もっと、……もっと根本的な問題がある。
好きだと言って、妻になってほしいと伝えて、……リオはそれを受け入れてくれるだろうか?
彼女も俺を憎からずと思ってくれていると思う。
思いたい。
そう信じたい。
彼女のあの優しさが、誰彼構わず向けられるものだったとしたら、他の者にも同じように向けられるものだとしたら、……どうにかなってしまいそうだ。
腸が煮えくりかえるような、喉が締まって胸の奥に鉛を流し込まれるような、そんな感覚さえ味わう。
違うと信じたい。
今は、全て上手くいくと信じさせてほしい。
そして、それが叶ったら、彼女をあの森から連れ出して、城へ連れ帰って共に暮らそう。
母親の墓だって、城へ移せばいい。
墓地の中でも良い場所に立派な墓を建てて、いつだって好きなときに花を供えに通えるように手配して。
今すぐ俺とどうこうなるとか考えられないなら、いくらでも待つから、せめて、側にいてほしい。
危険な境界の森に一人、ではなく、俺の領で、俺の側で、俺の大事な人たち、俺を大事にしてくれる人たちに囲まれて、一緒に日々を過ごしてほしい。
馬を駆って、そのまま森へ入った。
しばらくは彷徨い探すだろうと思ったのに、やけにあっさりと、いともたやすくリオの家へたどり着くことができた。
「リオ!!」
まだ昼間の明るい陽射しの中、リオの名を呼びながら家のドアを開ける。
「リオ、どこにいる?」
声をかけた。
所在を確かめる声を、小さな家の中に響かせた。
しん、とした静寂。
高揚していた気持ちが、すうっと冷めていく。
「リオ?」
もう一度、諦め悪く名を呼んだ。
もう、分かっていた。
今この場所に、この家に、人のような大きな生き物の気配はない。
村にでも出かけているんだろうか?
勝手知ったる家の中へ足を踏み入れ、念の為にリオのベッドや、薬部屋、浴室まで丁寧に覗き込んだ。
もちろん誰もおらず、静まり返っているだけの家の中。
性格上、仕事柄、こうやって生きてきたという癖で、状況の判断が早い自信がある。
この場所の違和感を、すぐに感じ取っていた。
毎日使われているはずのテーブルに、触れれば跡が残るほどの埃が積もっている。
しばらく使われた形跡のない、台所の水まわり。
ざぁっと、血の気が引いた。
勝手口のほうへと回ってみる。
リオはそこによく食料を置いていた。
いつ採ってきたかも分からない野菜。それが、しなびて小さくなって完全に乾燥している。干し肉は吊るされたまま、埃を被っていた。
勝手口から外へ出て、家の裏手を見てみる。
いつもちゃんと積み上げられていた薪山が使われて減った形跡もなく、風雨に晒され、少しカビが生え、小さなキノコまで生えていた。
明らかに、数ヶ月は誰の手も触れていないと見ただけで分かる。
「そんな……」
確かめた全てに、答えが出ていた。
リオはここにいない。
少なくとも数ヶ月以上、この家から離れている。
なら、どこへ?
森の外で頼れる親戚なんかはいないと言っていた。
俺がまたここに来てもいいと言ってくれていた。
ならば、リオ自身にあの時にはまだ、ここから離れてどこかへ行く意思はなかったということだ。
何があった?
何かがあった?
まさか、俺みたいに誰かがこの場所へやってきて、リオを攫ったとか?
家の中に争った形跡はなかった。
いや、でも、リオのような体格の女性を攫うのなんて、それなりの男なら容易いものだ。
軽々と抱き上げることができたリオの身体を、その柔らかさや頼りなさを思い出して、さらなる不安で冷や汗が滲む。
いや、まだ決めつけるのは早い。
一番近い村へ行って、情報を集めるべきだ。
あの村へ食料を買いに行っていたことはちゃんと分かってい……。
馬を繋いだ場所へ向かおうと、裏庭にあたる場所を横切ろうとしたとき、気がついた。
雑草の生えまくったその向こう、明らかに人の手が入っていたと見て取れる、素朴な石碑がある。
間違いなく、リオの母親の墓だと教えてくれたもの。彼女が家の中から指さして教えてくれたもの。
花が供えられた形跡があった。
だがもちろん、その花もすっかり枯れている。
俺の目に止まったのは、見覚えのある石碑の方じゃない。
その隣にもう一つ、……見たことのない石碑が増えていた。
その前にも花が供えられ、枯れていた。
一つ目の石碑に彫られた名前は消えかけていて、二つ目の石碑には特に名は刻まれていない。
だが寄り添うように置かれた石碑は間違いなく、二つの墓が何らかの関係性を持った者たちのものだと示していた。
「……嘘だ、……うそ、だろ?」
おかしな笑みが勝手に浮いていた。
思わず地面に膝をついて、素手で新しい石碑の前の土を握りしめていた。
素手で土を掘り返そうとでもいうのか?
ハッとなって、我に返る。
もし、この下に本当に、……リオが埋まっていたら?
そんなわけがない、と思いながらも、頭の中で想像する。
このまま土を掘り返し、埋まっているリオを見つける想像だ。
土に直接埋めた人の死体は、どうなる?
時間経過によって、肉は腐り、土に還っていく。
どれくらいの時間が経っているかは分からない。それでも、骨や、髪は肉よりも土に還るのが遅かったはずだ。
想像の中のリオの姿が白骨と、無残なことになって残った髪だけがこの手に絡みつく、そんなものに変わった。
「嘘だ、嘘だ…っ」
頭を振って、何度も振って、立ち上がり、後退る。
俺に、この墓を暴く勇気は無い。
誰か、誰でもいいから、今すぐ答えをくれ。
この墓を作った誰かだ。その存在は、必ずいる。
この墓を作ったのは、リオ自身かもしれない。中に何を埋めたかはもちろん知らないけれど。
誰でもいい、リオは生きている、と言ってくれ。
繋いでいた馬まで駆け戻り、例の村まで急いだ。
だが、得られた情報は、もう何ヶ月もリオは村へ訪れていない、という絶望的なものだけだった。
俺はすっかり忘れていた。
軍を指揮し、命のやり取りをする最前線にいるにもかかわらず。
どこかで、自分が守っている人たちは、突然命を失うことなどなく穏やかに暮らしてくれるものだと信じていた。
そんなことはない。
そんなはずはない。
また明日、と笑顔で別れても、それが叶わないことだってある。
あの笑顔の別れが永遠の別れだった、なんてことは、誰の身にも起こり得ること。
俺はすっかり、忘れていたんだ。
こんなにも悲しい別れが、自分にも容易く降り注ぐことを。
アステライト(ステラ)




