アステライトの過去 五年前 看病
リオが目を覚ましたのは、夜も更けようかというころになって、ようやくだった。
何度目か、熱が下がりかけていることを額に触れて確認した後、彼女の寝息が穏やかになっていたことに安堵したとき。
「……ス、テ…ラ…?」
薄っすら開いた、熱で潤んだ彼女の瞳は、霧雨の中に朝日が昇り始めた夜明けのようだった。
「ああ、気分はどうだ? リオ?」
「さ、いぁ…く…、あた、ま、いたぃ…」
掠れた、弱々しい声。
でも明確に状態を伝えてくれる。
「ははっ、それだけ自分のことが分かってたら、大丈夫そうだな」
もう一度、額に手を当てて熱を確かめる。
「いろいろ言ってやりたいことも聞きたいこともあるけど、とりあえず水分取って寝ろ。明日の朝になればまた楽になってるはずだ」
「…ん……」
どうやら起き上がろうと身体を動かしたようだが、リオはほとんど動かなかった。
小さな肩がピクリと揺れて、細い指がかすかに動いた程度。
すぐにそれを理解して、リオを抱き起こした。
もう何度もやったように、危なげなく抱き支えて、今度はスプーンからじゃなくコップから直接湯冷ましを飲ませる。
「んぐ…」
コクリと飲み下す音がする。
意識があっても力の入っていない頼りない身体。柔らかな肢体。
気だるそうな目線の動き。熱に浮いた涙。
コップを離すと、濡れた唇が艶かしく思えた。着替えさせるために見てしまったリオの裸体を思い出しかけて、必死で違うことを考える。
「いくらなんでも子供相手に、そんな気にはならん」
考えた言葉が口に出ていたことには気づかなかった。
ぼんやりしたリオの目が、それでも不思議そうに俺を見た。
「さ、寝ろ。朝になったらなにか食べて、薬が飲めるといいんだが、……あるだろう? 風邪薬だとか、熱冷ましだとか」
リオをベッドに寝かせ直しながら尋ねると、リオはゆっくりとうなずいた。
「…ス、テラ」
「ん?」
「朝、まで、居て、くれ、るの?」
見上げてくるリオの表情が少し曇る。
「ああ、いるさ。俺だって意識もないまま三日間、意識が戻っても丸一日、リオの世話になったのに、そんなあんたがこんな状況になって放置していけるわけはないだろう? まぁ、…多少、……時間の制限がないわけじゃないが」
病気のときは、人恋しくなるものだ。
小さな頭をなでなでと撫でた。
「とりあえず明日の朝は絶対にいるから、安心して寝ろ。な?」
「ん…」
小さくうなずくと、リオはすぐにうとうとと目を閉じていった。
部屋の明かりをもっと落として、暖炉とかまどの火は落とさず、湯も沸かし続ける。
聞こえてくる穏やかな寝息。
……俺がもしも運よくここに来られていなかったら、彼女はどうなっていたんだろうか?
この家を見つけ出せる、訪れることのできる条件が未だはっきりしない。
舌打ちを返したい気分を、ぐっと押し込めた。
硬かったパンをミルクで浸して柔らかく煮込んで砂糖を加えたパン粥をリオは食べている。
俺は残ったパンにバターとチーズを乗せたものを焼いたやつ。
「他に食材は?」
「あ、るよ。勝手口、のそば…。冷える、ところに野菜、干し、肉も」
リオの声は、まだ少し掠れている。
食料がなかったというわけではないようだ。
突然、予期せず病気になって、熱が上がって、一人ではどうすることも出来なかったときに、たまたま俺がやってきた。そんな状況だったのだろうと推測する。
「薬はどこ? どれ?」
「説、明、し…にく、い」
あまり量がないはずのパン粥さえ全部完食できずに、リオはスプーンを置いた。
落とすんじゃないかと心配になる力の無さでコップの湯冷ましを飲み込んで、はぁ、とまだ熱っぽい息を吐く。
こっちもパンを食べきってから、リオの手から、危なげなくコップを奪い、彼女を優しく抱き上げた。
「薬どこ?」
抱き上げられたことに、リオは確かに驚いていたけれど、声を上げたり、過剰に反応するには体力が無さすぎたのだろう。
素直に俺に抱き運ばれることを受け入れて、こてんと胸に頭を寄せてきた。
その頼りなさ。
仕方ない状況とはいえ、弱った生き物から無条件の信頼を寄せられたという責任感と庇護欲を自覚して、どきりと心臓が大きく跳ねた。
リオが小さな指で、今まで入ったことのない部屋を指す。その指示に従った。
ドアを開けて中に入ると、いろんな草木が混ざった、深い森の中に来たような匂いに包まれた。
ああ、この家にずっと香っていたいい匂いの正体の一部はこれだったのか、と理解した。
薬部屋なんだろう。壁際には小さな引き出しがいっぱいある棚が並んでいる。
床の方の影になっているところに、見覚えのある果実酒の瓶が数本、寝かせて置いてあるのも見えた。
「ステラ…、あっち、の棚、引き出し…」
「ん?」
リオがまた指で示す方へ進む。一つの引き出しから、リオは油紙に包まれた、もう調薬してあるのだろう薬を取り出して手に持った。
「水はいる? 戻るよ?」
「うん、いる……」
また、胸に頭を寄せたリオをちゃんと抱き直して、薬部屋を出た。
寝室に戻り、そっとリオをベッドに戻す。
「湯冷まし汲んでくる」
「ありがと……」
礼を言ってくれるから、小さな頭をくしゃくしゃ撫でた。ついでに、手櫛を通して梳いてやる。
「汗、かいてる、から、手、汚れるよ?」
「そんなもの」
日ごろから、連日軍行を続けて、ともに戦う部下、戦士、兵士たちとなんら変わらない生活をすることもある自分からしてみれば、病気で熱に浮かされて汗をかいて、たった数日洗えなかっただけの女性の髪など、汚れている、に当てはまらない、と説明しかけて止まった。
「病人は気にしなくていい」
リオの髪から手を離すのは、正直惜しくもあった。
しっとりとした冷たさと相反する温かさを同時に感じることのできる黒髪は、放っておいても逃げるように指を滑っていった。
自分の髪とは全く違う手触りだ。
リオが手に持っていた薬の包みを開いたので、ハッとなって慌てて動き出した。
虜になっていてどうする、まだしてやらなきゃいけない世話はいくつもあるのに。
反省しながら、バリバリと掻き乱すように頭を掻いた。
やっぱり、自分の髪はリオの髪と比べるには差のありすぎるものだなと実感した。
薬を飲み下して息を吐く、リオの姿を見つめながら、ベッドの際に腰掛けた。
それだけでギシリとベッドが軋んで、リオの身体はなすすべなく揺れる。
「なぁ? さすがに一人で暮らすのは心細くないか? こんなふうに病気になった時には特に」
リオの手からコップと薬を包んでいた油紙を受け取ってやる。
「今回は、本当に突然、熱が上がって、動けなくなったけど、平気。もう、慣れましたよ?」
さも当たり前とばかりにその口から出た言葉に、思わず眉間にしわを寄せた。
「慣れ…って、……リオ、いくつだ? 一人になってどれくらい?」
「十六です。母が死んでから、……五年目? 国が国、場所が場所、なら、成人年齢です」
言っていることは間違ってない。
「確かに、俺だって戦士の称号は十六で受けた。でも女性のデビュタントは十八だし、王族の成人を認める伝統儀式は二十だ」
「……お詳しいですね」
感心さえ含んだ声音に、逆にカッとなる。
「十一の時からこんな森で一人で暮らして、一人で病気になることにも慣れた、とか、強がりをぬかすな。十六なんてまだクソガキだ!! ちょうど自分一人でなんでもできると自惚れる歳のな!!」
自分にも経験がある分、怒りが増した。
突然の怒号に、リオはビクッと飛び上がらんばかりに驚いた。
そして、キッと睨み返してくる。
「自惚れてなんていません!!」
強がっているけれど、まだ熱もあって、身体に力も入り切らないだろうに、言い返す。
精一杯の虚勢だと一目見て分かってしまう。
「一人でなんでもできるって思ってる時点で自惚れてんだよ。そういう年齢なんだよ。誰もが通る道なんだ。恥じる必要もないし、ムキにもなるな、また熱が上がる」
手を伸ばして、リオの額に優しく触れた。
俺の片手だけで、リオの顔が隠れてしまいそうになる。その小ささに改めて驚いた。
指の隙間から、黒い瞳が俺を見る。さっき睨みつけてきたキツさは、もうその眼差しの中にない。
「……ステラも、十六歳のころ、そんなだったの?」
信じられない、と言わんばかりの驚きに満ちた疑問を投げかけられる。
「ん? ああ、そんじょそこらの奴には負けないと自惚れてたから、父、に、ボッコボコにされて、包帯男になって、丸一日は寝込んだよ。忘れない」
苦笑いを浮かべて、情けなく顔を歪めて見せた。
「誰だって子供で、ゆっくりしか大人になれないんだから仕方ないさ。命に関わるような鼻っ柱だったら誰か大人が折ってやらなきゃいけない。でもそこには、ちょっとくらいの情はちゃんとあるものだぜ?」
俺をまっすぐに見ていたリオの目がわずかに泳いだ。
分かっている。
そんな大人が、リオの周りにどれだけいただろうか?
いや多分、きっと。
「一人で生きていけるってのはカッコいいかもしれないけれど、……もう知ってるだろ? 思っている以上に大変だし、辛いし、寂しいもんじゃないか?」
リオが少し、目を伏せる。
長いまつ毛が指に触れる感触があった。
「森の外へ出ようとは思わないのか? 誰か、他に頼れる親戚は?」
ふるりと小さな頭が揺れる。
それはどちらの言葉に対する否定だったのだろうか。
リオは口を引き結んだまま、何かを深く考えているようだった。
その姿をしばらく見つめていたが、小さくため息を吐いて、彼女から手を離した。
「今までちゃんとやってこられた、それはリオの生活がちゃんと成り立ってるってことだから無理強いはしないけど、良かったら俺の領…っ、ぐふんっ!! 俺が住んでる領に来ないか?」
おっと危ない。
言い間違いには注意だ。今は、まだ父が当主で、次期当主は弟、俺は軍も任される長兄の立場だから、「俺の領」という言い方は間違いじゃないが、将来的にはどうなるか。
弟が当主を継いで、俺はフォーレスタの近くに引っ張り出されていったら、……爵位はどうすんだろう? 深く考えてなかったや。本当は邪魔くさいから爵位も領地もいらん、なんて言ってみたいが、そうならないのが貴族の世界。
立場ってものがあるからなぁ……。
「ステラが住んでいる領?」
リオは顔を上げて、俺を見た。
興味と好奇心とが映し出された、たかが十六の少女らしい眼差しで。
「ああ、ここじゃない領。……ここは、エルトフォード公爵領だろう?」
そのことにはもう確信があった。
俺は何回も何回も隣領へ無断侵入を繰り返している隣領の当主長男です。見つかったら平謝りです。すみません、エルトフォード公爵殿。
リオはこっくりとうなずいた。
自分が住んでいる境界の森がどの領に位置しているかはさすがに知っているようだ。
「……ステラが言ってた、稲穂の海が見れる場所?」
「覚えてたんだ、その話。そうだよ、ほかにもなんかこう、楽しいところはあると思う。……全体的に大雑把というか、みんな大らかというか、血気盛んというか、豪快ではあるけど。そんなだから、いい薬を作ってくれるリオが来たら喜ぶと思うぜ?」
魔物が多い領、というのは別に言わなくても、元々境界の森に住んでいるリオには些事に違いない。
「あ、そうだ、俺の友が、リオが俺の手当てをしてくれた話をしたら、薬師の勉強をしに王…、王都へ来ないかって言っていた」
その提案に、リオの目が輝いた。
「薬師の勉強?」
あ、やばい。
フォーレスタに負けそう。
「あー…、うん、腕のいい薬師たちに推薦状を書くって。リオが俺を助けてくれたこと、あいつも感謝してて、……もちろん一番感謝してるのは俺だけどな」
にやっと笑うと、リオは困った様子で笑った。
「そんなに前のことを長々と引き合いに出さなくてもいいよ? それなら、私は今回ステラにたくさん看病してもらったことを長々と感謝しなくちゃ」
「ええ? いいよ、リオが元気になればそれで」
「私も同じ感じだけど?」
「いや、俺の方は本気で命に関わることだったじゃないか」
何を言いたいかは分かってくれているのだろう。
だからこそ、リオは口を開いた。
「病気や怪我の人たちに、それぞれ差があるとは私は思えない。……王様と平民の赤ちゃんと、命の価値は同じじゃないって分かっている。でも、……命は命だよ。私が作る薬ひとつ分で、王様は助かる可能性があるかもしれない、赤ちゃんは確実に助かる、その選択肢なら、私は赤ちゃんに薬を飲ませる」
「……場所が場所なら不敬罪って言われるぞ?」
コクリと、リオは静かにうなずく。
「分かってる。もちろん、そのあと必死になって王様のための薬を作ります。……ホントはみんな、助かってほしい。だから、ステラの手当てをしたのは私には当たり前。あなたが盗賊や貴族や、森の狼さんでも、私は手当てをしていた。そして、殺されたり食べられちゃったり? 頭からバリバリかじられながら、あーあ、やっちゃったって思うだけ。後悔はしないのです」
それから、リオはゆっくり頭を下げた。
「だから私こそ、ありがとう。病気の私の看病をしてくれて、ありがとう。心配をしてくれて、ありがとう。あなたの住む場所へと誘ってくれて、ありがとう。……でも、母のお墓があるこの場所から、私は離れられない。……ステラ、ありがとう、……親切な狼さん」
リオは顔を上げなかった。
感謝を述べて、俺を狼と呼んでくれた声が、かすかに震えていたことには気づいた。
そこに含まれていた、諦め。
自分で選び取ったはずなのに、どこにも行けないと、良かれと諦めている、その孤独と寂しさ。
これ以上なにを言っても彼女を追い詰めるだけだと分かる。
「分かった。……気が向いたらいつでも言えよ?」
かすかにうなずいた小さな頭をなでなでと撫でて、ベッドから立ち上がった。
「さ、薬も飲んだんだ。もう一度寝るといい。俺は暖炉の火を見てくる」
さっさとリオに背を向けて行こうとすると、背に声がかかった。
「ステラ、大丈夫なの?」
「ん? 何がだ?」
「時間の制限が、とか言ってなかった?」
「……あっ!! しまった!!」
慌てて窓へ駆け寄って、太陽の位置を見る。
鬱蒼とする境界の森の木々の隙間、西へ暮れかかる陽が見えた。
「あー…っ、今から、あのルート…、いや、村へ行って馬を…、あっちから…、でもリオの具合も…、今夜は看て、明日の朝に…」
考えがついつい口から溢れていた。
「ステラ、私、もう大丈夫だよ? 薬も飲んだし、食事も取れた。湯冷ましもいっぱい作ってくれているし、もう寝て治すだけ」
確かに、リオの状態は随分マシになった。
顔色を見ても、意識の明瞭さを考えても、この先順調に回復していくだろうと想像がついた。
「うー、あー、……悪い、もう行く」
行動を決めて、慌てて動き出す。
看病のために脱ぎ捨てていた冒険者風の装備を着込んでいく。
「うん。ステラ、忙しいものね」
リオがなにを指して俺が忙しいと言ったのか、また何を知っているのか、見当もつかない。
ただ身支度を進めながら、忙しいと言われた言葉にだけ反応して答えた。
「今、一緒に家業をやっている弟が、視さ…、仕事で他領に行っててな。父があんまりいい体調じゃないまま家業をこなしてるんだ。俺は今回は王都からの帰りでここに寄って、自由にできる時間はそう多くなくて」
言ってしまってから、ハッとなった。
「ごめんなさ……」
「リオのせいじゃない!! むしろ、このタイミングで来れてよかったと思っているくらいだ」
謝りかけたリオの言葉を切る。
「礼はさっき言ってくれたろう? もういいんだぜ?」
「ん…、ステラ、よかったらまた果実酒を持って帰って、お父さんに飲ませてあげて。毎日少しずつ飲むと身体に良いの。薬部屋の下の方の影に置いてあって」
「うん、さっき置いてあったの見た見た。いいのか? 前に貰ったの、人にあげちゃったんだけど美味かったって覚えててさ。きっと喜ぶ」
そう伝えると、リオの顔に隠しきれない、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
「いくつでも持って帰って」
「いや、荷物になるから二本だけ貰ってくよ、ありがと」
お言葉に甘えて薬部屋から例の果実酒を鞄に詰め、帯剣し、最後に外套をまとった。
「じゃあな、リオ、あったかくして寝るんだぞ? 早く良くなるといいな」
「うん、ステラ」
最後にもう一度、リオの頭を撫でた。
愛用の籠手を嵌めた手で触れたリオの髪の柔らかさや温かさが、俺自身の日常と非日常をあやふやにする気がした。
身をひるがえして、振り向きもせずに家を出た。
おかしな迷いは要らない。
戦えなくなるからだ。
そんなことしか出来ない手を、それでも失うわけにはいかない。
弱くて優しいものを守るために、拳を握り、剣を握ろう。
そんな、魔物を屠る手で、弱くて優しい儚いものに触れる。
きっと、弱くて優しくて儚いものたちこそ、強い存在なのだ。
寂しくても一人で生きることを選べたり、ありがとうと心から言ってくれたり。
『次は一年後なんかじゃなくて、もっと早く会いたい』
そう願いながら、帰路を駆けた。
もちろん、その願いは叶いはしなかったけれど。




