第十二話「殿下の隣」
第十二話「殿下の隣」
王家主催の春の夜会の招待状が、ヴァルロワ公爵邸に届いたのは、五月に入ってすぐのことだった。
父が封を開けて、アメリアに手渡した。招待状には、ヴァルロワ公爵家への招待と、令嬢アメリアへの個別の記載があった。
「殿下からの配慮だろう」
父が静かに言った。アメリアは招待状を見つめて、小さく頷いた。
王家主催の夜会は、社交界で最も格式の高い場だった。そこに、ヴァルロワ公爵令嬢として招かれた。侯爵夫人としてではなく、アメリア=ヴァルロワとして。
当日、アメリアは深い青のドレスを選んだ。
青は、クロードが好きだと昔言っていた色だった。それを思い出して選んだわけではない——と自分に言い聞かせたが、鏡の前に立ったとき、少し頬が温かくなった。
王宮の大広間は、煌びやかだった。
シャンデリアの光が満ちて、色とりどりのドレスが花のように咲いている。社交界の頂点と呼ばれるこの場所に、アメリアは五年ぶりに、ヴァルロワ公爵令嬢として立った。
侯爵夫人として来ていた頃とは、何かが違った。
あの頃は、常に夫の評判を守ることを考えていた。言葉のひとつ、笑顔のひとつが、モンテ侯爵家の評価に直結していた。でも今夜は違う。ただのアメリアとして、この場所に立っていた。
父と並んで会場を進んでいると、向こうから人波を割って近づいてくる人影があった。
クロードだった。
深い紺色の礼服を纏い、王太子としての威厳を漂わせながら、でもアメリアを見た瞬間の目だけは——いつもの、あの不器用な目になった。
「アメリア」
クロードが名前を呼んだ。周囲の視線が、一斉に集まった。
「殿下、今夜はお招きいただきありがとうございます」
アメリアは淑女の礼をした。クロードは少し眉を動かした。
「そういう挨拶はいい」
「夜会の場ですから」
「……まあ、そうか」
クロードは少し口元を緩めた。それから父に向かって、丁寧に挨拶をした。父も深く頭を下げた。その様子を見ながら、アメリアは少し不思議な気持ちになった。
幼馴染だった人が、今や自分の父に頭を下げている。時間が経ったのだと、改めて思った。
父が「では私は挨拶回りを」と気を利かせて離れた。
クロードがアメリアの隣に立った。自然な動きだったが、周囲の視線がさらに集まるのをアメリアは感じた。王太子が、特定の令嬢の隣に立つ。それだけで社交界では充分すぎる話題になる。
「目立ちますよ」
アメリアは小声で言った。
「構わない」
「私は構います」
「なぜ」
アメリアは少し考えた。
「……噂になります」
「噂になっていい」
「クロード」
「俺はお前の隣に立ちたい。それだけだ」
アメリアは言葉に詰まった。
シンプルな言葉だった。飾りも、言い訳もなかった。ただ真っ直ぐに、立ちたいと言った。
それ以上、何も言えなかった。
ふたりは並んで、夜会の会場を歩いた。クロードが挨拶をする相手に、アメリアも丁寧に応じた。誰もが、ふたりを見ていた。好奇の目もあったが、温かい目の方が多かった。
夜会の中盤、マリアンヌがアメリアの隣にするりと滑り込んできた。クロードが別の貴族と話している隙に、扇で口元を隠しながら囁く。
「ねえ、社交界がひっくり返りそうよ」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃないわ。王太子殿下がずっとあなたの隣にいるのよ。みんな目が飛び出しそうになってる」
「困ります」
「困らなくていいの。あなたが困る必要は一切ないの。むしろ——」
マリアンヌが、少し声を落とした。
「見て。あちらの隅」
アメリアは視線をそちらに向けた。
人波の向こうに、ベルナールがいた。招待されたのか、それとも他の家の同伴として来たのか——いずれにせよ、場違いな顔をしていた。
クロードとアメリアを見て、完全に固まっていた。顔から血の気が引いていた。隣にはイザベルがいたが、イザベルも同様に蒼白だった。
「あら、お気の毒に」
マリアンヌが、全くお気の毒とは思っていない声で言った。
アメリアはベルナールの顔を、しばらく眺めた。
五年前、自分はあの人の後ろで微笑んでいた。今夜は——王太子の隣に立っている。
怒りはなかった。憎しみもなかった。ただ、遠い場所を見るような気持ちで、かつての夫の青ざめた顔を見た。
そのとき、クロードが戻ってきた。
「何を見ている」
「何でもありません」
アメリアはクロードに向き直って、微笑んだ。
今度は、本物の微笑みで。
「次の曲が始まりますね」
「……踊るか」
「ええ」
クロードが手を差し伸べた。アメリアはその手を取った。
ふたりがフロアに出た瞬間、会場がわっと沸いた。
アメリアには、もうベルナールの顔は見えなかった。
ただ、クロードの金色の瞳だけが、真っ直ぐにこちらを見ていた。
第十二話 了




